軽井川南遺跡群 下ヶ久保C遺跡・下ヶ久保E遺跡(柏崎市) 現地説明会
2005年10月30日
遺跡概要
軽井川南遺跡群は、柏崎平野の南側に広がる低丘陵地に位置します。
この丘陵の各地に、奈良時代〜鎌倉時代(8世紀〜12世紀)にかけて
営れた、大小の鉄生産関連遺跡が19か所発見されている。400年に渡り
古代製鉄コンビナートが営まれていたことが、これまでの発掘調査等で
明らかとなっている。
これらの製鉄遺跡は柏崎フロンティアパーク造成工事に伴い発見され、
平成15年から発掘調査を開始されている。28ヘクタールにも及ぶ事業
用地には大小様々な鉄生産関連遺跡が分布しているが、製鉄だけでなく、
鍛造、鋳造といった製品生産までの工程をたどることが出来る希少な事例
として、各界から注目を浴びている。
今回現地公開を行う下ヶ久保C遺跡(9世紀〜11世紀頃)、下ヶ久保E
遺跡(9世紀〜10世紀頃)は、平安時代に製鉄(製錬)が行われた遺跡
です。また、下ヶ久保D遺跡(9世紀〜10世紀)の1部も公開します。
これらの遺跡からは、主な遺構として製鉄炉、廃滓場、木炭窯が確認
されている。特に下ヶ久保C遺跡は、軽井川南遺跡群の中でも最大規模
の遺跡で、製鉄炉、廃滓場が幾重にも重なって発見され、大量の鉄を
作っていたことが分かっている。下ヶ久保E遺跡は、比較的小規模ですが、
この時期の製鉄遺跡として標準的なものです。また、下ヶ久保D遺跡から
は箱型炉が検出され、一部専門家からは、8世紀までさかのぼる可能性
が指摘されている。保存されるのは下ヶ久保C遺跡の1400uだけで、
残りは埋め戻される。
下ヶ久保C遺跡
1)発見された遺構
製鉄炉 砂鉄、鉄鉱石などの原料を用い、高温によって原料を溶かし
鉄の塊を生成する施設。原料を溶かすため木炭窯で作られた
木炭を燃料として用いられる。
下ヶ久保C遺跡では、数基の製鉄炉が発見されている。保存
地区では、竪型炉、鍛治炉が見つかっている。今回は保存地区
以外で発見された2基を調査しました。いずれも半地下式竪型炉
という種類で、平安時代後半に築かれたものと考えられています。
![]() |
竪型炉復元模式図 新泉社 飯村均 2005『律令国家の対蝦夷 対策 相馬の製鉄遺跡群』から一部 改編して転載。の現地説明会資料 から更に一部改編して転載させて いただきました。 |
![]() |
下ヶ久保C遺跡 半地下式竪型炉 最低2回以上 作り直されて 使用されている。 廃滓場は 見つかりません でした。 |
| 半地下式竪型炉 |
![]() |
![]() |
箱型炉復元模式図 新泉社 飯村均 2005『律令国家 の対蝦夷対策 相馬の製鉄 遺跡群』から一部改編して 転載。の現地説明会資料 から更に一部改編して転載 させていただきました。 |
| 製鉄炉(箱型炉)の作り方 立命館大学 1994年『古代の 製鉄コンビナート 立命館大学 びわこ・ くさつキャンパス 木瓜原遺跡の発掘』 から一部改編して転載。 の現地説明会資料から 更に一部改編して転載 させていただきました。 |
![]() |
![]() |
下ヶ久保C遺跡 半地下式箱型炉 炉を築く場所の下に炭や灰 などを入れて地下構造を作って いる。この炭や灰は防湿効果を 高めるために入れるものと 考えられています。 |
| 下ヶ久保C遺跡 半地下式箱型炉 上の写真の 先端部分。 木炭は周辺の 木を焼いたもの で、どういう木を 焼いているかを 調べることで、 周辺の山の自然 環境が分かる。 炭から年代 測定も出来る。 |
![]() |
廃滓場 鉄を作るときに生ずる鉄滓と呼ばれる不純物の塊が廃棄された場所。
下ヶ久保C遺跡では中央に巨大な廃滓場を確認することができます。
この巨大な廃滓場は一つの製鉄炉から排出された鉄滓でできている
のではありません。はじめに製鉄が行われた場所を埋め立てるように
何度も製鉄炉を山の斜面の上へ上へ作り直しながら移動していったと
考えられます。その結果このような巨大な廃滓場が形成されたのです。
現在詳しく調査が行われていませんので、正確な数字は分かりません
が、最低でも3〜4回ほど作り直されているのではないかと考えられて
います。
![]() |
下ヶ久保C遺跡 廃滓場 |
| 下ヶ久保C遺跡 廃滓場 山の斜面に 廃滓場が3段に なっているのが 分かります。 |
![]() |
木炭窯 製鉄を行うには、大量の燃料を必要とします。下ヶ久保C遺跡では
18基の木炭窯を確認しました。下ヶ久保C遺跡の木炭窯は、窯の両側
と奧に煙を出すための煙道を備えており、焚口から鉄滓が数多く出土して
いることが特徴です。窯の両側に炉壁(竪型炉の壁として使われていた
粘土の塊。製鉄する課程でガラス質に硬化している)を貼り付けている
珍しい木炭窯も確認されています。
2)発見された遺物
鉄滓 下ヶ久保C遺跡では100トン以上の鉄滓が出土していると考えられます。
鉄滓とは鉄を生成するときに排出された不純物の塊です。生成される鉄と
排出される鉄滓の分量比はほぼ同量と考えられ、100トンの鉄が生産
されていたことになります。200年〜300年の間に3から4回のサイクル
(燃料にした山の木がなくなるとほかへ移動して、木が再生されると戻って
きて、また鉄の生産を始める)で、製鉄をしていたと考えられます。
![]() |
下ヶ久保C遺跡の遺物 路壁(竪型炉) |
![]() |
下ヶ久保C遺跡 鉄塊系遺物 |
![]() |
下ヶ久保C遺跡 の遺物 鋳造関連遺物 鍛造や鋳造 も行っていた。 と考えられて います。 |
下ヶ久保E遺跡
1)発見された遺構
製鉄炉 下ヶ久保E遺跡からは、半地下式竪型炉が1基見つかっています。また、
性格不明の遺構も1基発見され、詳細については今後の調査によります
が、製鉄炉の可能性もあります。
発見された竪型炉には、小規模な廃滓場が付随していましたが、何度
も使用された痕跡は確認できませんでした。炉の内部の土層観察により、
斜面上方から流れてきた土砂によって、炉が一気に埋まったことが分かり
ました。炉の下方には、その時の土砂によって押し流されたと思われる
炉の壁が多数散乱していました。これらのことから、この製鉄炉は1度
使用した直後に、土砂崩れなどによって埋まってしまった可能性が考え
られます。
廃滓場 半地下式竪型炉に伴う比較的小規模な廃滓場が、1ヵ所確認されて
います。廃滓場の下半分はすでに壊れていたため、どのくらいの量の
鉄滓があったか不明です。残っていた部分の鉄滓密度からは、下ヶ久保
C遺跡の大規模な廃滓場とはほど遠い量であったと推定できます。
もしかしたら、下ヶ久保C遺跡と下ヶ久保E遺跡の極端な鉄滓量の違い
は、生産量の多寡による訳ではなく、炉の使用目的の違いによるのかも
知れません。一度出来上がった鉄の純度を高めるため、再び製鉄炉を
用いる可能性があるといわれているからです。今回発見された製鉄炉は、
そのような目的に使われたため、不純物の塊(鉄滓)が少量しか発生
しなかったのかもしれません。
木炭窯 下ヶ久保E遺跡では、5基の木炭窯が発見されている。下ヶ久保E遺跡
では、すべての木炭窯の奧に煙道がなく、左右両側から1ヵ所ずつの煙道
が確認されている。木炭窯の形態の違いによると考えられますが、特徴的
といえるでしょう。
![]() |
下ヶ久保 E遺跡 木炭窯 |
| 下ヶ久保E遺跡 木炭窯 尾根の先端 を利用して 木炭窯を作って いる。外へ 運び出し やすい。と いうのが理由 と思われる。 |
![]() |
2)発見された遺物
鉄滓 製鉄炉に伴って形成された廃滓場からは、鉄滓が発見された。鉄滓は
別名「金クソ」と呼ばれることもある。「金クソ」とういう地名(小字名)が
残っており、さらなる遺跡の分布が想定される。
竪型炉を形成した壁が、大小の破片で発見されている。一見すると鉄滓
と大差なく見えますが、特に区別するため炉壁と呼ばれている。炉内に
溜まった鉄の塊を取り出すため、炉壁の大半は破壊され、その破片が炉
の真下の廃滓場に廃棄される。竪型炉の炉壁は全体に丸みを帯びる
ことが特徴で、内部には砂と植物繊維(スサ)が混入されている。外側は
真っ赤に焼けているが、内側には光沢のある黒っぽい鉄滓が付着して
いることが特徴です。
![]() |
下ヶ久保 E遺跡 炉壁 (竪型炉) |
![]() |
下ヶ久保E遺跡 炉壁(写真の上方)・鉄滓(写真の下方)/竪型炉
土器類 須恵器、土師器が出土した。9世紀〜10世紀のもので、遺跡に年代を
知る手掛かりになりました。大半は操業後の木炭窯に廃棄された状態で
発見された。大きなな器の中に小さい器を入れ、それを伏せて置いた
「入れ子」状態で、木炭窯の中なら発見された土師器もあります。詳細は
不明ですが、何らかの目的で故意に遺棄したと考えられます。
![]() |
須恵器・土師器 下ヶ久保E遺跡・9世紀〜10世紀頃 写真左側 須恵器、
写真右側 土師器
製鉄コンビナートのためか、生活用品である土器はほとんど出なかった。
下ヵ久保D遺跡
1)発見された遺構
製鉄炉 下ヶ久保D遺跡で発見された製鉄炉は、箱型炉と呼ばれるもので、
その名のとおり炉の形が長方形の箱のような形をしている。製鉄炉は
鉄を生成した後、鉄を取り上げる時に破壊されるので、その上部構造
はほとんど残っていない。現在床の下に構築されている地下構造を
調査している。地下構造は、土を長方形に掘り下げた後に一度焼き
締めて、木炭や灰などが入れてありました。これは防湿効果を高める
ためと考えられます。
製鉄炉に伴う重要な施設として鞴があげられます。鞴は炉内の温度
を上げるための送風施設ですが、この遺跡では見つかりませんでした。
この箱型炉については、その形態的特徴から、一部の専門家から
8世紀にまでさかのぼる可能性が指摘されている。軽井川南遺跡群
では、最古の製鉄炉の一つである可能性が高いため、今後年代測定
などを行っていく計画です。
![]() |
下ヶ久保D遺跡 箱型炉(写真 の上方) 廃滓場 |
| 下ヶ久保D遺跡 |
![]() |
廃滓場 下ヶ久保D遺跡では、箱型炉に伴う廃滓場が見つかっています。一度
廃棄された鉄滓の上に自然に土が流れ込み、その上にさらに鉄滓が
廃棄されている様子が分かります。2回以上製鉄が行われていたこと
が確認されました。廃滓場は斜面の下方の沢(自然流路)まで及んで
おり、大量の鉄滓が廃棄されていると考えられます。
2)発見された遺物
鉄滓 下ヶ久保D遺跡で発見された鉄滓は、下ヶ久保C遺跡で発見さている鉄滓と
形がやや異なります。これは製鉄炉の形が異なるためです。中には鉄分が
多く、さびが浮いているものも数多く見ることができます。
![]() |
下ヶ久保D 遺跡遺物 炉底滓 (箱型炉) |
| 下ヶ久保D遺跡 遺物 炉底滓(箱型炉) |
![]() |
![]() |
下ヶ久保D遺跡 の遺物 上の方・土師器 下の方・須恵器 |
まとめ 下ヶ久保C遺跡は軽井川南遺跡群の調査事例の中でも、最大規模の
鉄製産量を誇り、中核的な役割を担っていた遺跡です。一つの場所に、
製鉄炉、廃滓場が幾重にも重なって築かれ、100トン以上もの鉄が
作られていたと考えられています。そのためには多量の燃料が必要で
あり、山の木はことごとく切り倒され、木炭にされたことでしょう。しかし、
やがて山林が再生した頃には、再びこの場所へと舞い戻り、木々という
資源を得て鉄作りを行ったと考えられています。それを長年繰り返す
ことにより、まれに見る大規模な鉄製産が可能となったのです。自然を
破壊し尽くすことなく、その再生力を最大限に利用する英知が、鉄作り
という工業生産と表裏一体出あったことを、この遺跡は物語っている。
隣接する下ヶ久保D遺跡の製鉄炉は、軽井川南遺跡群で最古の
製鉄炉の一つと目されています。この場所から始まった鉄作りが、
下ヶ久保C遺跡へと発展し、それを補うように下ヶ久保E遺跡へと派生
する課程が、よく見て取れる関係となっています。まさに、この場所から
は、古代の柏崎で鉄づくりにたずさわった職人たちの行動が目に
浮かんでくるようです。
8世紀から12世紀までの400年間で、日本全体の鉄の生産量は1000トンと
推定され、軽井川南遺跡群では、200トン生産していたと推定されます。実に
日本全体の2割を生産していた、製鉄大コンビナートであったわけです。古代の
柏崎にこのような大コンビナートがあったことにロマンを感じました。
![]() |
下ヶ久保A遺跡の遺物 溶解炉(鋳造炉)の炉壁
![]() |
下ヶ久保A遺跡の遺物 溶解炉(鋳造炉)の炉壁(写真の左側)
坩堝または取瓶(写真の右側)
![]() |
下ヶ久保A遺跡の遺物 鋳型
![]() |
下ヶ久保A遺跡の遺物 鋳型
![]() |
小田ヶ入A遺跡 の遺物 鉄滓(箱型炉) |
![]() |
小田ヶ入A遺跡の遺物 鉄滓(箱型炉)
![]() |
小田ヶ入A遺跡の遺物 炉底滓(箱型炉)
| 出土品 須恵器の甕 |
![]() |
お聴きの曲(midiファイル)はヤマハ(株)から提供されたものです。
|
|||
|
|