二条から丸太町まで歩く
(平安宮跡を訪ねて二条城界隈)

                                    2008年7月9日
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今日は前回、今出川から二条まで歩いた続きだ。
前回行きそびれた場所を中心に歩くことにした。
12:18、出発した。地下鉄東西線で二条城を目指す。12:51、二条城駅に着いた。暑い。
平日なのにけっこう観光客がいる。お、塀に京都大骨董祭のポスターがある。これは京都新聞連載の壷霊の話の発端になった骨董祭なのだ。

散策図 大骨董祭 二条城
二条城の門を横目で見ながら歩く。この辺に京都所司代や板倉勝重の屋敷跡などがあるはずなのに。
みつからない。
とことこ歩いていると13:05、子育地蔵尊なるものがあった。
子育地蔵尊なるものは京都だけでなく、全国あちこちにある。ここのは道端にあったが特に謂れもなさそう。
やがてNHKのそばの児童公園についた。13:12だった。

このあたりは800年ほど前に源頼政が鵺を退治した現場なのだ。     
今は児童公園とは。
血の着いた矢じりを洗った池も復元されている。

子育地蔵 鵺池 鵺池のいわれ 鵺大明神 鵺の碑
そばには鵺大明神なるものもある。鵺池碑なる石碑もある。いいね。伝説は。
ちなみに鵺は頭はサル、胴はタヌキ、足はトラ、尾はヘビで空を飛ぶ怪物なのだ。
いろんな伝説を読むと死骸は鴨川に流され、大阪に流れ着き、最後は芦屋に流れ着いたそうな。大阪と芦屋には鵺塚が残っている。(あほなことにどっちも見に行ってきたよ)
ここから丸太町通りに出て二条城北小学校に向かう。

小学校の端っこに『平安宮内裏南限と建礼門跡』なる標識がある。13:20だ。
建礼門って御所の南門だよな。ここは平安宮の南門の跡なのか。
よく名前を聞く建礼門徳子ってたしか平清盛の娘で高倉天皇の中宮、安徳天皇(言仁親王)の母だったよな。

建礼門跡 平安宮内裏内郭回廊跡 プラッシー
さらに歩いて次の筋を左に歩くと13:24、『平安宮内裏内郭回廊跡』なる標識がある。
内裏内郭回廊というのは、天皇の住まいである内裏を取り囲んでいた回廊のことだ。
フェンスで囲われた場所が発掘現場なのだろう。何にもない。
ところで平安宮ってなんのこと?いろいろ調べると平安京の宮城を言い、天皇の住まいである内裏のことらしい。ここが政治の中心で中央北端に配置されていた役所群のことらしい。
大内裏(平安宮)であって内裏、朝堂院、豊楽院、さらにその他の役所(官衙)群が軒を並べる、平安京の中枢区画、政治の中心だったらしい。
たびたび政変や失火のためたびたび焼失し、平安中期頃から再建されていない。今ある御所は1331年に光厳天皇が里内裏(別宅か?)だった土御門東洞院殿を皇居として定めたものだそうな。
里内裏がいまの御所のように壮大ということは、本来の内裏はもっと壮大だったんだろう。
大極殿遺址道 大宮姫命稲荷
この先、家の軒先に『プラッシー』の古い看板がある。なつかしいね。
千本通りに出て南へ下っていくと13:28、道路わきに『大極殿遺址道』なる石碑がある。
おお、けっこう広いね。『大極殿遺址』なる大きな石碑が立っている。
そうか、この辺が大極殿だったのか?
ここから丸太町通りに出るところに『平安宮朝堂院跡』がある。13:33だった。
数分、丸太町通りを西に歩き、路地を入ると13:36、『平安宮豊楽殿跡』がある。
ここもフェンスに囲まれ、何にもない。
出世稲荷
ここから再び千本通りに戻り、二条に向かって歩く。
途中、京都府保健衛生専門学校の先、児童福祉センターの前の少し奥まったところに13:43、大宮姫命稲荷なるものがある。
昔は神祇官西院坐御巫の祭神八座のうち、大宮賣神の名跡を伝へたものらしいが、東京遷都以降衰えてきたらしい。
ここから路地裏を歩き、二条中学校の脇を通っていくと13:47、出世稲荷に出た。
裏口から入った。
この稲荷は豊臣秀吉にゆかりがあるという。
また開運出生・衣食住・地位名望・衆人愛敬・農工商その他一切の生業に大繁栄・延命長寿と病気平癒・千客万来・武運長久・善知識・金銀財宝と、何と10種類もの福が授かるという。本当かいな?
ここからさらに千本通りを二条に向けて下ると、13:54、歩道の脇に『此附近平安宮大内裏朱雀門跡』の石碑がある。
はるかな昔、このあたりは都大路を二つに分ける朱雀大通りがあって賑わったんだろう。
いまは何にもないが。
此附近平安宮大内裏朱雀門跡

この先、中京中学校の裏を歩いて何かないかなとキョロキョロしながら二条城まで行く。堀に映えた二条城の櫓もいいね。
中京中学校の角に二条城撮影所跡の標識がある。
明治四十三年に開設された日本映画発祥の地らしい。

二条城撮影所跡 大学寮跡 中京中学校
名前だけは知っている牧野省三監督がここで最初の作品、忠臣蔵を撮ったらしい。
ここから二条駅に向かう。途中、中学校の塀に『大学寮跡』の標識がある。
こんな中学校で学ぶと頭脳明晰になるか?それとも名前負けするか?
目と鼻の先が地下鉄二条の駅だ。

これでこのあたりの散策は一応終了した。さあ、どうしよう。少し歩き足りない。
千本通りを再び北へ歩き、丸太町通りの一筋南、郁芳通りを丸太町に向かって歩く。
お、ちょっと珍しい地蔵さんがある。とことこ歩いているとNHK、鵺大明神に再びやってきた。ここから丸太町通りに入る。
堀川丸太町の交差点に着いたのが14:25だ。
やあ、また二条城に着いた。

地蔵さん 板倉勝重
京都所司代や板倉勝重の屋敷跡などが見つからなかったのが気になる。ウロウロしてるうちにあった。ひまわり幼稚園の塀の柵の間からちょこっと覗いているのが見えた。14:28。どうやらここがそうらしい。それにしてもこんなにわかりにくいとは。

ここから水のない堀川を渡って竹屋通りを丸太町駅まで歩く。
この通りの周囲には何にもない。
暑い暑いと思いながら歩く。やっと14:39に到着。
目の前に京都新聞社がある。
ああ、今、京都新聞で内田康夫の壷霊を連載しているな。
浅見光彦に協力する女性新聞記者の勤務先だ。
ここから地下鉄で京都駅へ。15:09だった。

京都新聞社
ここからJRで山科へ。15:50、帰宅してみた万歩計は一万七千歩だ。
暑かった。かえってすぐにシャワー、いい気持ち。
しかし、少しだけしんどかった。
この時期、いつも思うのだが何で日本の夏はこんなにじめじめして暑いんだ。もう少しからっとしてたらいいのにね。
この夏はすこし、歩くのは控えよう。

鵺大明神
仁平年間(1151−53年)。当時の近衛天皇は毎夜、午前二時ごろになると御殿の上に暗雲が立ち込め、そこから聞こえる奇妙な鳴き声にうなされていた。心配した公卿たちは弓の名手、源頼政に退治を依頼する。頼政は「武士は反乱者を討つもの。怪物退治とは聞いたことがない」と不満だったが、勅命のため応じた。決戦の夜。東の方から黒雲がわきたつ。頼政は雲の中に怪しい姿を見つけ矢を射た。悲鳴が聞こえ、何かが落ち、駆けつけると、頭はサル、胴はタヌキ、足はトラ、尾はヘビで空を飛ぶ怪物「鵺」だった−。
「子どものころから話を聞かされ、鵺は姿が見えない不気味な悪者、頼政は英雄と思ってました」と近くの酒販売業、後藤悦三さん(七三)。「鵺池は格好の遊び場でした。ガマガエルがいて、三回ははまりましたよ」と懐かしげに話す。池の北には小さな社があり、怪物の鵺を「大明神」として祭っている。
横には石碑が建ち、江戸時代には邸宅があったがその後、監獄、公園に変わったと伝えている。碑は一七〇〇年、頼政の遠縁が邸宅を訪れたのを機に碑が建てられ、一九三六年に地元住民が復元したという。

大内裏(だいだいり)
平安京の中央北端に配置されているのが大内裏(平安宮)である。内裏、朝堂院、豊楽院、さらにその他の役所(官衙)群が軒を並べる、平安京の中枢区画である。
朝堂院は大極殿を正殿とする建物群で、天皇の即位礼や外国使節の謁見など、国家の重要儀式にもちいられる場所である。朝堂院の正門を応天門と呼ぶ。左右両翼に栖鳳楼、翔鸞楼の両楼閣をしたがえており、いやがうえでも偉容を誇示していたことであろう。大納言伴善男が失脚した「応天門の変」(貞観6年〈866〉)によってこの門が炎上させられたことも、この門が平安宮を象徴する建物のひとつと認識されていたことによるものであろう。応天門をこえて会昌門をくぐると、「朝堂十二堂」が並ぶ壮大な内庭が広がり、そのはるかかなたに大極殿の偉容がそびえている。
大極殿は、朝堂院の正殿であるとともに平安宮の正殿であり、日本古代国家にとって最重要な建造物であった。建物は九間四面(9間×2間の身舎の四方に庇をめぐらす)で、基壇の規模は東西177尺(約53メートル)、南北70尺(約21メートル)であったと推定されている。桓武天皇の造営した第一次大極殿は貞観18年(876)の火災で焼失ししたため、すぐに再建工事がおこなわれた。これが第二次大極殿である。しかしこれもまた康平元年(1058)に焼失し、延久4年(1072)にいたってようやく第三次大極殿が再建された。そして、治承元年(1177)の「安元の大火(太郎焼亡)」によって三度焼失した後は、ついに大極殿が再建されることはなかったのである。
最近の研究では、第一次・第二次・第三次の大極殿はそれぞれ構造を異にしていたということが判明している。平安神宮に再建された大極殿は『年中行事絵巻』の描写などにもとづいたもので、延久再建の第三次大極殿をあらわしている。単層で屋根が入母屋造であることが特色である。それに対して、第二次大極殿は同じく単層ながら、屋根が四柱造であることが異なっている。第一次大極殿については判然としないが、平城宮大極殿との比較検討などから、おそらくは重層の入母屋造であったと推定されている。
大極殿の跡は、現在の千本通丸太町の交差点付近にあたっている。その西北の児童公園の中には明治28年(1895)の平安遷都1100年記念祭の時に建てられた「大極殿遺址」の巨大な石碑があるが、これは本来の大極殿跡からはやや位置が北にずれていることが判明している。千本丸太町交差点の西北角の道路上では、道路改修工事にともなう小規模な調査がおこなわれ、大極殿基壇の南側の落ち込みが確認されている。

建礼門院徳子
建礼門院徳子(けんれいもんいん・とくこ、1155〜1214)。平清盛と平時子の次女。幼くして高倉天皇の中宮となり、安徳天皇(言仁親王)の生母となる。
高倉天皇が譲位して、安徳天皇が即位すると、「国母(天皇生母)」となった。
(藤原氏以外で中宮、国母になったのは数百年ぶりでした。)
高倉上皇の死後、「建礼門院」の称号を賜り、建礼門院と称した。
(建礼門は、御所の正面の門であり、その門の名を名乗ることは相当の名誉とされた。)
安徳帝が平家一門とともに都落ちした際、同行して一の谷、屋島、壇の浦と転戦した。壇の浦では、安徳帝らと海に身をなげたが助けられ、源氏の捕虜となったという。京都に帰洛の後、出家している。
京都・栂ノ尾にいた明恵に出家の導師をたのみ、御簾から手をだしたところ、明恵に「出家するということは、王位、身分のこだわりを捨て、導師に師事するもの。御簾から手を出すとは本当に出家する気はおありか」といわれて、御簾を上げて明恵を上座にして髪をおろしたという。
やがて、大原に隠棲して、59歳でその生涯を終えます。

大極殿
大極殿(だいごくでん)は、古代の朝廷の正殿。大内裏朝堂院の北端中央にあり、殿内に高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。
平安時代中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が内裏の紫宸殿へ移行していくのに従い衰微していった。1177年(治承1)焼失ののちは再建されることなく廃絶した。京都市中京区千本丸太町の旧跡には、1895年(明治28年)に平安奠都1100年を記念して建てられた石碑を見ることが出来る。
なお、平安神宮は平安宮朝堂院を模して建立されたものであり、外拝殿として大極殿が8分の5の規模で模して建設された。

朝堂院
朝堂院(ちょうどういん)とは古代の都城における、宮城(大内裏)の正庁。朝堂院は別名「八省院」ともいい、もとは八省の官吏が国事を執務し、天子が決裁するための官庁であった。

豊楽院
豊楽院(ぶらくいん)とは、平安宮大内裏において朝廷の饗宴に用いられた施設
朝廷の機能が徐々に内裏(天皇の私的住居)へ移行するに従って、朝廷の饗宴は紫宸殿で行われるようになり、その地位を低下させていった。10世紀には廃墟同然のさまであったといわれ、1063年(康平6年)に全焼したのち、再建されることはなかった。

大宮姫命稲荷大社
神祇官西院坐御巫の祭神八座のうち、大宮賣神の名跡を伝へたもので、その位置はもとの神祇官西院の故地と考へられ、明治初年までは、付近に宮内省坐神三座(園、韓神社)の遺址なども芝生となって存していたが、後京都府監獄の敷地となり、今またNHK京都放送局の敷地となって古観を全くどどめない。当社もいつのころからか稲荷大明神と称せられ、特別の信者のみのまつるところとなつた。現在の社地は竹屋町通路面上を占有、そこに生えた巨木の根もとに小さなほこらが南面してまつられ、東西に通ずる竹屋通り筋にあたり、石鳥居と大きい社号標が建てられている。大正十二年東宮殿下の御渡欧を記念して近隣の工場主の寄進するところである。

出世稲荷
「出世稲荷」という、誰もがあやかりたい名前を持つのがこの神社。しかも開運出生・衣食住・地位名望・衆人愛敬・農工商その他一切の生業に大繁栄・延命長寿と病気平癒・千客万来・武運長久・善知識・金銀財宝と、何と10種類もの福が授かるというのもうれしい。
 出世といえば誰もが真っ先に思い浮かべるのが豊臣秀吉。秀吉は幼い頃から稲荷五社の神を信仰し、いつしかこの五柱の神様が一柱の大活神になって、自分を守護してくれると考えるようになったとか。それ以来、やることなすことすべてがうまくいき、ついには天下統一を果たすことになった。関白太政大臣の座に就いた秀吉は、天正15年(1587)、聚楽第の造営の際に稲荷社を勧請。翌年には時の帝・御陽成天皇が聚楽第に行幸し、盛大な催しが営まれた。このとき稲荷社に参拝した天皇は、この神社に「出世」の称号を与えたという。その後、この出世稲荷は公家や大名の開運出世祈願の社として栄え、聚楽第取り壊し機に寛文3年(1663)この地に移された。江戸時代中期には隆盛を極め、鳥居の数も329本に達したとか。社殿の規模は小さくなったが、今も人々の信仰は変わらず、多くの参拝者で賑わう。

朱雀門
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。平安宮朱雀門は現在の京都市二条千本通にあったといい、旧跡には小さな石碑が立つのみである。

板倉勝重
板倉勝重(1545〜1624)は,慶長6(1601)年初代京都所司代に任ぜられ,同8年以降,この地に建てられた官邸に住し,勝重の子,二代所司代重宗(1545〜1624)も同邸を利用した。これは堀川屋敷とも称され,京都所司代邸の一郭をなした。この石標は板倉氏官邸跡を示すものである。

二条城撮影所
日活の前身である横田商会は、日露戦争が終結し記録映画人気に陰りが見え出したため、劇映画の制作が急務になった。だが、横田商会には演出に精通した人材が不足しており、1908年に映画興行で利用していた千本座の座長の牧野省三に協力を求めた。牧野が芝居に精通した人物であり、なおかつ千本座の役者をそのまま使える利点があったからである。牧野は期待どおり原作設定から演出・監督までその才能をいかんなく発揮した。
劇映画制作が軌道に乗った横田商会は、1910年に京都初の撮影所を二条城・西南櫓の西側、京都市中京区智恵光院通り押小路(現在の中京区西ノ京北聖町)に建設する。当時、一帯は一面の田地であった。敷地面積は約300坪で板敷の舞台に開閉自由の天幕を張り、背景は全て書き割りの簡素なつくりであった。役者達は近くの民家で着替えや化粧をして舞台に上がったという。またこの土地は、京都の侠客・千本組の笹井三左衛門の所有地であったが、牧野の義父が三左衛門の兄弟分であった縁で横田商会に貸し出されたものであるとされる。

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