知られていない東山散策

                                  2009年7月13日
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7月11日毎年恒例のLMO全国の会が大阪で挙行されました。
今年は関西の担当ということで大阪でありました。悪丸君も幹事の一員ということで12:30、会場に到着、準備の上、14:00に第一部開始。
引き続いて18:00から第二部、懇親会を開催しました。
まあ、皆さん、いろんな意味ですごい人ばかり。悪丸君は早めに退散しました。
翌、12日は関西の各グループ主催のオプションツアーということで、大阪、堺、神戸、京都と分かれて一日散策しました。

11:00、京都・京阪三条駅に集合した。参加者は3名でした。京都ではあまり観光客の行かない、場所を行こうということで(悪丸君の独断と偏見)出発した。
11:09、三条駅前の「高山彦九郎先生皇居望拝趾」を過ぎて三条通り、旧東海道を東に歩き出す。しばらく歩くと大将軍神社がある。
11:16だった。

高山彦九郎皇居遥拝 大将軍神社とイチョウ
ここは、桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため、京の四方に祀られた大将軍神社のうちの東南隅の一つです。ここの森には昔々、鵺が住んでいたという。
大きなイチョウの木がある。ここらに鵺が住んでいたのか?

東山通りをさらにあるいてテレビドラマでよく出てくる古川商店街を過ぎ白川沿いに下る。11:33、明智光秀の塚に到着した。
隣の和菓子屋さんで光秀饅頭を一個試食、うん、うまい。冷たい麦茶をいただきながら話す。

光秀の墓 和菓子屋さん ツバメの子
話し好きのおばちゃんだ。先祖代々、昔から光秀の首塚をお守りしているそうだ。
寺院への出入りに必要だった鑑札も見せてくれた。へえ、古いな。
軒先には可愛いツバメの子が三羽。口をあけて親の帰りを待っていた。
その先、白川沿いには一本橋(行者橋)がある。11:58だ。
比叡山の千日回峰行を行う行者がこの橋を渡るためだそうだ

その前に福高大明神、お狸さんがあった。
自由にお入りくださいと書いてある。入ってみる。狭い大明神、お狸さん。ただし狸はいない。
説明文があったので掲載しておきます。
ここから一本橋を通り、白川沿いに歩いて辰巳大明神へと行く。12:13だった。

白川 一本橋 福高大明神
このあたりにはけっこう修学旅行の生徒がいる。やっと戻ってきたんだ。インフルエンザのときはほとんど姿を見なかったのに。
白川沿いに歌人、吉井勇の歌碑があった。悪丸君は知らなかったが祇園をこよなく愛した歌人だそうな。歌碑には「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」あった。
もうお昼を過ぎたがさらに歩く。
このあたりにはけっこう修学旅行の生徒がいる。やっと戻ってきたんだ。インフルエンザのときはほとんど姿を見なかったのに。
白川沿いに歌人、吉井勇の歌碑があった。
悪丸君は知らなかったが祇園をこよなく愛した歌人だそうな。
辰巳大明神 白川 吉井勇歌碑
歌碑には「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」あった。
もうお昼を過ぎたがさらに歩く。

四条通を越えて13:30、祇園新地歌舞錬場に到着する。ここは早々に過ぎ、12:36崇徳天皇廟に到着。
しばし眺めて12:41、縁切り札で有名な安井金毘羅宮に出た。覗いていると、お、離婚できますように、なんて書いたお札がはってある。

歌舞錬場 崇徳天皇廟 安井金毘羅宮
若い女性がお札を貼って穴をくぐっている。え、おんなじと頃を戻っちゃだめだぞ。お願いが消えるぞ。
東山通りに出て左手に八坂五重塔を見ながらしばらく歩くと角に電器屋さん。ここは幽霊飴を代理販売してるんだ。(幽霊飴本舗が閉まっている場合はここで買うしかない)

12:56、六道珍皇寺に到着した。閻魔大王や小野篁の像を覗く。小野篁は昼間は宮廷の役人で夜は珍皇寺の井戸から地獄に通い、閻魔大王に仕え、裁きを手伝ったと云う人物。
閻魔様のところから帰って六個の仏像を彫って、今に伝わる京都の六地蔵伝説の祖になった人でもある。

閻魔大王 小野篁 冥界への井戸
やはり閻魔大王はいかついな。それに比べれば小野篁は顔つきが優しいね。
冥土へ行き来した井戸を遠くから眺めて六道珍皇寺を退散した。
おういいぞ、のどが渇いた。おなかがすいた。けっこう疲れた。

あの先が幽霊子育て飴だ。お、中華料理の店がある。六波羅飯店と看板にあった。13:10だ。行こう、飛び込んでまずビール。うまい!!これだから歩きはやめられない。餃子もうまい。エビチリもうまい。お変わりの生ビールもうまい。
14:02、再出発。幽霊子育て飴を買いに行く。試食の飴がうまい。

幽霊子育て飴
なんせ、幽霊が買ってお墓も中の幼児に食べさせたんだから。
京都で二番目に古い飴だそうな。京都へ着たら買ってみて。なんでも東京の伊勢丹では売っているらしい。
その前が六道の辻。その左が平家一門で有名な六波羅蜜寺だ。14:16だった。
うまかった!ビール! 六道の辻 六波羅蜜寺

しばし覗いて一号線をわたる。
14:33、豊臣秀吉で有名な豊国神社・方広寺に到着。大阪の陣の発端になった「君臣豊楽」「国家安康」の文字がある鐘がある。その文字だけ白く塗られていてよくわかる。
あの時代からの鐘なんだな。
豊国神社の入口の唐門は国宝なんだ。

国家安康 豊国神社
ここから方広寺の遺物である南大門と太閤塀を見に行く。三十三間堂をくるりと回って歩く。
おお、南大門、おおきね。14:55だ。今じゃ三十三間堂になってるが、昔はこのあたりまで方広寺だったんだ。太閤塀も立派だね。
以前に、名古屋の熱田神宮で見た信長塀よりも立派だな。
南大門 太閤塀 セミ

角を曲がると後世の土塀。比べればよくわかる。
木陰でセミがいた。今年初めてのセミだ。
ここから京阪七条駅へと向かう。15:15ころに京阪七条駅で解散した。悪丸君はこのまま歩いて京都駅へ。JRと地下鉄で帰った。帰宅は16:00頃だった。
なんせ、この日は暑く、最高気温34度だったらしい。
帰って浴びたシャワーの気持ち良かったこと。最高だね。帰ってみた万歩計は一万五千歩を越えていた。
悪丸君の独断と偏見の散策コースにお付き合いしてくれたお二人さんへ感謝の意を表します。
また、企画しますのでお付き合いよろしく。

林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた高山彦九郎
彦九郎は江戸時代は延享4年(1747)に上野国新田郡細谷村、現在の群馬県太田市細谷町に農民である高山彦八正教の次男として生れたと伝わります。江戸時代中期の勤王思想家で、その後の幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えた人物と云われています。

大将軍神社 
大将軍神社は、桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため、京の四方に祀られた大将軍神社のうちの東南隅の一つ。特にこの地は、都に入る京の七口の一つ「三条口(粟田口)」の要地で、邪霊の侵入を防ぐ重要なところとされてきた。
ここの森には昔々、鵺が住んでいたという。

明智光秀首塚 
天正10年(1582)本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦で羽柴秀吉に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹やぶで農民に襲われて自刃し最後をとげた。家来が、光秀の首を落とし知恩院の近くまできたが夜が明けたため、この地に首を埋めたとされています。隣のお菓子屋さんの光秀饅頭が美味です。

一本橋
知恩院の古門前に近い白川に架かる行者橋の本名は古川町橋という
この橋が行者橋と呼ばれるのは、比叡山の回峰行を行う行者がこの橋を渡るためである。回峰行は百日単位で比叡の峰々を歩く。その間に1回、京都の町々を巡る「京都切廻り」の行が義務づけられている。真夜中に比叡山の無動谷を出発、雲母(きらら)坂を下って赤山禅院に入る。そこから、真如堂、平安神宮、青蓮院を巡って、この行者橋を渡り、八坂神社へと向かう。

福高大明神
伏見稲荷大社には多くの神様がおられますがその内の一神で御使いが狸といわれる神様です。古くからこの地に分身として祭られ前の橋は狸橋と呼ばれ橋の下にはお狸様が住まわれているとの言伝えがあり子供や女性は橋を渡らなかったと言われています。歯痛や歯の病に御利益があるといわれ虫歯の子供は必ずお参りにつれてこられたものでした。今では謂れを知る人も少なくなりお参りの方もあまりおられませんのでお参りされた方に縁起を記して起きます。現在のご神体は古くからのご神体が老朽化したため昭和四十年にこの地のお守りしでおりました「八木清一」氏が改めて伏見稲荷大社からお分け戴きお祭りしてものです。通称お狸さんとよばれ町内をはじめ祇園の花柳界にも沢山信者がおられました、芸事の神様としてもご利益があり舞子さんや芸者さんのお参りも多かつた事です。京都にはこのような神様が、沢山ありますので、ご紹介します。
お世話人 八木清三

辰巳大明神 
辰巳神社(辰巳大明神・辰巳稲荷)というのは、本来は神社や寺院、それに御屋敷の辰巳の方角(南東)を守るというのが主願で建てられたのが本来の姿で、ここでも元々はそうであったようです。
しかし、祇園町(花街)では、殆ど目にしない神社である為なのか、祇園町にかかわる人たちのシンボル的な御社になり、やがて芸子さんや舞妓さんたちを中心にした祇園芸能に関連する人たちから親しまれ芸上達の御利益神社になったようです?京都を主題にしたドラマによく登場する神社で、新橋通りの花見小路と縄手通りの中ほど・・・祇園町の真ん中・白川の辺にポツンとたたずむ子社。
このあたりはロケがよくある。祇園の中心地。

祇園新地歌舞錬場
都をどり開催場として、明治6年、建仁寺塔頭清住院が、歌舞練場として改造され、第2回目からここで行われました。
歌舞練場は、大正2年に現在の場所に移転し、昭和25年から 3年間の修理の間、四条南座で上演された以外は、都をどりは現在に至るまで毎年この歌舞練場で上演され続けています。

安井金毘羅宮
主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありませんのでご安心を。

六道珍皇寺 
この六道珍皇寺の閻魔堂には閻魔大王と小野篁(おののたかむら)の像が安置されています。小野篁は昼間は宮廷に仕え、夜は珍皇寺の井戸から地獄に通い、閻魔大王に仕え、裁きを手伝ったと云う奇妙な伝説が残る人物です。本堂右奥の井戸から冥府に往き、嵯峨の福生寺の井戸からこの世に還ったといい、冥府を自由に往来していた伝説が残っています。

幽霊子育て飴 
看板には幽霊子育飴とあります。六道珍皇寺から少し東に入ったところに位置し、今でもその飴も販売されています。丁度、黄金糖からさらに甘さを取った水飴を原料とする素朴な飴です。夜な夜な飴を買いに来る婦人がありました。ある日、土の中から泣き声がするので、亡くなった幼児のお墓を掘り返してみると、子供が泣いていたと云います。そしてそれ以後、婦人は飴を買いに来なくなったそうです。

六波羅蜜寺 
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。

豊国神社・方広寺 
1586年(天正14年)豊臣秀吉が創建した天台宗の寺。秀吉はこの地に奈良の大仏にも比すべき六丈(約18m)の大仏を安置した。しかし1596年(慶長1年)地震のため破壊し98年秀吉の死後、子の秀頼が再建をして1612年に完成した。ついで巨鐘が造られ、1614年(慶長19年)その供養にさいし「国家安康」の文字が刻まれていたため家康が言いがかりをつけ、これが契機になって大阪の陣が起こり、豊臣氏の滅亡となった。これがその釣鐘です

三十三間堂
国宝「蓮華王院」三十三間堂は、長寛二年(1164)、後白河上皇が院御所法住寺殿造営に当り、その中心として、千一体の観音様を安置する仏堂を発願建立された。 遺恨をもって、再度上洛してきた木曽の源義仲軍の兵火からは焼失を免れたが、建長元年(1249)、京都の大火により、堂宇、仏像のほとんどが灰燼に帰し、幸いにも千体仏のうち、156体と二十八部衆が漸く救出され、運慶の子湛慶と慶派の仏師の手により、建長三年(1251)より御堂再建と共に、仏像の復興がはじめられ、文永三年(1266)、後嵯峨上皇により落慶供養が盛大に行われた。これが現存する蓮華王院本堂三十三間堂であります。

太閤塀と南大門
太閤塀は今では三十三間堂の塀の様におさまっているが、この塀に続く南大門と同じく秀吉建立の 大仏殿、方広寺のものであった。つまり、愛すべき秀吉らしく、ちゃっかりと、三十三間堂も方広寺境内に取り込んでいたという事になる。今では、南大門と 同じく三十三間堂の物と思われている。立地的にも当然の事と思われ、愛すべき秀吉の贈答とでもあろうか。

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