「九十九本目の生娘」

  The Bloody Sword of the 99th Virgin

 (2005/03/14)


山奥の集落に伝わる奇習と行方不明事件

 山の中の草むらで二人の男が、「何か」を追いかけている。二人が挟み打ちにして何とか捕らえたその「何か」とは…髪はボサボサ、歯はお歯黒で真っ黒の見るからに不気味な老婆・五月藤江だ。この婆さんなかなか手強くて、男二人がかりでも取り押さえるのがやっと。ドサクサ紛れに片方の男に噛みついてくるからたまらない。ともかく手近なツタや蔓でこの婆さんをグルグル巻きにすると、抵抗するの何とか引っ張ってひたすら下山する。しかし真夏ゆえ暑くて仕方がない。何とか村の警察署が見えたとたんに緊張感が緩んだか、男二人は警察署前の水道にムシャぶりついた。その隙に婆さんにまんまと逃げられ、警官に声をかけられてやっとそれに気づくアリサマ。これには男二人も脱力だ。

 「お巡りさん、女が二人さらわれたんだよぉ!」

 早速、警察署の若手警官・菅原文太はじめ数人で、この男二人の話を聞く。何とこの二人の言うことには、山の中で連れの女二人がさらわれたと言うのだ。

 この男二人は東京のバーの女給・三原葉子と水上恵子を連れて、ここ岩手県北上川上流の山の中に遊びに来ていた。もちろんそこに良からぬ期待があった事は間違いない。女二人が川で水浴を楽しんでいる時も、男二人は物陰からそれを覗いて楽しんでいたりもした。もちろん女は女でそんな事も折り込み済み。…そんな大人同士の割り切ったお楽しみのはずが、とんだ闖入者が現れたからマズかった。爆発ヘアーの奇怪な五月婆さんが、水浴中の女たちをジッと見ているではないか。男たちに見つかったとたん慌てて立ち去ったものの、何ともイヤ〜な予感が男二人の胸をよぎる。

 その後も木の上から彼らを覗いている老婆がチラチラして、三原葉子も水上恵子も思わずビビる。そして男二人がちょっとその場を離れた隙に、女二人はどこかへ消えてしまった

 だが、まさかあの婆さんが悪さをするとは思えなかったし、もともと男あしらいに長けた女どものこと、どうせこれもジラしのテクニック…と気にもしなかった。だがあまりに戻って来ないので、さすがに男二人も心配になった次第。あちこち探したものの女たちは見つからず、たまたまノコノコ出てきた五月婆さんを発見。こいつが何か知っている…とばかり、フン捕まえたというわけ。だが、それにもまんまと逃げられてしまった…。

 ところがそんな男たちの話も、「夢でも見たんだろう」と警官たちに一笑に付されてしまう。文太警官はさすがに笑いはしなかったが、それでも深刻な話になるとは思ってもいなかった。

 その夜、いつものように上司の中村虎彦署長のお宅を訪ねる文太。実は文太はこの署長の娘・矢代京子に惚れていた。そのへんは、中村署長もスッカリお見通しだ。「うちの娘も君にその気十分みたいだぞ、アッハッハ!」

 ところでその席で中村署長は、文太にひとつ頼み事をする。翌日、付近の山の中にある白山神社の宮司の元に行って、ある事を説得をしてくれと言うのだ。それは、明後日に迫る「火づくり祭」に関わる揉め事だ。

 この付近の集落に古くから伝わる伝統行事「火づくり祭」。なぜか付近の集落の人々は、この白山神社の宮司に「火づくり祭」中は山を下りろと告げていた。宮司は最近この白山神社にやって来た男。だが十年に一度の「火づくり祭」は、神社に誰もいてはいけない。神々に神社を明け渡す習わしだ。住人たちですら家の中に籠もり、雨戸を閉めてジッとしているという。さもないと、その場にノコノコ居合わせた者は「火づくり」の神に殺される…そんな昔ながらの迷信が、この地にはいまだはびこっていた。

 ところがこの宮司は、神社を守る身として山に居座る事を宣言。地元住人の逆鱗に触れていた。そこで何とか仲介を…と言う事になったのだ。この地に赴任して間もない文太警官は、そんなお話にのどかに感心するばかり。「いやぁ、まだ日本にもそんな話があるんですねぇ

 早速翌日、文太警官はジープを駆って山道を登る上る昇る…のぼってのぼって、何とか辿り着いたのが深い山の中の白山神社。宮司の沼田曜一が出迎えてくれた。

 だが、沼田宮司はあくまで山を下りないと言う。それには彼なりの信念があってのことだった。普段から麓の村人たちとの交流を一切断っている集落の人々と、この祭を機会に融和してもらいたい。そもそもこの神社で行われる祭に宮司である自分がいないのはおかしい。そんな気持ちもあって、沼田宮司はあくまで祭に参加する事にこだわったのだ。結局そんな沼田宮司の気持ちを汲んだ文太警官は、そのままジープで帰っていった。

 そんな沼田宮司の元にやって来る若い娘が一人。その娘・松浦浪路は、やはり山の奥深い集落の住人だ。彼女はかねてから宮司に好意を抱き、わざわざ遠い山の中から訪ねて来た。

 「先生、祭の晩は山を下りてください。先生の身に何かあると私は悲しい…」

 実は…例のあの五月婆さんの娘がこの松浦なのだが、婆さんもこの宮司の元に行くのなら文句は言わない。何しろ沼田宮司は、集落の病人を助けた大恩人なのだ。そんなこんなで、集落の人々にも絶大な信用を持っていたわけ。だから沼田宮司の方も、例の「火づくり祭」について安心して構えてもいた。

 さて、沼田宮司は松浦を連れて、集落までわざわざ訪ねて行く事にした。それは集落の長に会いに行くためだ。長に直談判すれば分かってもらえる…沼田宮司は固くそう信じていた。松浦もそんな沼田宮司を応援すべく、一緒に山を登って行く事にしたわけだ。

 だがそれにしても、彼らが暮らす集落は遠い。あまりに高く奥深い、昼なお暗い山の真っ直中だ。登って下りてまた登って…若い娘の松浦は元気いっぱいだが、さすがに沼田宮司はヘトヘト。汗を拭きふきやっとこ登るアリサマ。必死な沼田宮司に、松浦も一生懸命手を貸す。

 そんな二人の仲むつまじそうな様子を、遠目で見ている男がいた。獣の毛皮を身に纏ったその男・国方伝も、松浦や五月婆さんと同じ集落の住人だ。実はこの男、前々から松浦と夫婦になるつもりでいた。だからこの松浦の様子にも、苦虫を噛みつぶすやらムカつくやら

 ともかく、苦心惨憺のあげく問題の集落に到着した沼田宮司と松浦。子供たちが遊び、何百年も前と同じような格好で文明から遮断された人々が暮らすこの集落。中でも外に水車が回る大きな家が、ここの長の住処だ。沼田宮司は何のわだかまりもなく「やぁやぁ」と人々の中に入っていく。そして早速、集落の長・芝田新と直談判に入る。

 その頃集落に戻って来た五月婆さんは、沼田宮司が来ていると知ってなぜか慌てる。しかもそこらで遊び回る子供たちが、頭に麦藁帽子をかぶっているのにビックリ。慌ててその帽子を取り上げた。

 なぜなら…それはあのさらわれた女が被っていた帽子だからだ!

 その頃三原葉子と水上恵子の二人は、シュミーズ姿にひっぺがされたあげく両手を縛られ、洞窟の上から吊し上げられて滝の水に身を清められていた…。

 そうとは知らぬ沼田宮司は、あれこれ長・芝田と語り合うが話は平行線。どうしても村の連中と融和する気はないし、「火づくり祭」に宮司が参加する事も許さない。かと言って、沼田宮司も山を下りるつもりはない。結局結論は出ずじまいで、沼田宮司は帰る事になった。そんな沼田宮司を神社まで送っていく松浦。沼田宮司が帰った後、あの男・国方伝が鼻息荒く言い放った。「奴を殺すしかない! オレが殺す!」

 ところがその後、国方伝の手を患わす必要はなくなった。何と神社まで送っていった松浦は、後ろから棒で沼田宮司の後頭部を一撃。倒れた沼田宮司を麓まで運んで、警察署前に置いていったのだ。

 「許して、先生。こうしないと先生が殺されてしまう…」

 沼田宮司は入院し、頭を包帯でグルグル巻きにされる大ケガ。だが中村署長は、「これで火づくり祭の問題はなくなった」と喜んでいるから単純だ。

 さて問題の「火づくり祭」の日だが、何と炭焼きの男二人が何も考えずに山に入っていた。炭焼き二人の女房は家でヤキモキしていたが、男たちは夜になるまで気づかない。気づいた時にはすでに暗くなっていたが、ここは男の悪いところ。「オマエ、火づくりが怖いのか?」「コワイもんか!」…てな虚勢を張ったのが運の尽き。そもそも男の見栄と突っ張りは、ロクな結果を生まないのが常だ。

 夜も更けた頃、白山神社に「火づくり祭」が始まった。タイマツがパチパチと燃えて、ナマハゲ軍団みたいなお面の連中が、太鼓をドンドコ叩きながら踊っている。いかにも怪しげな邪教集団の様相を呈した祭りは、いよいよ最高潮に達しようとしていた。

 そのメイン・イベントは刀づくりだ!

 祭の真っ直中で、あの長・芝田が真っ赤に焼けた刀をガンガンと鍛えている。その一方で…何とシュミーズ姿の三原葉子と水上恵子が吊り下げられているではないか。そんな一部始終を、たまたま通りかかった炭焼き男二人が物陰から見ていた。

 「今日で、いよいよ九十九本目の刀を奉納出来る。これで我らの繁栄は永遠に保証されるのだ」

 どうも十年に一度の「火づくり祭」とは、新たな刀を鍛えて神々に供える行事らしい。それを代々続けて来て、今回で刀も九十九本目。そして九十九は永遠につながる。今回の刀を奉納する事で、この集落の人々の繁栄が約束されるという事らしいのだ。だがその刀とは、もちろんただの刀ではなかった

 長の芝田は、二人の女の前に仁王立ちになるといきなりグワハハハとバカ笑い。そしていきなり刀を取り出し、二人の女の心臓をグッサリだ。こぼれ落ちるおびただしい血は、二人の女の下に置かれた桶に溜められた。その血をひしゃくですくって竹の棒の中に注ぎ込むと、焼けた出来たての刀を竹の棒に突っ込む。

 ジュウウウ〜〜〜〜〜〜ッ!

 こうして生き血で鍛えた出来たばかりの刀を、しっかと睨み付ける長・芝田。だが彼は突然苦悶の表情を見せると、絞り出すような大声で叫んだ。「失敗だ、九十九本目の刀は失敗した!」

 何がどう失敗なのかと思いきや、どうも女の血が「汚れていた」という事のようだ。この神々に供える刀を鍛えるためには、処女の生き血でなければいけない。たまたまやって来たバーの女給に手を出したのがマズかった。これにキレた長・芝田は、すでに死んでる三原・水上の身体を切り刻んで八つ当たりするが、ハッキリ言って元々手近で済まそうというセコい発想に問題があった。これすべて自業自得というものだろう。

 「ひえ〜〜〜〜!」

 ここでお約束の声を上げてしまう炭焼き男二人。彼らがナマハゲ軍団に捕まって殺されたのは、もちろん言うまでもない事だ。

 かくして、翌朝には神社の外に宙づりにされた炭焼き二人組の死体。こうなると警察も黙っている訳にはいかない。付近の聞き込みやら取り調べをするしかない。もちろん真っ先に疑われるのは白山神社と、そこで昨夜行われたはずの「火づくり祭」だ。まだキズも癒えないうちに神社へ戻った沼田宮司は、文太ら警官たちの捜査に協力。すると、神社には何やら大勢で踏みしめたような跡がある。しかも神社の床を踏むと不自然な音が…。出てきたのは地下室へ通じる隠し戸。その地下室からは、何と膨大な数の日本刀が出てくるではないか。一体これは何なのか?

 警察は白山神社から出てきた多数の日本刀を押収する一方で、近くの山の山頂に捨ててある二人の女の死体を発見。ただちに文太は現場へと急ぐ。すると…紛れもなくそれは行方不明の三原葉子と水上恵子の二人。しかもそれだけではない。その山頂には、おびただしい人骨が遺棄されていたのだ!

 にわかに沸き起こった大事件に警察が大騒ぎになっている頃、例の集落でもみんな大いに揉めていた。神社に隠してあった刀が押収された事で、それを許した沼田宮司は裏切り者と見なされたのだ。そしてこの集落の掟では「裏切り者は死」。今度ばかりは命の恩人と言えども、長の芝田でさえためらわない。「奴を血祭りに上げろ!」

 こうして捕らえられた沼田宮司。泣いて止めようとする松浦だが、もうこの集落の男たちは止められない。中でも元々沼田宮司を面白く思ってなかった国方伝は、殺したくて殺したくて仕方がない。その月夜の晩に、長はじめ集落の男たちは沼田宮司を例の山頂へと連れて行く。沼田宮司は最後の言葉として、またしても村人との融和を叫ぶが、そんな彼の願いは男たちには届かない。観念した沼田宮司は、男たちに無情にも殺害されるのだった

 さて刀を押収した警察では、鑑定士を呼んでチェックを依頼。その結果、驚くべき事実が発覚した。これらの刀は全部で98本。そのうち2本は大昔の名工・舞草太郎国永の手になるもの。残りの刀もすべて、舞草一族の鍛えた刀である事が分かったのだ。

 そもそも舞草一族とは、代々刀鍛冶の血統として知られる存在だった。だが相次ぐ戦乱の中、その血筋も絶え果てたと思われていたのだ。だがこの刀が十年に一度の「火づくり祭」で鍛えられ、それがこうして98本も奉納されていたということは、舞草一族は決して絶えていなかったに違いない。…あの人里離れた集落の連中こそが、かつての舞草一族の末裔なのだ。

 だが、それと例の殺しとが、一体どう結びつくのかが分からない。それでも鑑定士は、これらの刀に一様に見られる不思議な「曇り」に注目していた。ひょっとしたら、これらの刀の作り方に秘密があるのでは…?

 さてその舞草の集落では、さらに揉め事が続いていた。九十九本目の刀が失敗した責任を問われて、五月婆さんが責められ放題。そのあげく、娘の松浦を生け贄にする…との長・芝田の決定が下った。実は松浦は、五月婆さんの実の子ではなかった。婆さんが流産した時に、思い余って村からさらって来た赤ん坊だったのだ。その秘密を知っていた長・芝田は、それゆえ松浦を生け贄に選んだ。あくまで拒む五月婆さんには、代わりの娘を連れてきたら許してやる…と言い放つ。

 そんな五月婆さんが思い詰めた表情で山をウロついていると、ちょうど警官隊がやって来る。こうして婆さんは女たち誘拐の疑いで警察に捕まってしまう。警察署に連れ込まれた婆さんは大暴れだ。

 ところがそこに、たまたま父・中村署長に用事があった娘の矢代京子が訪ねてくる。婆さんはこの矢代の清純な姿を見たとたん、「これだ」とピンと来た。もちろん生け贄候補にピッタリ…と喜んだわけ。あげく気色悪い顔で矢代にニンマリと笑い顔を見せるから、彼女はビビって退きまくる。だが、誰もがそんな婆さんの不審な挙動にはまったく気づいていなかった。

 一方、例の鑑定士は刀の製法の秘密に辿り着いた。何とすべての刀が人間の血で鍛えられていたと言うのだ。そして山頂で発見された夥しい白骨…新しいもので20年以内、古いものでは江戸時代中期まで遡れるそれらは、すべて若い女の人骨だと言う。だとすると…舞草一族は若い女の生き血で刀を鍛えていたのか?

 その夜、警察署の留置場にいた五月婆さんが突如騒ぎ出す。あまりうるさいので当直の警官が止めようとすると、突然外から何者かが襲いかかってくるではないか!

 こうして警察署の当直の警官たちは、乗り込んできた舞草の男たちに次々殺される。かろうじて助かった文太警官は、駆けつけた援軍と共に奴らと戦う。だが五月婆さんや舞草族どもは、闇に乗じて消えてしまった。そして事もあろうに中村署長の娘・矢代京子がさらわれてしまう

 さぁこうなると、もはやこれは警察の威信を懸けた戦いだ。近隣署から援軍も多数到着し、ヘリコプターも出動した。文太警官たちは付近に必死の聞き込みをかける。こうして例の五月婆さんを目撃した者の証言から、舞草一族の潜む集落の位置が特定出来た。さらにヘリからの報告で、矢代をさらった舞草の連中が、北上川に沿って集落を目指している事が分かる。

 こぅなったら集落を総攻撃だ! 警官隊は森を進み山を登り坂を下り川を渡り…道なき道を黙々と進んで舞草の集落を目指す。だが、何しろ道は険しく目的地は遙か遠い。人里離れた秘境に手こずる警官隊。途中の森の中では舞草の連中の放つ弓矢の攻撃を受け、やむなく銃の使用に踏み切った

 さらに集落では警官隊との合戦の前に九十九本目の刀を鍛えるべく、長・芝田が五月婆さんの到着を待たずに松浦を生け贄に「火づくり祭」を再演しようとする。だが松浦を愛する国方伝はこれに従わず、彼女を逃がして自らは追っ手に討たれる。

 さらに、やっと集落に矢代を連れて帰った五月婆さんは、長・芝田が自分を裏切ったのに逆上。刺し殺そうと大暴れしたあげく逆に討たれてしまう。…などなどなど、もうた〜いへん!

 そんなてんやわんやの中、警官隊はいよいよ集落の手前までやって来た。だが舞草の連中は、上から矢を射るわ岩を転げ落とすわで抵抗をやめない。このままでは矢代の命が危ない。もはや一刻の猶予もできないのだ。

 「よ〜し、機関銃、威嚇射撃用意!」

 

何故にこの映画は、かくも封印されたのか?

 まずは、この凄まじい題名にのけぞってしまう人も多数いるだろう。とんでもないワンマン社長・大蔵貢体制下でエログロ路線を突っ走った新東宝の、その象徴とも言うべき一本。「憲兵とバラバラ死美人」やら「地獄」…などと並んであまりにも有名だから、その題名だけなら誰でも一度は聞いた事があるかもしれない。

 何しろ「生娘」って言葉自体もスゴければ、そもそも「生娘」って一本、二本…って数えられるものなのか(笑)? 元々の大河内常平による原作(…があるって事すらスゴイが)は「九十九本目の妖刀」というらしく、それをこのように変えさせたのはやっぱり社長・大蔵貢であったと聞く。この人って確かにすごくエグい人だとは思うが、コピーライターとしてはかなりセンスあったんじゃないか? 日本映画のタイトル命名においては、「隠し砦の三悪人」「悪い奴ほどよく眠る」黒澤明と並ぶ名コピーライターだと思うよ。

 だがこの映画、先に「題名だけなら誰でも一度は聞いた事があるかも」…と書いたように、題名だけは広く知られているものの実際の映画そのものを見る事はいささか難しい。これだけ旧作が発掘されている今日でも、ビデオやDVDは公式に発売はされていない。実は僕が見たモノも、人づてに見せてもらったかなり古いシロモノだ。なぜか…と言えば、それは本編を見てみれば何となく分かる。

 何しろ北上川上流に、人里離れた隠れ里があるという話。そこの人々は、外界とまったく途絶した生活をしている。戸籍もなければ住民票もない。国勢調査にも参加していない。義務教育も受けていなければ、国民年金も払っていない(笑)。いわんやNHK受信料だって払ってないし、集金人だって来ない。そもそもアンテナが立ってる訳がない。電氣・水道・ガス・電話…などなどライフラインもインフラも一切備わっていない。

 そもそも彼らは、この日本に「いない」事になっている人々だ。そして彼らは、我々とはまったく異なる神を信じている「邪教集団」だ。ハッキリ言うと得体が知れない、何を考えているのか分からない「野蛮人」扱いだ。これがいかに表現上ヤバイ事か、みなさんにもお分かりいただけると思う。

 彼らは訳の分からない祭りを行って、人を殺す事を何とも思っていない。それも猟奇そのもののマトモじゃないやり方で…だ。気に入らなかったり、そんな自分たちの秘密がもらされそうになったら、よそ者は容赦なく殺す。

 映画ではそんな「舞草族」の奇怪な生態が、これでもかこれでもかと描かれる。そして、「こんな訳の分からない奴ら」なんだから、「いくらメッタメタにやっつけても構わない」のだ…とされてしまう。

 そのため警官隊は、「威嚇射撃!」と言いながら直接に発砲して皆殺し(笑)。まぁ、このムチャクチャな映画をつかまえて人権問題を語るのもヤボだし見当はずれだが、それにしたってスゴイ描写の連続だ。でも、この時代はそれで許されちゃったんだよね。

 実はこれによく似た設定の作品は、かつて他にもあった。

 しかも、それはエログロ新東宝なんてとこを探さなくてもいい。明朗健全な東宝映画、「ゴジラ」でお馴染み本多猪四郎監督と円谷英二がタッグを組んだ「獣人雪男」(1955)ってのがそうだ。早い話が雪山版「キング・コング」みたいなお話。これを見た当時、僕はそんなヤバい題材の映画とは知らず、ともかくあまり陽の当たらないSF特撮映画と思って見に行った。何であまりこの映画の話を聞かないんだろう?…と不思議に思っていたほどだ。ところが、映画が始まってすぐに疑問は氷解した。

 大学生のグループが、長野の雪山でナゾの遭難。それを追って救援に向かった友人が、険しい雪山の彼方に別天地を見つけてしまう。そこには外界とまったく遮断された集落があり、文明から取り残された人々がいた。さらに巨大な猿人も…。

 この巨大猿人が、「キング・コング」(1933)と言うより「猿人ジョー・ヤング」(1949)ぐらいのサエないサイズってのも地味な印象を与えるが、外界と遮断された集落…というのも決して「失はれた地平線」(1937)やそのリメイク・ミュージカル版「失われた地平線」(1973)に出てくるシャングリラみたいな「地上の楽園」ではない。貧しく因習に満ち、陰湿で迷信はびこる地として描かれる。ハッキリ言ってひどい場所なわけ。そして彼らは猿人を「神」として崇める「異教徒」…またしても「邪教集団」だ。

 巨大怪獣がビル街を粉砕…とかいう派手な見せ場もない、地味な印象の作品だから知名度が低いという事もあるだろう。だがこれもまた、ソフト化は決してされない映画なのだ。こういう究極のマイノリティーが、日本にいるかのように描いているのがマズイのか。それらがまるで「野蛮人」であるかのように、怪しげに描いているのがマズイのか。ともかくこれらの作品は、イマドキはオモテだってはリリース出来ない状況らしい。それも分からないではないが…。

 そういや今回の映画を見ていて、僕はもう一つ別のモノを思い出した。それは子供の頃に読んだある本のことだ。

 ある冬の日に、大富豪の豪邸に一人の奇妙な客が訪れる。その客はコートを着込んだだけではなく、全身をスッポリと包んで外に見せているのは目だけというアリサマ。ところがその不気味な客は、自分は15年前に行方不明になったその家の令嬢である…と告げるのだ。

 実はこの令嬢、17歳の時に別荘で出会った画家に「モデルにならないか?」とダマされ、ある見知らぬ場所に連れて行かれてしまう。それは、どこか地下にある巨大な城だ。そこで囚われの身となった令嬢は、「殿様」と呼ばれる城の主の前に引き出される。それは坊主頭で醜い姿をした大男。そして彼女は、この「殿様」の絵のモデルとしてハダカにひん剥かれるのだった…。

 何とも気色悪く薄気味の悪い物語。言っておくが、これは新東宝エログロ映画の原作ではない。何と子供の本でお馴染み偕成社の「ジュニア探偵小説シリーズ」の一冊、橘外男「双面の舞姫」という小説だ。…改めてもう一度言えば「“ジュニア”探偵小説シリーズ」の一冊である。つまり、子供向けだ。

 小学校の頃、ちょっとオマセにも探偵小説に凝っていた僕は、「探偵」とか「推理」と書いてあれば何でも読んだ。この本もそれで手に取ったんだと思う。ところがこれは、まさに群を抜いた気色悪さだった。

 何しろ冒頭から気持ちが悪い。しかも、最後まで読んでもまったく救いがない。カタルシス・ゼロ。そして地下の城に住む住人たちの気色悪さ。彼らを語る際の表現に一貫して見られる、ある難病に対するあからさまな偏見と誤解と悪意。今考えればまったくひどい話だ。たぶん今じゃ出版は絶対無理だろうが、それも無理はないと思ってしまう。この後味の悪さにはさすがにまいってしまったよ。

 僕がこれを読んだ当時は1960年代半ば。それでもすでに文章や設定や挿し絵などが、相当に古びているように見えた。それもそのはず、この小説は1953年に発表されたものだ。それも初出は「少女の友」という雑誌だったと言うから驚いた。こんなエログロ話が少女雑誌に載っていたのだ!

 ともかく途中を端折ると…この一族は戦国時代に地下の隠れ城に立てこもった連中の末裔という事になっていて、そのあたりでも今回の「九十九本目の生娘」と通じるものがある。このどこか邪悪な語り口や設定にも、終盤に武装した警官隊が突撃するあたりも…アレコレ思い当たるフシがある。そう思って橘外男って人を調べてみたら…この道では知られた人らしく、何と新東宝映画「亡霊怪猫屋敷」(1958)とか「女吸血鬼」(1959)に原作を提供していると言うではないか! やっぱりまたしても新東宝かって感じ(笑)。おまけに「亡霊怪猫屋敷」では、「九十九本」で気色悪い婆さんを演じた五月藤江が化け猫を演じているという。これにはさすがに笑ってしまった。

 さて、閑話休題。ともかくここで僕が言いたいのは、これらの映画や小説の描写のひどさの事ではない。そんなモノが下手すれば「子供向け」として流通してもおかしくなかった土壌が、かつては確実にあったということだ。ただし、こういうのを良しとするつもりは毛頭ない。決してホメられたモノではないし、ハッキリ言ってひどいシロモノだからね。だが、それらがかつては堂々と存在していた事は間違いない事実だ。

 まるで「一切なかった」かのようなフリをするのも、それはそれでいかがなものかと思うんだよね。

 

ありふれた日本の日常も、一皮めくれば真っ暗闇

 ともかく映画は、何とも気色悪い歌が流れるタイトル・バックから始まる。僕が見たバージョンのサウンドトラックが劣悪なせいかフィルムがズタズタなせいか、陰鬱な男声コーラスが一体何と歌っているのか分からない。歌詞がちょっと気になるので、歌っている内容を分かる方が誰かいたらぜひ教えていただきたい。ともかく冒頭からいきなりイヤ〜な感じが濃厚に漂ってくる、実におどろおどろしいお経か呪文みたいな音楽だ。

 明らかに貧乏くさそうでショボそうな、だからこそ忌まわしさも倍増なあの感じ。僕がよく言う表現で言えば、いわゆる「田舎の便所」の恐さを持った映画だと冒頭からハッキリ分かる。タイトルバックが終わると、もう後戻り出来ないヤバイ感じなんだよね。

 そこへいきなり出てくるのが五月藤江の爆発ヘアー婆さん(笑)。いや〜何とも強力キャラだ。香港ショウ・ブラザースの旧作真説チャイニーズ・ゴースト・ストーリー(1960)に出てくる古寺の化け物の婆さんも相当に気色悪かったが、それでもこれほどではなかった。絶対に近寄って欲しくないくらい、心底気持ちが悪い婆さんだ。こんな婆さんを目撃しても山を下りない三原葉子たちは、もはや自業自得と言われても仕方がないよ(笑)。

 で、女奴隷船(1960)で圧倒的にエロい踊りを披露してくれたセクシー・ダイナマイト(笑)三原葉子は、ほとんどセリフもない脇役もいいとこの役。すぐにさらわれて殺されちゃうんだから無理もないが、それなのにクレジットでは菅原文太などと並んでの堂々三番目のビリングというさすがの貫禄。実際この映画というと、三原がシュミーズ姿で水車にくくりつけられて逆さにされているというヤバイ絵でもっぱら有名だ。ポスターなどもこの絵柄が必ず使われている。だが僕が見たビデオのバージョンでは、彼女の水車場面はついに出てこなかった。ただし見た版は先に述べたようにズタズタに損傷していたから、どこかで切れちゃっていたのかもしれない。ともかく水車はなかったものの、三原が出てくるとシュミーズ姿で縛られてばっかりだから、エロ風味とドス黒い猟奇味は十分だ。

 そして問題の集落まで行く途中の描写の凄まじさ! 宮司役の沼田曜一がヘトヘトになるあたりでも分かるように、とにかく道なき道を行く秘境中の秘境という感じ。今、このニッポンであんな描写は撮ろうったって撮れないかもしれない。なるほど文明から孤立するわけだ…と思わず実感してしまう描写が続く。

 出てきた集落の暮らしたるや文明開化以前の状況で、怪しげで気色悪い「火づくり祭」の様子といい、これってさすがにこの地域の人が見たら怒りそうな感じだ。そもそも当時、北上川上流域ってあんな雰囲気だったのか? このへんのところは、聞いてみたいような聞きたくないような…で怖いけど(笑)。

 それもまるっきり荒唐無稽ならいいのだが、なぜか妙にリアリティがあるから余計に気色悪い。お化けが出るとか怪物が出るとかじゃない、理屈にならない得体の知れなさ。それが本当に僕らがよく知っている日本にいそう(だった)からコワイのだ。

 ネタとしては、「ジョーズ」の作家ピーター・ベンチリーの原作による「アイランド」(1980)と似たようなお話。「アイランド」はマイケル・ケイン扮するジャーナリストがバミューダ海域で相次ぐ不可解な海難事故を追っているうち、人知れぬ孤島に潜んでいるかつての海賊の末裔と出会うというサスペンス映画だ。確かにどこか似通っている。なのに気色悪さとリアリティは格段に違って、圧倒的に「九十九本」に軍配が上がる

 「アイランド」に出てくるかつての海賊の末裔は大して不気味に思えないが、こちらに出てくる落武者部落みたいな設定は何とも怪しげで忌まわしい。それは残虐な事をするからではない。あくまで知られざる存在なのに、我々と地続きの場所に暮らしているからだ。どんなに山の中の秘境と言ってみたところで、どうせ狭い島国だ。日本の山の中ならタカが知れている。しかも自分たちや自分たちの親の代だって、それと大差ないところに暮らしていたのだ。ナゾのバミューダ海域なんぞとはまるっきり違う。

 そして、「彼ら」の「怖さ」の秘密もそこにある。

 実はちょっと足を伸ばしたら、僕らのすぐそばに山はある。そしてそこは、ついこの前まで「秘境」同然だった。だから彼らって、何となく「本当にいそう」な雰囲気がプンプンしているいるのだ。

 そもそも、かつて前述したこの手のヤバイ作品が「子供向け」として大手を振って公にされていたのは、人権意識が乏しかったという理由の他にも、それが「本当にあり得る」存在だったからではないか? 少なくとも当時はそう思えた。現代化して繁栄する日本などというものは、一枚ひっぺがえせば「そんなもの」だったのに違いない。下手すりゃ日本全体だって、貧しくて「未開の地」だったのかもしれないのだ。この映画がつくられたのは、何と僕が生まれた年である1959年。その頃には、日本はまだそんな場所だった。

 そういう意味ではこの「九十九本」、同じアメリカ映画ならば「アイランド」よりもウォルター・ヒル監督の日本劇場未公開作品「ブラボー小隊・恐怖の脱出/Southern Comfort」(1981・テレビ放映のみ)の方がテイスト的には近いかもしれない。アメリカ南部の湖沼地方を舞台にしたこの映画、州兵訓練に参加した一般の男たちがフランス語しか話せない現地住民のテリトリーを安易に犯してしまった事から味わう恐怖を描いて、同じ南部を舞台にしたジョン・ブアマン「脱出」(1972)にも似た気色悪さ。この「ブラボー小隊」の男たちだって、自らの国、自らの州の中で恐怖と出会ってしまった。そんな怖さの質が、どこか「九十九本」と似ているんだよね。もっともこっちの場合、安易に「彼ら」のテリトリーを侵してしまった州兵たちにベトナム戦争でのアメリカ兵の驕りがダブらせてあるわけで、自業自得の観が強い。しかもわが「九十九本」の方が、そのおどろおどろしさではかなり勝ってはいるが(笑)。

 監督の曲谷守平については多くを知らないが、そのフィルモグラフィーを見てみれば一目瞭然。「白蝋城の妖鬼」(1957)、「妖蛇荘の魔王」(1957)、「海女の化物屋敷」(1959)、「暴力五人娘」(1960)、「蛇精の淫」(1960)…題名を見るだけで、新東宝イズムを体現している人だと分かる(笑)。だがこの作品を見てみればお分かりの通り、決してベタなケレンで押し通す人ではなさそうだ。実際そうしてくれれば、まだこの映画はオチャラケて見られたのではないか。そうでないから不用意にリアリティが出たし、だからシャレになってない怖さまで出てしまった。

 ともかく僕はこのビンボくさくてイヤ〜な映画を、何だかんだ言ってそれなりに楽しんでしまった事は事実だ。楽しんでしまった自分の不健康ぶりに、どこか後ろめたさを感じもする。後ろめたく感じはするが、それでもやっぱり楽しめちゃった事は間違いない。大蔵貢は間違ってなかった。人はとかくガタガタ言っても、結局こういういかがわしいモノにどこか惹かれるものなのだ。

 この映画が名画座などで上映される折りには、新人だった菅原文太のド下手演技が笑いの的になると言う。確かに相当下手は下手だし、想いを寄せている女がさらわれた割には心配そうでもないよね(笑)。

 また、生娘が必要なのにさらって来たのがセクシー三原葉子…ってあたりも、百人いたらそれこそ九十九人まで(笑)が突っ込んでくるところだと思う。おまけに刀を鍛えたとたん、すぐに生娘じゃないって分かるのもスゴイ。リトマス試験紙だってそんな事分からないよ(笑)。あれならあの刀をいろいろな血液検査に使えそうだ。

 そのへんをアレコレと突っ込めば突っ込めないでもないが…だが、あえて「大爆笑」をする程のモノでもないんじゃないか。僕は見ていて、さほど笑いたくはならなかったよね。

 それでもみんなムキになって爆笑しちゃうとすれば…この映画を今日見る観客は、そうでもしなきゃ見てられないって事じゃないのか?

 僕もそれなら何となく分かる。自分が知っているありふれた日本に、こんな理解を超えた人々やあんな奇妙な風習があり得ると感じたくはあるまい。実際に「いた」訳じゃなくても、「いてもおかしくない」だけで十分だ。だから文太の下手な芝居にでもかこつけて、無理にでも全部笑って済ませたい。すべてを冗談やシャレだと片づけなければ、不安でたまらなくなるからね。

 だってそんな隠れ里が、そんな人々が、いたってちっとも不思議じゃない

 本当はこれらの作品が表立って見れなくなった理由って、「差別」だとか「偏見」だとかに対する配慮だけじゃないんじゃないか? みんな内心分かっているんだよね。今でこそ文明国だハイテクだって言ってるけど、そんなもの本当は違う。民主主義だ法治国家だなんてチャンチャラおかしい。なくなったフリしているけど、本当はまだ消えちゃいない。「迷信」「盲信」「狂信」「妄執」「暗愚」…どう考えても明らかに忌まわしくおぞましく恐ろしく愚かしい事を、みんながみんな信じ込んで思い詰めて暴走していくとてつもなさ…。それがホンの60年ほど前までは、この日本で大手を振って罷り通っていた。

 みんな忘れた気になっているけど、あの“得体の知れなさ”は過去のモノだとは言い切れない。ひょっとしたら、いまだ生き残っているんじゃないか。いやいや…あのオウム真理教を思い出していただきたい。何かキッカケさえあれば、それはすぐにでも息を吹き返す。実際ちょっとばっかりカタチを変えてはいるが、それはすでに僕らの身の回りに戻ってきているんじゃないか。ホラ、あなたのすぐそばに…。

 そんな考えたくもない事を思い出させるから…笑って済ませるしかないのではないか?

 

 


The Bloody Sword of the 99th Virgin

(1959年・日本)新東宝映画 制作

監督:曲谷守平

製作:大蔵貢

企画:島村達芳

脚本:高久進、藤島二郎

出演:菅原文太、松浦浪路、三原葉子、沼田曜一、国方伝、矢代京子、中村虎彦、芝田新、五月藤江、水上恵子

2005年2月24日・ビデオにて鑑賞


 

 

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