「欲望」

  Blow-Up

 (2004/05/10)


ロンドンのイケてるカメラマンが悪ノリで墓穴

 ここは今や世界の先端都市ロンドン。早朝のまだ人けもない頃、街をクルマで走り回っては奇声を上げる一団がいる。彼らは顔を白塗りにしてまるで欽ちゃんの仮装大賞のよう。彼らはイマドキの若いフーテン連中なのか、はたまたどこかの前衛劇団か。

 一方、公共の収容施設から吐き出される浮浪者の一団もいた。その中の一人、汚いシャツ姿に無精ヒゲの若者デビッド・ヘミングスは…しかし浮浪者の人波からはずれると、こっそり隠してあったオープンカーに乗り込む。この男、まるで浮浪者などではない。むしろイケてるクルマを見る限りでは、かなり恵まれた暮らしをしているようだ。

 ヘミングスのクルマは閑静な住宅街へとやって来る。そのうちの何棟かに別れた建物がこの男の寝ぐら。スタジオ兼住居…ヘミングスはプロの写真家だ。

 今日も今日とてモデルの売り込みに来る女の子たちが後を絶たない。ハッキリ言って多忙なオレは、ノーアポじゃ人に会わないからな。その一方で有名モデルを一時間も待たせたりしている。本来ならタカビーこの上なし、待たせようものならそれが例え一分でもキレる事間違いなしのモデルが、ここでは大人しく待っている。何せヘミングスは今をときめく売れっ子カメラマンだ。オレの被写体になれるだけでもありがたく思え!

 早速モデルを前に、ノリのいい音楽をガンガン鳴らせてフォト・セッションの始まりだ。お〜らおらおら、挑発しろ、のけぞれ、唇をなめろ。フィルムが尽きれば助手をアゴで使ってスペアのカメラを持ってこさせ、本人はセクハラスレスレのカメラマン・トークでモデルをノセまくる。そうだ、そうだそうだ、いいぞ…その顔だ。オレのカメラをイチモツだと思え。なめろ、しゃぶれ、しごきたてろ。オレはこのカメラでオマエを犯してるんだからな!

 そして満足するだけ撮影すると、モデルを放り出すようにセッション終了。まったくどこまでもテメエ勝手なヘミングス。それでも、それが通っちゃうからやめられない。カメラマン、デザイナー、プランナー、プロデューサー、マスコミに広告代理店…地球はオレたちギョーカイ人を中心に回っている。

 そんな彼のスタジオに隣接した住まいには、今やヘミングスはほとんど足を運ばない状態が続いていた。妻のサラ・マイルズともお互い干渉し合わない関係。本当はたまに顔を合わせた時にも一言何か言いたそうなマイルズだが、ヘミングスの取りつくシマのない様子に諦めてしまっている。そんな調子で、ヘミングスは夫婦関係もあくまでマイペースだ。

 かと思えば、それぞれの先端ファッションに身を包んだモデルたちをセットに配して、一瞥するや吐き捨てるように一言。「最低だな、君たちは」

 やれ笑顔がなってない、イメージが湧かない…なんだかんだと難癖つけながら、実は貧しい自分のオツムに創意が湧いてこないだけじゃないか。だが傲慢なヘミングスはモデルたちに目をつぶらせ、もっともらしい屁理屈をこねたあげくにその場をすっぽかしてエスケープだ。

 クルマでナウなロンドンの街を走る走る走る。どこまでもクールなオレ。だってオレは飛び鳥落とすギョーカイ人。ここ情報発信基地ロンドンの、その中でも最もヒップなこのオレさ。そんな折り、ちょいと気になる骨董屋が目に付いた。ちょいと覗いてみっか。

 だがこの骨董屋の主人は、ジイサンながら骨があった。どこのチンピラ馬の骨という軽蔑をアリアリと露わに出して、ヘミングスに慇懃無礼に応対だ。何か買いたいと言えば売り物じゃないと来る。捜し物を聞くから「絵」だと答えると「絵はない」と来る。ちょっとばっかり売れてて有名なのかどうか知らないが、そんな傲慢な若造の態度はジイサンには通じない。

 そんなこんなで店を出たヘミングス。目の前には、丘の高台にある公園へと続く階段があった。ふと横を見ると、若い女と初老紳士というカップルがじゃれ合いながら、この公園へと登って行くではないか。好奇心に駆られたヘミングスは、カメラを片手に丘の公園へと登っていく事にした。

 公園は他に人けもなく静か。ただ風が吹いて木々の葉がサヤサヤとざわめくだけだ。丘の上にしては結構広い公園内には、例のカップルとヘミングスがいるだけ。このカップル、見たところでは父と娘ほども歳が離れているのに、これまた異常なほどにベチョベチョくっついている。そんな様子をヘミングスはまるでベトナム従軍カメラマンでもあるかのように、物陰に隠れながらバシャバシャと撮り始めた。

 撮って撮って…だんだんノッて来たヘミングス。徐々に大胆になると、物陰から身を乗り出して撮り始める。ところがそんなヘミングスに女が気づいた。彼女が慌てて駆けつける様子に気づいたヘミングスは、階段を下りて戻ろうとする。そんなヘミングスを追ってきた女は、彼が向けるカメラのレンズを避けようと必死だ。「やめて、何を撮っているの?」

 だがヘミングスは何を撮ろうと自由だろうと言わんばかり。今さらやめようという気もない。それを何とか女は止めて、ここまで撮影したフィルムを渡して欲しいと言い出す。

 その女ヴァネッサ・レッドグレーブは、見るからに訳ありの様子だった。人目をはばかる不倫現場だったのか? ともかくヘミングスは例の不遜な態度で、女の望みを聞いてやるんだか無視するんだかハッキリしない。

 そんなヘミングスに、しまいにはレッドグレーブは彼の指に噛みついてもカメラを奪おうとする。だがヘミングスにそんな子供だましはきかない。ギョーカイ人をナメるなよ! そのうちレッドグレーブは何かに怯えたような表情で走り去って行った。その去り際の姿までカメラで追うあたりが、ヘミングスのカメラマン魂と言おうか悪趣味と言うべきか。

 さて公園から降りて先ほどの骨董屋に再び寄ったヘミングスは、そこで一個の巨大なプロペラを見つける。こりゃ使える…とインスピレーションが湧いたかデマカセか分からないが、ヘミングスはそれを買って自宅へ運ばせる事にした。

 さて公園を去ったヘミングスがクルマでやって来たのは、とある喫茶店。ここで彼は知人の編集者と待ち合わせをしていた。この編集者は写真雑誌をつくっていて、ヘミングスも本業のファッション・カメラマンの仕事の傍ら、自らの満足のために「硬派」な仕事を発表していた。今朝の浮浪者に化けての一幕も、この「硬派」仕事のため。仕事も家もない連中の表情をとらえる…という日頃やってないハードな仕事で、作家的満足を満たしていたのだ。それがいかに傲慢な事か…という点には全く考えが及ばないのが、例のヘミングス流。みなさんもご存じの通り、ギョーカイ人に良心はない。あげく、「ロンドンは退屈だ」「女には飽きた」などと好き勝手な事を言いたい放題。そのコッケイさにも当然気づいてないヘミングスだった。

 ところが話をしているうちに、外に停めたクルマに不審人物が近づいていくのを見たヘミングス。慌てて店を出て駆け寄るが、この不審人物は人混みに紛れてしまった。一体誰が何のために…?

 さて、そんな訳で少々不安を覚えたヘミングスは、ともかく自宅兼スタジオへと戻る。すると…どこで見つけたか探したのか、あのヴァネッサ・レッドグレーブが駆け込んで来るではないか。

 案の定、フィルムをよこせとの催促だ。それを制して、何とか彼女をスタジオに上げるヘミングス。いまや彼はこの不思議な魅力のある女に惹かれていたのだ。

 そうなると、モデルにならないか…とアレコレ誘うのがカメラマンの常道。そう言ったら「やれる」のか。何たる単純で頭カラッポなギョーカイ発想と思ってはいけない。実際に「やれる」らしいから女も女。これじゃギョーカイ人もつけ上がる。バカもおだてりゃ木に登る。

 で、レッドグレーブもただ頼んでもムダだと気づいた。そこでいきなり上半身ヌードを披露したから、ヘミングスはしてやったりと満足な笑みを浮かべる。そうだ、そうだ。所詮女はどいつもこいつも、オレたちカメラマンやギョーカイ人間にやられたがっているのさ。誰かの彼女だろうと女房だろうと、娘でも妹でもギョーカイ人には股を開くに決まってる。

 結局いたすところまでは至らないまでも、レッドグレーブのプチ乳を拝みつつハッパをキメてご機嫌。帰りにはキッチリ電話番号を控えるのも忘れない。だってこれであの女だってオレの魅力にイチコロなのは間違いない。この次会う時にはガチンコ決めてやらねば。だってオレは脳味噌がアソコにあるギョーカイ人だからな。良心や誠実さなんてあるわけがないだろう。

 そして帰りがけの駄賃とばかりに、フィルムを一本くれてやった。喜んで帰っていくレッドグレーブ。だが、それはどうでもいい別の写真だった。いまやあの写真と女が気に入ったヘミングスは、女が脱ごうがやらせようが言うことを聞く気はなかった。もちろん脱いでくれるなら喜んで眺めよう。そんなどこまでもひとでなしのギョーカイ根性が骨身に染みついたヘミングス。

 さて、そうなってみると例のフィルムが気になる。ヘミングスは現像室に籠もり、例の写真の現像とプリントを始める。ありふれた不倫現場をつかまえた写真のように見えるが、それでもヘミングスはご機嫌だった。何しろあの女レッドグレーブはイケてるし、元々ゲスな覗き趣味も旺盛なギョーカイ人ヘミングスだった。

 ところがさすがに一連の写真を次々プリントしていくうちに、どこかただならぬ雰囲気が漂っている事に気づく。この怯えたようなレッドグレーブの表情は何だ? 彼女は一体何を見つめているのか? その視線の方向を拡大して、さらに大きく大きく、繰り返し大きく拡大していくと…。

 茂みの中に、誰かが潜んでいる…。

 それだけではない。その何者かは、明らかに拳銃を構えていた!

 何だこれは? オレはとんでもないスクープをモノにしていたのか? 慌ててレッドグレーブの電話番号にかけてみるが、あの女が本当の番号を教えているはずもない。ヘミングスはますます興奮した。例の知人の編集者に電話だ。「とんでもない写真を撮ったぞ、オレは殺人を未然に防いだんだ!」

 だがそこに誰かがやって来る気配がすると、カツアゲくらった中学生みたいにビビるから笑わせる。やって来たのは、昼間売り込みに来た「ノーアポ」の撮られたがり女の子二人。ホッとしたのが勢い余って、ヘミングスの虚勢が蘇ると同時に巨根も蘇ってくるから単純だ。ホントは単に虚根なんだけどね(笑)。というわけで、女の子二人相手に、例によって例のごとしの脳天気さを遺憾なく発揮するからおめでたい。レェェ〜ナウ〜ン、レナウン、レナウン、レナウンむすめんがっ、オシャレッでシックなレナウンむすめんがっ、ワンサカワンサァ〜ワンサカワンサァ〜、イェ〜イイェ〜イイェイイェェェ〜〜イ…とか何だかんだとジャレて触りまくって脱がせてやっちゃった。あげくメンドくさくなる前に、写真も撮ってやらずに追い返した。「疲れちまったよ、オマエらのせいだからな!」

 さて、抜くもの抜いたら頭も冴えてきた。

 よくよく見ると、レッドグレーブが去って行く様子をとらえた写真には、何かが横たわっている様子が写っているではないか。またしても拡大に次ぐ拡大。引き伸ばしに次ぐ引き伸ばし。

 それは…死体だ!

 どう考えても死体だ。オレは殺人を未然に防いだんじゃない。殺人現場に居合わせていたのだ。さすがに思い上がったギョーカイ人のヘミングスも、コトの重大さにようやく気づいた。

 もう外はどっぷり日も暮れて真っ暗。そんな中をヘミングスはクルマを思い切り飛ばして、例の公園へと駆けつけた。

 相変わらず風が吹いている。木々の葉がカサカサと音を立てている。誰もいない。真っ暗だ。

 そこに…確かに「それ」はあった!

 あの時、レッドグレーブと一緒にいた紳士…彼が目を見開いたまま横たわっていた。さすがにビビりまくるヘミングス。これは大変だ!

 早速家にとって返すヘミングスだが、彼はそこで妻サラ・マイルズが他の男に抱かれているのを見つける。抱かれているマイルズもヘミングスと目が合った。何か言いたげな…でも何も言えない彼女。その様子に、しばしヘミングスも目を離せなくなった。

 そんなこんなで唖然としていたが、今はそれどころではない。ヘミングスはすぐにスタジオに戻ったが、そこで彼は驚くべき光景を目にする。

 あの一連の公園写真が、一枚もない!

 プリントし引き伸ばした写真が、スタジオ狭しと何十枚も貼ってあったのに、それらが一枚もなくなっている。それだけではない。肝心のネガも持ち去られている。一体誰がやったのだ?

 唖然としているヘミングスの元へ、先ほど一戦交えていた妻のマイルズがやって来る。まるで何もなかったかのように…。だがわざわざ足を運んで来たというのは、やはりヘミングスが気になっての事に違いない。それなのに口を開けば、「彼との関係はやめないわよ」…なんてしょーもない会話。

 ヘミングスはヘミングスで、「殺人があったんだ」…などと当座の話題を振るばかりだ。当然会話は盛り上がらない。そんな状況にシビれを切らしてか、マイルズが突然必死な表情で訴える。

 「悩んでるの、助けてよ!」

 だが、その後が続かない。言いたい事もあるし、言わねばならぬと分かっているのに口に出せない。何でこの二人はこんなになってしまったのか。結局マイルズは、為す術もなく家に戻っていった。

 さてヘミングスは、例の編集者を捜して夜の街に出た。すると、途中であのレッドグレーブを目撃するではないか。だが運悪く、いずこかで見失うヘミングス。ここでは…と入っていったのは、ビルの中にあるライブ・ハウスだ。

 ただ今ロックバンド「ヤードバーズ」が演奏中。観客はなぜかロックとも思えぬほど静かに聞いている。ところがアンプの不調に腹を立てたギタリストが、いきなりギターを叩き壊すから大騒ぎ。それまで借りてきた猫みたいだった観客は、突然エキサイトして大暴れするからヘミングスも驚いた。そんなてんやわんやから逃げ出すヘミングス。ともかくレッドグレーブは見つからなかった。

 さて、例の編集者は内輪のギョーカイ・パーティーに出席していた。みんなでハッパを吸っていい気分。編集者も何を言っても上の空だ。ヘミングスはもう説明するのも億劫になっていた。

 そんなこんなで夜が明けた。

 改めて例の公園に出かけてみる事にしたヘミングス。手元の写真は奪われたが、今ならカメラを持っている。例の死体を撮れれば、これを世間に訴える事が出来る。

 相変わらず風が吹いている。木々の葉がカサカサと音を立てている。誰もいない。

 死体もない。

 なくなってしまった。事件の痕跡はどこにもなくなってしまった。あれは本当にあった事かどうかも、今となってはあやふやだ。

 疲労を覚えたヘミングスは、公園のそばのテニスコートへとやって来る。すると、そこに例の顔を白塗りにした欽ちゃんの仮装大賞軍団がクルマでやって来るではないか。彼らはクルマから降りると、テニスコートに入っていった。そしてパントマイムで、ボールもなしにテニスの試合を始めた。回りの連中はないはずのボールの行方を目で追った。

 ボールはない…いや、あるのに見えないだけか。みんなの目が節穴で、ホントはあるモノを見ることが出来ないのか。それとも世の中の大半の人が、元々ないモノをあるフリしているだけなのか…。

 

「不条理」の作家アントニオーニ恐るるに足らず

 ミケランジェロ・アントニオーニのあまりにも有名な作品。このたびDVD化されたとあって、早速購入した。実はこの映画、僕はすごく好きなんだよね。それは僕が高尚なアントニオーニ芸術に傾倒している…というわけでは決してない(笑)。

 実はこの映画、僕は高校か大学の頃に深夜テレビで見たのが最初なんだよね。で、たぶん題名に惹かれて見たんだと思う。

 「欲望」…いかにもエロが見れそうなタイトルだったからね(笑)。

 で、実は白状するけど、僕はヴァネッサ・レッドグレーブって好きなんだよね。実は僕は知的で上品なイギリス女が好きで、そういう女が脱いだりいやらしい事をするのを見るのが好き(笑)。デボラ・カーとかジュリー・クリスティーも好きだね。品があるのにいやらしいって女は最高だ。あんまりこればっかり言ってると人格疑われるけど。

 で、タイトルが「欲望」でヴァネッサ・レッドグレーブが出ると来れば、見るしかないでしょう。エッチ場面を期待して、夜中ブラウン管を食い入るように見ましたよ。結果的にはちょいとだけどエッチ場面があったから良かったけどね。

 ところが僕は、この映画の不思議な魅力の虜になってしまった

 あの何度も出てくる静かな公園の不気味さ。フィルムに隠された秘密に気づいた主人公が、どんどん写真を引き伸ばしてプリントしていくカッコよさ。そして、あの何とも宙ぶらりんな気分にさせられるエンディング…。一回見ただけでシビれちゃったんだよね。

 当時はビデオデッキなんかない。レンタルもなかった。だから、一度見られただけでも儲けモノ。「欲望」は、僕の頭のスクリーンにおぼろげながら保存された訳だ。

 だってカッコいいじゃないか。イケてる1960年代のロンドン、イケてる女とファッション、イケてるヴァネッサ・レッドグレーブが上半身ヌード、そこにイケてるサスペンス…そしておっかなくも不条理な結末。

 僕は「欲望」を忘れる事が出来なかった。すると…そんな僕の熱望に応えてか、今はなきシネヴィヴァン六本木で、1994年の春にレイトショーが行われたんだよね。当然見に行った事は言うまでもない。

 それからまた10年。またしても「欲望」が見れるとは…これまさに僕にとっては至福そのものだ!

 ところで僕は冒頭に、高尚なアントニオーニ芸術に傾倒しているわけではない…と断言したよね。まったくその通りで、僕にとって「欲望」はただただカッコ良くも面白い映画なわけ。

 そもそもミケランジェロ・アントニオーニの映画って、僕はそんなに熱心に見ている訳ではない。実は見てない方が圧倒的に多い。アントニオーニのミューズだったと言う、モニカ・ヴィッティの出ている作品なんか一本も見ていない。だからアントニオーニを語れる資格なんかない。

 だけどアントニオーニの映画と来れば、何だか「愛の不毛」だとか「不条理」だとか、頭が痛くなるフレーズが並んじゃうってのはいかがなものだろうか。これってつまんないから見るなって言ってるみたいだよ。僕が見ているわずかな作品から察する限りでは、アントニオーニってそんなクソ難しくつまらないものじゃないと思うんだよね。

 いい例が、1982年の「ある女の存在証明」だ

 これってアントニオーニ久々の作品だったらしいよね。もっともアントニオーニって寡作家で、そのキャリアの大半で、「久々の作品」ばかり発表していたようだけど(笑)。

 で、この映画では主人公が有名な映画監督らしい。

 …とくれば、これはアントニオーニ自身の事だなと分かるよね。私小説的な映画をつくろうとしてるのはミエミエ。ところが内容がまたスゴイ。どうも新作の構想に行き詰まってるらしいが、その傍らでチャッカリ愛人とはやる事をやっている。それなりの監督らしいから世間的に地位もあるらしく、自信タップリなこの男。セックスも自信タップリで、ハードにこってりとキメている。女はヒ〜ヒ〜泣いて、これならさぞかしこのオレに満足してる事だろうよ。

 ところが、ある日そんな女が失踪する。

 それでもこの主人公はモテ男らしく、別にもう一人の女がいるわけ。まぁ、女には困ってないぜって事。ところがこの女も爆弾発言。別の男の子どもを宿したと言い出す。宿したって…そりゃオレの目を盗んで浮気していたって事でしょう。いや、子どもをつくろうって事は浮気とは言えないか。向こうが本気かい。

 しかもその頃失踪した女の方も、逃げた居所が分かる。これが驚くなかれ、何と同性の恋人つくって遁走しちゃったと言うのだ。なに〜? オレって女にオンナを寝取られたわけ?

 オレは文化人で世間的にも知られている。見た目にも男前だし知性もある。金だってあるしいい暮らしもしている。何しろセックスのテクは抜群で、イカせない女はいない。だからオレとつき合ってる女は、みんな満足しているはずだ…。

 そんな男の自信と傲慢が、足下からガラガラっと崩壊していく。トホホ、オレって一体何なわけ? これじゃボロボロのバカじゃん…(涙)。

 …とまぁ、ここまで平たく語っちゃうのもどうかと思うし、見たのが随分前だから記憶もうっすらだが、少なくとも僕にとっての「ある女の存在証明」ってそんな映画だったと思うよ。

 何と分かりやすい映画だ。これでピンと来ない男はいないだろう。だから決して、僕はアントニオーニって難しい映画をつくる人って思ってないわけ。面白くてカッコいい映画か、身につまされる男のトホホ映画をつくる人って思ってるんだよね(笑)。アントニオーニ信者は怒るかもしれないけど、たぶんあの人ってそんな人だと思うな。

 

文字通り時代が生んだ作品

 さて、この「欲望」だけど…まさにどこから見ても、「時代が生んだ」としか言えない作品なんだよね。

 まずは、この作品が生まれた経緯がそうだ。イタリアの映画作家アントニオーニが、いかにしてロンドンを舞台にしたアメリカ資本の英語映画を撮ることになったのか…。

 1960年代がハリウッドを初めとする世界映画斜陽の時代だったという事は、このサイトでも繰り返し語って来たね。最近ではワイルド・パーティー感想文でも触れていると思うから、興味があったら読んでいただきたいと思う。

 ハリウッドがそんな斜陽に対して取った対策を改めてここで挙げると…テレビに出来ないスペクタクル映画の製作、テレビに出来ないエロ・グロへの傾倒、人件費や物価の安いヨーロッパなど海外への制作拠点の移動、さらにそれから派生した海外映画人の大胆な起用…などがある。

 ここで注目したいのは、最後に挙げた海外映画人の起用…だ。

 元々ハリウッドは海外の才能を大胆に起用して、パワーアップを図ってきたところがある。例えばオランダのポール・バーホーベン、オーストラリアのピーター・ウィアーらなどは、もはやハリウッドの映画人と言ってもいいくらい溶け込んでいる。だがこの1960年代後半から1970年代前半という時代には、本来越境しないであろうはずの海外映画人もこぞってアメリカ映画の制作を試みていたのだ。

 例えばフランソワ・トリュフォーが「華氏451」(1966)を製作する。これはイギリス映画だが、資本はアメリカのユニバーサル映画から出ていた。イングマル・ベルイマンでさえ、この時代「ザ・タッチ」(1971・日本未公開)をエリオット・グールド主演で撮った。さらにロジェ・バディムもロック・ハドソン主演のエロ風味学園サスペンス「課外教授」(1971)を撮りにアメリカへとやって来る。クロード・ルルーシュはキャンディス・バーゲンの出た「パリのめぐり逢い」(1967)あたりからアメリカ資本を導入…。果ては黒澤明が「トラ・トラ・トラ!」を監督する話(最終的に降板)が具体化していった背景にも、こうした海外映画人とハリウッドの相互乗り入れ的な空気があったはずだ。

 で、非英語圏の映画監督がアメリカ資本の映画を撮る場合には、まずはイギリスを足がかりにする場合も多かったんだよね。前述のトリュフォー作品「華氏451」なんかもその一例だ。アントニオーニのこの作品も、イタリアの大物プロデューサー=カルロ・ポンティが制作しながら、物語や舞台や出ている役者は英国…というイギリス映画。ただし資本はアメリカのM.G.M.から出ている。

 どうもアントニオーニという人、イタリアでは資金難などで思うように作品がつくれず、国際的評価の高まりに乗ってアメリカ資本の映画をつくろうと思い立ったらしい。それとちょうど海外監督に目を付けだしたハリウッドの思惑が一致したところから、この作品が誕生したのだろう。それって実は、「トラ・トラ・トラ!」製作へと邁進していったこの時代の黒澤明とも一致するんだよね。ただし黒澤は挫折して、彼のアメリカ映画は夢と消えてしまった。もしあれがうまくいっていたら、黒澤がいくつかの英語映画…アメリカ映画を残していた可能性はある。あんな超大作じゃなくて、もっと小品だったら良かったのにねぇ。

 そんな訳で英語映画製作に乗り出していったアントニオーニは、イギリスで撮った「欲望」の後、本格的にアメリカに乗り込んだ「砂丘」(1970)、さらにジャック・ニコルソンを起用した「さすらいの二人」(1974)を発表する。これらはいずれもカルロ・ポンティ製作のM.G.M.映画としてつくられたわけ。ただ、それぞれの制作年を見てみれば分かるとおり、大して作品の発表ペースは早くなってないけどね(笑)。結局寡作家には変わりなかった。この後はイタリアに戻って発表した「ある女の存在証明」があり、さらにしばらくの空白を経てヴィム・ヴェンダースの協力を得て発表した「愛のめぐりあい」(1995)があるだけだからね。もう高齢だから健康的にも問題があって、それでヴェンダースに手伝ってもらうハメになっちゃったわけ。これほどの人が製作環境は必ずしも恵まれていなかった…というのは、ちょっと残念な事だよね。

 さてそんなアントニオーニの英語映画時代を支えたカルロ・ポンティは、先にも述べたようにイタリアの大プロデューサーだ。そのキャリアの初期には、同じくイタリア出身の国際派プロデューサーであるディノ・デ・ラウンレンティスと組んで仕事をしていた事もあるらしい。で、嫁さんがソフィア・ローレンというのは有名な話。ポンティは嫁さんローレンの国際的名声と、当時のハリウッドと海外の相互乗り入れの風潮に乗って、国際的な活躍をする事になるわけだ。ちなみにこのプロデューサーの夫にスターの妻ってのは、この時代のイタリアの大プロデューサーのステータスみたいで、このポンティ=ローレン夫婦の他、ディノ・デ・ラウンレンティス=シルヴァーナ・マンガーノ夫妻、フランコ・クリスタルディ=クラウディア・カルディナーレ夫妻がいるんだね。

 さてカルロ・ポンティは…と言えば、「昨日・今日・明日」(1963)や「ひまわり」(1970)…など一連のヴィットリオ・デ・シーカ(とソフィア・ローレンが組んだ)作品、デビッド・リーンの「ドクトル・ジバゴ」(1965)…など派手な活躍を続けていた。1970年代以降はその活動が日本に伝えられる事は少なくなったが、それでも「カサンドラ・クロス」(1976)や「特別な一日」(1977)などローレン絡みの作品で気を吐いていた。

 まぁ、とにかくアントニオーニのこの作品は、当時のこうした映画界の状況ヌキには語れない訳なんだよね。

 で、この「欲望」だけど、もちろん僕一人が面白いと大発見して騒ぐような映画ではない。発表当時から現在に至るまで、傑作の誉れ高い作品だ。カンヌ映画祭ではパルム・ドールも得ている。途中で重要人物がいなくなっちゃったり(ここでは死体もいなくなっちゃった)、謎めいた事が起こったり…がお約束のアントニオーニらしい作品でもあるから、もちろんファンには熱狂的に迎えられたんだろうね。

 そしてブライアン・デ・パーマの「ミッドナイトクロス」(1981)とかフランシス・コッポラの「カンバセーション/盗聴」(1974)とか、その後に影響を受けた作品も数知れず。むろん「オースティン・パワーズ」(1997)でモテモテ主人公がカメラマンをしているのは、確実に「欲望」のデビッド・ヘミングスのイタダキだ。そんな極め付きの一本となったこの映画は、まさしく傑作の名に恥じない作品であることは間違いない。

 そして何より、1960年代半ばのホットなロンドンを舞台にしているあたりが大いにウケた。

 この映画、リバイバルされたりイマドキ改めて取り上げられたりする時には、もっぱら1960年代ファッションや風俗がオシャレにモテはやされる。ハッキリ言ってその見方は正しい。いろいろ映画はあるけれど、あの1960年代の気分というものをこれほど的確に見せてくれる映画って、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964)を筆頭にそれほど多くはないはずだ。子ども時代とは言え、その時代の空気を幾ばくかは吸う事が出来た僕には、この映画ってまさにそんな気分を今の時代まで真空パックにした作品のように思えるんだよね。

 この映画の製作から発表に至る1966年という時代は、まさにロック界を中心にイギリス=ロンドンが世界の中心になろうとしていた時だった。

 1966年という年がどんな年だったかを振り返るには、ビートルズのキャリアを見てみれば分かりやすい。この年彼らは初めてクリエイティブな意欲を持ってつくった大胆なアルバム「ラバー・ソウル」を発表。そこにはフランス語も交えて小ジャレた雰囲気が漂う「ミッシェル」とか、インド楽器シタールをロック音楽に初めて導入した「ノルウェーの森」などが収録されていた。当然このような意欲的な試みがエスカレートした結果、ビートルズはスタジオでオーバーダビングにオーバーダビングを重ねた複雑なレコーディングを繰り返す事になる。続いてこの年に発表したアルバム「リボルバー」に至っては、ほとんど前衛音楽と言っていい「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を筆頭に、ジョン・ケージの実験音楽のようなテープ逆回転、多重録音、電子楽器の多用…などなどの技巧を駆使。ここに至るや、ビートルズはもはや自分たちの音楽をステージで再現不可能な状況になる。かくして彼らがコンサート活動の中止を宣言したのがこの1966年。その直前に日本公演を実現してくれたのは、日本のファンにとっての幸運だった。翌1967年には「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のシングルや「サージェント・ペパーズ」のアルバムを発表。完全にサイケデリックな世界に浸りまくる事になるわけだ。

 さらに他の英国のロック・アーティストの動向を見てみると、ローリング・ストーンズが初めてのビッグ・ヒット「サティスファクション」を発表して地位を不動のものにしたのが前年1965年。ザ・フーの出世作「マイ・ジェネレーション」も1965年だ。こうして全世界にブリティッシュ・ロックの大攻勢が波及し、ロンドンは文字通りこの時代の先端都市、情報発信基地となったわけ。ついでに言えば、ここにモデルのツイッギーの大人気やらショーン・コネリー主演で一世を風靡した007シリーズの大ヒット(「007は殺しの番号=ドクター・ノー」は1964年の作品)も加えれば、いかに当時のロンドンが「ナウ」(笑)だったか分かるだろう。

 こうしたカルチャー関係の大事件もそうなら、ファッションも一大革命だった。ビートルズから始まった男性のロング・ヘア。男がピンクや花柄を着るのもこの時代から…というか、今ではそれも過去のものになっちゃったよね(笑)。女のミニスカートもロンドン発の大流行だった。とにかくこの当時のロンドンは尖ってたんだよね。「オースティン・パワーズ」でバカにされながらも懐かしく振り返られていたのは、こうした時代そのものだったわけ。

 で、「欲望」は出ている役者もいかにもこの時代を体現している俳優揃い。

 まずはビリングのトップが、ヴァネッサ・レッドグレーブ。彼女は「わが命尽きるとも」(1966)、「キャメロット」(1967)、「裸足のイサドラ」(1968)、さらにはオスカー助演女優賞を取った「ジュリア」(1977)…最近じゃ何とビックリ「ミッション:インポッシブル」(1996)、そして「ディープ・インパクト」(1998)…あたりに出ていたのを覚えていらっしゃるだろうか。この人ってプライベートも派手な人で、「キャメロット」で共演したフランコ・ネロの子どもを未婚で生んじゃったり、過激な政治運動でも知られていたんだよね。いかにもこの時代をくぐって来た人だけあるよ。

 さらに実質上の主役デビッド・ヘミングスは…と言うと、ハッキリ言って映画の代表作はこの「欲望」ぐらいしかない。後はこの作品で掴んだ名声や知名度で、つまんない作品や小さな役にありついていた感じだ。晩年は「スパイ・ゲーム」(2001)、「リベリオン」(2002)の小さな役があるくらい。それでもヘミングスの名前は、この「欲望」がある限り不滅だと言える。そのくらい、この映画の彼はハマってる。

 この映画にはデビッド・リーンの「ライアンの娘」(1970)で大ブレークする直前のサラ・マイルズも出ている。やっぱり可愛いし、どこかいやらしい。ジュリー・クリスティーなどと共通する、英国の品のいい美女のいやらしさだ。これがいいんだよねぇ(笑)。

 …でもって、音楽はハービー・ハンコックだ。これがまたイカしてる。オープニングのテーマ曲なんか、ジャズ・ミュージシャンの彼が「いかにも」当時のロック・チューンを見事に聞かせるからスゴイ。それが途中からちゃんとジャズになるあたりも聞きモノだ。

 聞きモノと言えば、この映画にヤードバーズが出てくるのは有名だろう。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの三大ロック・ギタリストが在籍していた伝説のグループ。実は名前ばかり有名だけど、僕もその音楽はあまり聴いた事がない(笑)。この映画では、何とこのグループのライブ・パフォーマンスが出てくる。とは言っても、実はダビングの口パク演奏なんだけどね。それでも今となっては貴重な映像だ。で、ヤードバーズもメンバーチェンジが著しかったから、一体いつ頃のメンツなんだろう…と、今回改めてよく見てみた。すると、ジェフ・ベックとジミー・ペイジのツイン・リード・ギターを要していた頃の演奏ではないか。これには感激したよ。

 笑っちゃったのは、あくまでニコニコと嬉しそうにギターを弾くジミー・ペイジに対して、イライラしていかにも性格悪そうなジェフ・ベックという構図(笑)。アントニオーニって彼らのキャラを知ってたのかなぁ? アンプの調子が悪くてノイズが出るのに腹を立て、演奏中だと言うのにベックはギターをブチ壊してしまう。この場面の彼は「素」で機嫌が悪そうだ。

 それにしても楽器ブチ壊しと言えば、ピート・タウンゼントがギターをへし折りキース・ムーンがドラムセットを蹴倒す、ザ・フーのムチャなパフォーマンスを連想するよね。それって実はこの映画と無関係ではない。実はヤードバーズの前に、この場面の出演バンドはザ・フーが想定されていたらしいんだよね。出演交渉も行われていたと言う。それがいかなる経緯でヤードバーズに交替したのか分からないが、この場面を見る限りでは、アントニオーニは明らかにザ・フーを出したかったように思える。そんな事させられたら、さすがのジェフ・ベックだって気分が悪いだろう(笑)。

 

ロック小僧どもに厳しいアントニオーニの眼差し

 ところで、そんな先端都市ロンドンを見事に捕らえたアントニオーニ。そのあたりのセンスは「さすが」と言われる所以だが、彼って果たしてドラッグ・セックス・ロックンロール、ラブ&ピース、オ〜イエ〜(笑)みたいな気分でこの映画をつくったんだろうか?

 実はそのへん、僕にはちょっと疑わしいなと思えるんだよね。それはまたしても、あのヤードバーズ出演のライブハウス場面を見てみれば分かる。

 ロックバンドがノリノリで演奏している真っ最中。だが観客はクラシックのコンサートみたいに微動だにしない。ご覧になった方なら、その異様さを敏感に感じるはずだ。それって僕には、まるで小津安二郎が晩年東宝で製作した「小早川家の秋」(1961)での一場面を想起させるんだよね。宝田明たちの若者グループが、喫茶店で「雪山賛歌」みたいな歌を合唱している。ところがそれが何とも奇妙なんだよね。みんな肩も揺すらず席から微動だにしないで、ただ顔だけがにこやかに元気よく合唱…という気持ち悪さだ(笑)。で、「欲望」でのヤードバーズのライブ場面はこれに匹敵する感じがする。

 まぁ、小津に関して言うなら、この人ってもうこの段階では若者なんて分からない状況だったんだろうね。若者の合唱場面なんて、ホントはやりたくもなかったろう。あの場面は東宝という他流試合での事もあって、宝田明を出さねばならない…とか条件を突きつけられ、どうしようもなくやらされてしまったような気がする。

 だがアントニオーニのヤードバーズは、これとはちょっと違う。なぜならお通夜みたいなライブが、ジェフ・ベックのギターブチ壊しで一変。たちまち観客エキサイト…って展開になるからね。あれは意識的に描いているはずだ。何となく冷ややかで意地悪な視線…。

 そもそも、こんな映画をつくったアントニオーニが、ロック音痴だったろうと言うつもりはない。少なくとも彼はザ・フーが楽器破壊パフォーマンスをしている事は知っていた。ロンドンが当時の先端だと、そのエッジが尖りきる前に知っていた。次に発表した作品が学園紛争の嵐が吹き荒れるアメリカを舞台に、フリー・セックス(笑)気分まで盛り込んだ「砂丘」であること、さらにはピンク・フロイドを音楽に起用したあたりを見ても、アントニオーニは絶対にロック音痴ではあり得ない。確かにアントニオーニは、ロックや当時の先端文化に詳しかった訳だ。

 だけど、そんなロンドンやロックや若者ムーブメントにノリまくっていたかと言えば、実は僕は疑問が残るんだよね。

 それはデビッド・ヘミングス演じる主人公を見れば分かる。

 若いくせに富と名声を得て、自分じゃすべて分かってると思い込んでいる傲慢ぶり。女に対する不敵な態度。それでも自分は高感度人間だと思っていて、事実そうだから何も怖くないと思っている。ま、この当時のロンドンの先端クリエーターだったら本気でそう思っていただろうね。そんな感じがよく出ているよ。今でも日本のバカな広告屋どもは、誤解して同じ事やってるかもしれないが(笑)。

 それが持ち前の傲慢さ図々しさで、よせばいいのに妙な年の差カップルを被写体にする。

 それまでのヘミングスの言い草がまた笑わせる。「ロンドンは退屈だ」「女には飽きた」…オマエ一体いくつなんだよ? そんな分かった気になってのズケズケ土足で人の玄関先上がり込み状態が、彼をとんでもない状況に陥らせていく

 レッドグレーブ扮する謎の女が現れた時も、身に迫る異常事態に気づかない。何せ女も世の中も思いのまま…とタカをくくっているし、ギョーカイ人の自分ならそれが通ると思い込んでいるから始末に負えない。大人の誘惑ゲームを仕掛けてるつもりかもしれないが、頭の中は脱がせたい触りまくりたい女の股の間に滑り込みたい…という中学生並みの発想しかない。まんまとオレ様の魅力にコロリ…と思い込んでいるが、実は自分こそ女の術中にハマっていた。

 自分が撮った写真にとんでもない秘密が隠されていると気づいてからは、さすがにシリアスになるヘミングス。それでも「自分が殺人を未然に防いだ」とか、「これは特ダネだ」とか、てんでピントはずれな事しか思い付かない。あげく自分に言い寄ってくる女たちが現れれば(これが無名時代のジェーン・バーキン!)、ホイホイと脱がせて自分もパンツを脱ぐアホぶり。オマエそんな事をやってる場合かよ。

 いよいよ自分がとんでもない事にハマりこんだと気づいたときには、すでに手遅れだった

 物語の終盤、ヘミングスと妻サラ・マイルズが気まずい会話をする場面は実に秀逸だ。浮気現場を見られてしまったマイルズは、慌ててヘミングスの元へとやって来る。それでも「自分は浮気を続ける」…と心にもない虚勢しか張れないマイルズも哀れだが、彼女にかけるべきロクな言葉も思い付かないヘミングスはもっと哀れ。何か言わねばこのままではダメだ…と思っても、一度出来たバリアを破れない。結局無難な言葉でお茶を濁して終わってしまうこのカップルの様子は、自分にも覚えがある。どうにかしなくては…と思っても、そういう時にはすでにお互いは終わってしまっているんだよね。ここは最初に見た時は何とも思わなかったのだが、今回改めて見たら実に痛かった。ものすごい実感がある。ホントに暗礁に乗り上げた男女ってああなんだよね。あれって絶対アントニオーニ自身も経験したに違いない。

 最後、変なパントマイム軍団が出てきてボールのないテニスを始めるくだりは、いかにも「不条理作家」アントニオーニって思われて評価されてるんだろうね。これって訳分からないって思う人もいるかもしれない。確かに僕も最初は意味が分からなかった。だけど改めて見たら、これまた分かりやすすぎるくらい分かりやすい。こんなに明白なことを言ってたんだよね。

 僕らは…特に情報化時代やら耳年増やらでいろいろ余計な事を頭に詰め込んでいる現代人は、若い奴でも妙に頭でっかちになり過ぎている。だからヘミングスのように何もかも分かったような事を言うし、事実そんな気にもなっている。それが傲慢で愚かだなんて事は分からない。 これが年寄りならなおさらだろう。

 そして他人に対してナメ切った事をしていて、それを何とも思っていない。

 それで自分がいっぱしの人間になったつもりでホイホイ調子こいていたら…世の中が突然アッと驚く牙をむく。この映画ってそういう事だと思うんだよね。それなら、僕らにだっていくらでも覚えがある事だよね。

 ありがちな不倫現場だと思ったら、そこには不気味な陰謀があった。それを見抜いたゾと調子こいてたら二転三転。事件は自分の手に負えないくらい奇妙でヤバイ事になっていた。それまで常に偉そうな態度を崩さなかったヘミングスが、死体を見つけて唖然とする表情は象徴的だ。もう彼の力の及ぶ範疇ではない。だが、それでも足を突っ込んでしまったものはどうしようもない。やめときゃいいのにズカズカと入っていって、気づいたら見事にドツボにハマる。もうどうしていいか分からない。

 しかも、その死体が影も形もなくなってしまう

 そうなると、自分の見たモノが本当にあったかどうかも怪しくなってしまう。何もかも分かっていたし、自分の手の内にあると思っていたけど、そんなのはアホな思い込みでしかなかった。自分じゃイケてる男と思っていたけど、実は何も知らないウブな甘ちゃんに過ぎなかった。 女にモテモテで誰でもモノに出来ると思い込んでいたが、結局は自分は利用されていただけだった。

 あのラストのパントマイム軍団は、そういう事だろう。目に見えてないからと言って、そこに何もないとは限らない。自分には見えてないのかもしれない。あるいは…あるつもりになっていても、本当はそこには何もないのかもしれない…。

 そのうち見物していたヘミングスはこのパントマイム軍団につき合って、見えないテニスボールを「在る」かのように振る舞うのだ。

 ここで注目していただきたいのは、「THE END」とエンド・マークが画面一杯にクレジットされる寸前。何と芝生の上にいたヘミングスその人さえ、不意にその場から姿を消してしまう…という点だ。

 オマエって実は存在しているかどうかもあやふやな、空疎な人間ではないのか?

 それってイマドキの僕らにも、喉元に突きつけられた刃みたいな問題だよね。アントニオーニはそれを、当時としては最も先端を行ってたロンドンで、現代人に普遍の問題として見せつけたんだと思う。だってアントニオーニは当時ですでに54歳。たぶんロックなどに理解は深かったとしても、心の底ではこう思ってたんじゃないか。調子こいてるんじゃねえぞ、若造どもが!

 結局、当時スウィンギング・ロンドンを席巻していたあの若者たちも、何も分かってはいなかったのだ。それはロンドンの代表選手みたいだった先端ロック・アーティストたちの末路を見ても明白だ。最終的に、彼らはアッと言う間にビッグ・ビジネス…アメリカのエンターテインメント産業の中に取り込まれてしまった。そして60過ぎた今でもロックをやっている。

 その事自体が悪いとは思わないし、僕自身もそれらを楽しんではいる。だけど、それって当時彼らが理想としていたものではないだろう

 例えばザ・フー。彼らはキース・ムーンの死で解散した後も、何度も何度もだらしないほど再結成を繰り返している。ついにはジョン・エントウィッスルまでが鬼籍に入ってしまい、ロジャー・ダルトリーとピート・タウンゼントの二人だけになってしまったが、それでもいまだにザ・フーをやっている。その中心人物タウンゼントは、つい最近も幼児ポルノを楽しんでたとかで捕まったばかり。堕落と言ってしまうのもどうかと思うが、少なくともこれが彼らのかくあるべき姿ではなかっただろう。こんなものを望んでいたはずもない。

 アントニオーニはそんなスウィンギング・ロンドンの末路を予感していたきらいもあるように思う。

 だけどそんな調子こいてる奴らのアリサマが単なるオヤジの説教の域にとどまらず、痛さこの上なしの実感に溢れているのは…それらがたぶんアントニオーニにとってもシャレにならないような、自身の通過してきたもの…でもあるからだろう。いや、この時にはまだ通過中だったのかも。そんな苦々しさも含めての、皮肉な視点だと思うんだよね。

 分かってる気になってるが、何も分かっていない…。もちろん、それは見ている僕らも無縁ではない。

 で、ここで余談だが、この話ってどこかで見た事はないか?

 若くして成功して調子こいてる男が、ある日ひょんな事からそれまで知らなかった世界をかい間見てしまう。そこでよせばいいのに身の程知らずにドンドン深入りしてドツボにハマる。しまいには何が本当か分からなくなり、癒しがたい不安感の中に取り残されてしまう…。こんな映画をどこかで見たことはないか?

 僕は今回改めて「欲望」を見て、これってスタンリー・キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」(1999)に少なからず影響を与えていると気づいたんだよね。直接影響を受けたとおぼしき「ミッドナイトクロス」よりも「カンバセーション/盗聴」よりも、このキューブリック作品の方がどこか共通する空気を持っている。キューブリックも、アントニオーニと同じ事を考えていたんだろうか?

 まぁとにかく、この「欲望」という映画の結末は「不条理」などと言うからカッコよく聞こえるものの、実は調子に乗ってたゴーマン男が自分のアホさ加減に気づかされて呆然…という、何ともトホホ感溢れるものなのだ。それは「ある女の存在証明」を見た時の印象とも共通する、どうにもみっともないトホホ感…アントニオーニ特有のトホホ感だ

 それまで主人公が虚勢を張れるだけ張りまくり、ふんぞり返れるだけふんぞり返っていい気になっていただけに、一旦オノレの愚かさ小ささを痛感した時の救いようのない痛さが身につまされる。そして、そのゴーマンさは決して特別な人間のモノではない。きっと今に生きる人間たちみんなが共有している気分なんだ。当時の先端都市ロンドンを持ち出したのは、たぶんそんな意図からだろう。ここに描かれた主人公のみっともなさや恥ずかしさには、僕も…そして大抵の人たちも共感せざるを得ないと思うんだよね。

 いろいろ分かった気になっていようが、いかにセンスが良かろうが…心の底で大切に思っている人間に「愛している、行かないでくれ」の一言も言えないような奴が、果たして本当に賢いなどと言えるだろうか?

 否。それは愚か者でしかない。

 そして、この僕もそんな愚か者だった。この主人公とどこも変わりはしない。僕は有名でも金持ちでもないし、女が抱いてくれ…と押しかけてくる訳でもないが、愚かさだったらこの主人公とタメ張れる。

 僕らはきっと、本当は何も分かっていないのだ。「分かっている」つもりで「分かっている」と公言しながらも、実は何も分かっていないのだ

 ならば僕らは、そこから始めなくちゃいけないんじゃないか?

 自分が何も分かっていないという事…まずはそれを「分かる」ことこそが大事なんだろうと思うんだよね。

 

 


Blow-Up

(1966年・イギリス、イタリア) M.G.M.映画配給

プレミア・プロダクションズ・カンパニーINC.制作

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

製作:カルロ・ポンティ

脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド

出演:ヴァネッサ・レッドグレーブ、デビッド・ヘミングス、サラ・マイルズ、フェルシュカ、ジェーン・バーキン

2004年4月25日・DVDにて鑑賞


 

 

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