「キャリー」

  Carrie

 (2002/05/20)


キャリーMy Love?

 ある公立高校の体育の授業を、あなたが覗いてみたと思いねぇ。今日はコートで女子のバレーボールの授業だ。ボールをやりとりする女の子たちの中で、一際ちっちゃくなって隅に隠れるように立っている娘…それがキャリーことシシー・スペイセク、今回の物語の主人公だ。一見して運動オンチだと分かる身のこなし。本人もボールが自分のとこに来ないで欲しいと願っていることが、全身からオーラのように立ち上っている。だが、そういう態度はすぐに他人に伝わるものだ。たちまち「キャリー=スペイセクを狙え」ってことになって狙い撃ち。案の定彼女はボールを取り逃がした。そして、味方のチームの女の子たちに罵倒されまくるのもいつものお約束だ。そりゃイジメられても仕方がない。キャリー=スペイセクは見ているだけでイジメたくなる女の子だから。

 そんな体育授業の後のシャワールーム。どいつもこいつもアメリカの女子高生ってのは育ちがいいねぇ。胸なんかたわわって感じ(笑)。みんながいいかげん身繕いを終えようとしているその時も、奥でシャワーをゆっくり浴びているのは…やっぱりキャリー=スペイセク。どうせイジメられるんだからサッサと済ませればいいものをと思うのだが、こういう時にやっぱりタラタラやってしまうところがイジメられる由縁なんだね。ところが今日はちょいといつもと展開が違った…。

 何と、キャリー=スペイセクの股間から鮮血が流れ落ちるではないか。それに気付いて恐怖におののくキャリー=スペイセク。血に染まった手をかざしてシャワーから飛び出し、身繕いしているクラスメートたちの中に真っ裸で突っ込んでった。

 きゃあぁぁぁ〜〜〜助けてぇぇぇ〜〜〜!

 これに一瞬ギョッとするクラスメートのエイミー・アーヴィング、ナンシー・アレン、P・J・ソールズたちだが、次の瞬間には事の次第を察した。そしてキャリー=スペイセクを罵倒し嘲笑しシャワーへと押しやると、そこにタオルやらタンポンやらナプキンやらをこれでもかこれでもかと投げ込んで彼女にぶつけた。そう、キャリー=スペイセクは高校生にして、やっと初潮を迎えたのだ。それだけでも驚きと言えば驚きだが、さらに驚くべきは彼女がそれ=生理のことを何ら知らされてはいなかったこと。それゆえの先ほどのシャワー室での狂乱であり、またそれゆえのクラスメートの猛烈イジメでもあった。

 そんな大騒ぎを見つけた女体育教師のベティ・バックリーは、慌てて大荒れシャワー室の中に割って入ってキャリー=スペイセクを救い出した。

 こんな事態は予測もしなかった女教師バックリーは、恐れおののくキャリー=スペイセクに優しく接した。だが、そんなバックリーにしても、このキャリー=スペイセクがイジメられる理由は分かりすぎるほど分かる。何しろちょっと風変わり過ぎる。回りとも溶け込めない。それに常に見せるイジケた態度。見ていて自分も内心イライラしてくる気持ちを抑え切れない

 しかも、高校生にして生理がまだない、しかもその知識すらないなんて娘がいるのか。いや、ありえる話だ。彼女のあの母親を見れば、そうなるのもうなづけないでもない…。

 バックリーは校長室にキャリー=スペイセクを伴い、事情を説明して早退の手続きをとることにした。吸いかけのタバコを灰皿に置いた校長は、腰が退けた様子でキャリー=スペイセクを部屋に迎え入れる。「え〜と、キャリー=スパセックくんだね?」「…スペイセクです」

 「キャリー」公開当時、まだシシー・スペイセクは無名の新人だった。だから日本の配給会社も映画マスコミも、彼女の珍しい名字Spacekを何と呼んでいいのかハッキリと決めてはいなかった。マーティン・スコセッシもこのかたちに定着するまで、スコシージ、スコセージ、スコルセーセなど表記が統一せず読み方もまちまちだったように、確か初公開当時彼女スペイセクの読み方も統一されてはいなかった。

 「まぁ、気を落とさずに安心しなさい、スパセックくん」「…スペイセクです」

 校長すら彼女にちゃんとした扱いをしない。校長が名前を間違えるたびに直して告げるキャリー=スペイセクだが、校長は一向に無頓着だ。それが彼女を苛立たせる。それとも、苛立つのは目の前にある灰皿のタバコが、消されないまま不快な煙を立ち上らせ続けているからだろうか。

 「じゃあ帰っていいよ、スパセックくん」

 「スペイセクですっ!」

 そのとたん、校長の目の前の灰皿が何者かにはじかれたように吹っ飛んだ。驚く校長とバックリーの方を振り向きもせず、キャリー=スペイセクは素早く部屋を後にするのだった。今のは何だ? 一体何で灰皿が吹っ飛んだ?

 その頃、キャリー=スペイセクのクラスメートの一人エイミー・アーヴィングの家に、奇妙な重苦しいいでたちをした中年女がやってきた。応対に出てきたアーヴィングの母親プリシラ・ポインターのウンザリ顔を見れば、この奇妙な中年女の訪問はこれが初めてでないことは明白。この女、いきなりずうずうしく上がり込むと、やれ聖書がどうした神がどうしたと訳の分からぬ狂信的な言葉を並べ立てる。修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ。果てはこの場で水中クンバカ体操をしかねない勢い。これに業を煮やしたポインターは寄付としていくばくかのお金を与えると、彼女をサッサと家から追い返した。この狂信的な女パイパー・ローリーこそ、あのクラ〜いキャリー=スペイセクの母親なのだった。

 そんな狂信女ローリー、古く歪んだ自宅「第七サティアン」に戻ってくると、さんざっぱら世間にブチブチと逆恨み。誰にもマトモに相手にされないのは自分のせいだなんて、これっぽっちも思っていないのだ。やがてイジケ切ったキャリー=スペイセクも家に帰ってきた。

 ところが最悪のタイミングで学校から電話。当然、キャリー=スペイセクの学校での一件の報告だったのだが、これを聞くや母親ローリーの表情が一変した。

 キャリー=スペイセクを呼ぶと、まるで彼女が悪いことでもしたかのように責めたてる。ついに女になってしまった。後は肉欲で汚れるだけだ。許しを請いなさいっ! 聖書でキャリー=スペイセクの頭をブン殴り、無理やり引きずり倒す。挙句、何も悪いことをしていないのに、狭くて暗い懺悔部屋に彼女を押し込める。そこは何かというと母親がキャリー=スペイセクを閉じ込めて反省させる、不気味なキリスト像が飾られた気色悪い部屋だった。なぜか常に狂信者の世界では、反省しなくちゃならないようなゲスな奴の方こそ、フンぞり返って他人に反省を強いる不条理さが付きもの。少女時代からずっとこのような異常な狂信状態の環境で暮らしていれば、そりゃあアーチャリーみたいにクソ生意気に増長するか、キャリー=スペイセクみたいにイジケるしかない。

 さて学校では。キャリー=スペイセクを寄ってたかってイジメたクラスメートたちが、女体育教師バックリーに放課後残されて、さんざっぱら怒られていた。「あなたたち、自分たちがしたことが恥ずかしくないの?」

 あげく、彼女たちはこれから毎日、居残りで体育の実習をやらされることになる。これにはイジメの急先鋒であるナンシー・アレン、P・J・ソールズは大いにブーたれる。しかしこの実習をサボるとプロムナイトのダンスパーティーに出席出来なくなると聞いて、彼女たちもイヤイヤ従った。そんな中で、イジメに参加した一人エイミー・アーヴィングだけは、自分のしたことを心底恥じているのだった

 そんな彼女は、自分のボーイフレンドで頭も良ければスポーツ万能、ルックスもイカす女の子たちの憧れの彼、ウィリアム・カットに何やら頼み込む。その頼み事とは?

 何と、全校のミソッカスであるキャリー=スペイセクをプロムに誘って欲しいというのだ。そう言えば授業中に宿題で提出したカットの詩を、キャリー=スペイセクは珍しく声に出して褒めた。彼女はひそかにカットのことを憧れているに違いない。今回のプロムでは自分は身を退き、彼にキャリー=スペイセクを誘って一緒に出てもらうことで、自分のした過ちの贖罪が出来るとアーヴィングは考えていたんだね。アーヴィングとのプロム出席を心待ちにしていたカットは、何でそんな…と大いにボヤくが彼女のたっての頼みとあらば仕方がない。早速、事あるごとにキャリー=スペイセクを誘ってみるが、彼女の方ではすっかりビビって彼から逃げるばかり。挙句の果てに女教師バックリーに相談なんかするもんだから、アーヴィングとカットの二人は職員室の先生のもとに呼び出されるハメになる。あなたたち一体何をたくらんでるの? まぁ、またしてもイジメと決め付けるのも早計なら、いくら何でもカットとキャリー=スペイセクは不釣り合いと言ってはばからないバックリー先生は、実はキャリー=スペイセクの味方をしているつもりで、その発想の根本はイジメていた奴らとそう大して変っちゃいないのだ。

 そのキャリー=スペイセク、実は最近妙なことに気付いていた。自分をバカにした子供を自転車ごとひっくり返す、窓の開け閉めを手を使わずに行う、目の前の鏡を叩き割る…精神的に追い詰められ激しい怒りを覚えた時、どこからともなく不思議な力がみなぎってきて、さまざまな超常現象を起こすことに気付き始めたのだ。それは確かに存在する。図書館の本を読みあさってみると、確かにそうした不思議な能力を持った人間は存在する。私もその一人に過ぎないんだわ…。

 そんな合間にもバックリー先生の女の子たちへのシゴキは続く。それも先生、ちょっと今回はやりすぎたようだ。さすがにナンシー・アレンが音を上げて、先生に食ってかかる。すると勢いづいたバックリー先生は止まらず、ナンシー・アレンを思いっきり引っぱたいたからたまらない。アレンは先生を思いっきり罵倒したあげく、練習場を離れていった。彼女のプロムへの参加資格もなくなった。それでなくてもどこか根性曲がったアレンは、これで一層キレまくり。テメエの事を棚に上げてめいっぱい逆恨みするだけでなく、その矛先を事の発端となったキャリー=スペイセクに向けた。ボーイフレンドのジョン・トラボルタを色仕掛けで説き伏せ、とんでもない悪事に荷担させようと企むのだが、それはもうちょっと後の話。

 やがてあの歪んだ「第七サティアン」に、ウィリアム・カットがいきなり訪ねてくる。当惑するキャリー=スペイセクを説き伏せると、無理やりプロムへの出席をオーケーさせた。バックリー先生の助言もあって、キャリー=スペイセクもだんだんその気になってきた。手作りドレスをせっせとつくり、街に化粧品を買いに行く。

 だがそんな急に色気づいた彼女を見て、あの狂信母パイパー・ローリーが黙って見ている訳がない。そんな淫らなドレスを着て、どうせロクな事になりゃしないわよ。プロムに行ったら絶対みんなの笑いものにされるわ! さぁ、そんな事やめてあたしと祈りなさい! これからはキャンディーズみたいに普通の女の子になって、みんなと仲良くしたい…と言うキャリー=スペイセクの願いも聞き入れず、またしても祈れだの拝めだの辛気くさいことを並べ立てる。修行するぞ修行するぞ修行するぞ…。これにはさすがのキャリー=スペイセクもキレた。

 もうこれからはあたしの好きにするのっ!

 とたんに家の窓という窓がバタンと閉まる。事ここに及んで、調子こいてた自分がヤバい状態になっていることにローリーは気付くのだった。

 だがその頃、キャリー=スペイセク憎しで凝り固まっていたナンシー・アレンは、恋人トラボルタの手を借りて、トンでもないことを始めようとしていた。トラボルタは鼻歌まじりでご機嫌だ。“泣っかしたぁこっとも〜あ〜る、つれなぁくしぃてぇも〜な〜お、イジメ〜る気ぃ持ち〜があ〜ぁれば〜い〜いぃのさぁ〜”…夜中に養豚場に潜り込んで、何やら良からぬことをやってるこのご両人。一体サリンでも撒こうというのか? “キャリィィィ〜、マイラ〜ブ、ソ〜スウィィィ〜ト”

 さぁ、夢にまで見たプロムの夜がやってきた。カットはタキシードに身を固め、車で「第七サティアン」までやって来た。すると、あのサエないミソッカスのキャリー=スペイセクが、見違えるような美人になって現われるではないか。憧れのカットにエスコートされ、キャリー=スペイセクは一生に一度の晴れ舞台へと出かけていく。うるさい母ローリーを家に一人残し、超能力で金縛りにしたまま…。

 カットに連れられて体育館のプロム会場にやって来たキャリー=スペイセクは、みんなの注目の的だった。この日のために着飾った級友たちとともに、憧れのカットと過ごすプロムの夜。最初はギコチなかった彼女も、カットの優しいエスコートで徐々にリラックス。そして二人でダンス。夢のような、まさに彼女にとっては夢以外の何者でもないと思われていた事が、今現実のものになろうとしていた。

 だが、このプロムパーティーには実は裏があった。今年のベストカップルを決める投票結果に細工がしてあったのだ。それはナンシー・アレンのお仲間P・J・ソールズたちが仕掛けた罠だった。そうとは知らないキャリー=スペイセクは、自分とカットがベストカップルに選ばれて有頂天。天にも昇る気分で、今年のキングとクイーンを賛えるステージに上っていった。

 彼女にボーイフレンドのカットを譲ったアーヴィングも、この会場に来ていた。晴れの舞台に上がるキャリー=スペイセクを我が事のように喜んで見つめるアーヴィング。しかし彼女は、だしぬけにステージ下から不審なロープが天井に向かって伸びていることに気付いた。

 このロープは一体どこに伸びているのか? 何とそれは天井に仕掛けたバケツにつながっていた。ロープを引くとバケツがひっくり返り、中に入っている何かが舞台のキャリー=スペイセク目がけて落ちる算段になっているのだ。キャリー=スペイセクが危ない!

 慌ててステージ下に殺到するアーヴィング。果たしてステージの下にはナンシー・アレンとトラボルタが隠れているではないか。しかしその光景を、壇上で仲睦まじそうにしているキャリー=スペイセクとカットに嫉妬しての行動と邪推したバックリー先生は、おせっかいにもアーヴィングを捕まえて力づくで体育館から追い出してしまった。

 その時!

 アレンが思いっきりロープを引っぱった。ロープに引かれてバケツがひっくり返った。中から…大量のブタの血液が、壇上のキャリー=スペイセク目がけて一気に落ちて行った。

 たちまち鮮血で真っ赤に染まるキャリー=スペイセク。

 一瞬にして沈黙が走る場内。だが、してやったりの思いでご機嫌なP・J・ソールズが笑い出したのを皮切りに、場内にザワザワとしたざわめきが広がった。

 プロムに行ったら絶対みんなの笑いものにされるわ!

 自分を止めた母の言葉が脳裏に蘇る。もうキャリー=スペイセクの目には、その場にいるみんなが自分を笑いものにしているとしか思えなかった。先生も級友たちも、信じていた人もみんな笑ってる。結局これは、最初から私を陥れるための罠だったのか…

 まるでダメ押しでもするかのように、天井に仕掛けてあったバケツが落ちてくる。それは予想外の事態に怒り狂うウィリアム・カットの頭部を直撃。カットは致命傷を負って、その場に倒れ込んだ。

 私を優しく扱ってくれたカットが傷ついて倒れた…。

 その時、それまでただただショックで呆然としていたキャリー=スペイセクの目に、激しい怒りの光が宿った

 とたんに激しく閉じられる体育館の扉という扉。異様な事態の進展に、その場にいた誰もが動揺し、パニックが発生する

 だが、それはこの血塗られた晩を彩る、惨劇の始まりに過ぎなかった…。

 

見えないものを見せようとするブライアン・デパーマ

 「キャリー」は言わずとしれたブライアン・デパーマ監督の出世作。原作を書いたスティーブン・キングも、これで一躍ベストセラー作家になったことはご存じの通りだ。でも、それからもう25年以上経っていたんだねぇ。僕がこの映画を名画座で見たのは公開から2年ほど経ってからなのだが、それにしたって楽に20年以上は経過している。改めて見てみて懐かしかったよ。

 今では映画ファンで知らぬ者がいないほどの有名作品。パロディ、引用、オマージュの類は数知れず。「プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角」だって「25年目のキス」だって「シーズ・オール・ザット」だって、およそこれ以降のミソッカス娘のシンデレラ青春映画には、大なり小なりこの映画の残像が見え隠れしている。何とタイ製ホラー映画の「ナン・ナーク」にすら、明らかにこの「キャリー」のプロムナイト壊滅シーンをそのまんま持ってきたような趣向が出てくるくらいだから、この映画がその後に与えた影響には絶大なものがあったんだね。

 果てはこの作品の成功が忘れられなかったと見えるプロデューサーのポール・モナシュが、何と23年も経ってから続編「キャリー2」を製作。だがこの続編、イジメを受けてる女の子がサイキックパワーを発揮するというお話を、ただ現代のハイスクールに移しただけというシロモノ。元祖「キャリー」との関連と言えば、前作唯一の生き残りであるエイミー・アーヴィングが、舞台となるハイスクールのカウンセラーをやっているというだけ…という安さが充満するB級ホラーの典型だった。「アメリカン・ビューティー」でケビン・スペイシーの憧れを一身に集めた女子高生ミーナ・スヴァーリが脇で出たりしてたけどね。

 それにしても、この映画こんなに展開が早かったのかと驚かされたね。キャリーが初潮を迎えてから、すぐにプロムの場面までたどり着いてしまった感じだ。今でこそ古典的作品の地位を確立してはいるが、最初はかなり小品の青春ホラーとしての位置付けだったんだろうね。だって、当時としては新進若手監督による無名若手俳優を起用した映画のはずなんだから。

 そう、この映画を今見直して改めて思うのは、元からそう思ってはいたものの、この映画こんなに青春映画としての色彩が濃厚だったのか…という感慨だったんだね。

 キャリー母子をメインとする怪しげなムード漂う場面の合間に挿入される、青春映画お約束のエピソードの数々。イジメっ子たちが女体育教師に居残り特訓させられるくだりやら、ウィリアム・カットが級友たちとタキシード選びをするシーンに、そんな青春映画らしい趣向やらユーモアがたっぷり盛り込まれているのはまだしも、何とキャリー自身にすら化粧品選びをする楽しげなシーンが用意されていたとは、うかつにもすっかり忘れていた! このへんの本格青春映画のみずみずしさこそがこの映画を単なるサイキックホラーにとどめなかった点だろうし、その後に数多くの青春映画に影響を与えた由縁だったろう。

 その後、古今東西の映画の名場面をパクることでスッカリ有名になってしまったデパーマ監督、皮肉なことにこの出世作「キャリー」だけは、みんなにマネされるほど純度の高いオリジナルだったわけだ。ただ、初めて見た時には特に思わなかったけど、冒頭のシャワーシーンはやっぱり「サイコ」の引用しているところがデパーマらしいよね。

 そんなこの映画、当然と言えば当然なことに、デパーマの映像テクニシャンぶりが爆発。その後デパーマ作品でおなじみとなった、ありとあらゆる映像テクニックがふんだんに出てくる。先に挙げた冒頭のシャワーシーンを初めとする陶酔感に満ちたスローモーション、キャリーがサイキックパワーを使う時に使用されるジャンプカット…などなどなど。中でも印象的なものは被写体の回りを360度ぐるぐる回転するカメラワークだ。これはプロムナイトのダンスシーンで威力を発揮する。見ている者までうっとりくる魅惑のテクニック。その後「サタデー・ナイト・フィーバー」に登場する回転ショットは明らかにこのシーンの影響化にある。韓国のペ・チャンホ監督が「赤道の花」「ディープ・ブルー・ナイト」で多用した360度回転ショットも、間違いなくこのシーンのパクりだ。ヒッチコックとかそのへんからではない。おそらくは「キャリー」がその発想の原点にある。

 そして素晴しいことに、その後のデ・パーマの映像テクニシャンぶりがともすればテクニックのためのテクニックに見えてしまうのに対して、この「キャリー」での映像テクニックの数々はちゃんと映画に貢献しているのだ。その顕著な例が、キャリー大暴れのプロムパーティーのパニックシーン。そこで使われたスプリット・スクリーン効果だろうね。

 スプリット・スクリーン=分割画面のテクニックってのは、僕が知っている限りでは1960年代頃に電話での会話場面などで使用されていた。電話をかける側と受ける側を同一画面で同時に見せるために、画面を2つ(ないしは2つ以上)に分割する技法だ。その例を挙げれば、僕が今思い出せる限りでは1970年の「大空港」の冒頭近くあたりでも使用されていたはず。だが、このテクニックは不自然ということだったのか、1970年代に入ってからはほとんど顧みられず廃れたと思う。例外はロック・コンサート映画などのドキュメンタリー作品で、確かあの「ウッドストック」にも使用されていたはずだ。だが、それも1970年代中期以降にはあまり見られなくなっていた。まして今どきじゃあ、ほとんどお目にかかることもない技法だね。

 だから、「キャリー」でこのスプリット・スクリーンを見た時にはかなり奇異な感じがしたんだね。僕が最初に見たのは1979年だが、日本公開時の1977年に見ても、たぶんすでに時代遅れの観がある技法だったと思う。

 だけど、今改めてこのシーンを見ると、ここはスプリット・スクリーンだからこそ異常な効果をあげることに成功していると思うんだよ。画面を2つに分けて、パニック状況を描写する画面とそのパニックを引き起こしているキャリーの表情を一挙に見せ続けるこのヤマ場は、今日見てみればこうでなければならないとしか思えない。実は僕が見たDVDのメイキングドキュメンタリーでは、ブライアン・デパーマ自身がこのスプリット・スクリーンは失敗だったと言っているが、とんでもない(笑)。単純ににらみつけるキャリーの眼力ショットと被害状況のショットを順繰りにモンタージュしていったのでは、この異様な緊張感は生まれない。それではただのパニック映画の災害シーンと同じになってしまう。パニック状況の傍らに、常ににらみつけるキャリーの表情が連続して存在してこそ、ここには他と一線を画する異常事態のムードが漂うのだ。

 実はこれととても似た効果を挙げる撮影方法が、この「キャリー」にはふんだんに使われているんだね。それは特殊レンズを使用して、極端に遠距離の対象物と近距離の対象物を、同一画面に同時に入れながら両方ともピントの合った状態でとらえるという、一種の疑似パン・フォーカスとでも言うべき技法だ(本来は画面の隅々までピントが合っている状態をパン・フォーカスと言うが、ここで挙げている技法の場合は遠距離・近距離の二つの対象にのみピントが合っている状態なので仮にこう呼称する。正式には何と呼ぶかは分からない)。このテクニックをデパーマはいたくお気に入りで、後年の「カジュアリティーズ」などを初めとしてバンバン使っている。

 そして「キャリー」の中でも一際目立つテクニック、スプリット・スクリーンと疑似パンフォーカス(とでも言うべきもの)の両者は、実は同じ狙いで使われているように思うんだね。それは「本来見えなかったものを見せる」という意図だ。

 プロムパーティーのパニック状況とキャリーが眼力を発揮している場面は同時に存在はしているのだが、普通には同時に見ることが出来ない。だが、スプリット・スクリーン=分割画面で同時に見せることによって、その両者の因果関係が明確に提示されるのだ。同じように、本来なら遠くの人物と近くの人物に同時にピントが合うことはないから両者の表情を同時に見ることは出来ないが、疑似パンフォーカスによってそれらを同時に見ることでその関わりようが一瞬にして明快に見てとれる。

 そう言えばデパーマがよく用いる映像テクニックには、他にも長回し撮影の多用があった。それも数分からフィルムマガジンの容量ギリギリいっぱいの10分程度にまで及ぶものまで、とにかくハンパじゃなく長い。しかもその長回しの間、カメラは三脚で据えっぱなしではない。あっちこっちに激しくパンし、手持ちでバンバン移動しながら、まったくモンタージュなしでフィルムを回していく。「虚栄のかがり火」や「スネークアイズ」の冒頭がそれだ。今までは僕もデパーマが単にオーソン・ウェルズの「黒い罠」のパクりを面白がってやってるだけだと一笑に付していたんだけど、今回「キャリー」を改めて考えてみた時、ちゃんとそれなりの意図があったんだとハタと気付いたんだね。

 本来は距離的に離れていたり諸々の事情でバラバラに存在して、一緒に目撃することは出来ないもの…それらを仮に「A」と「B」という二つの対象物とする。デパーマが多用する超長回し撮影では、カメラが「A」と「B」の間を激しくパンしたり長距離に渡って移動したりすることによって、両者が同一ショット内にとらえられることになる。カットでチョン切られて切り返されているんじゃなくて、長い同じショットの中に共存しているという点が大事だ。上記のスプリット・スクリーンや疑似パンフォーカスが本来同時には見えない二つ以上の対象物を同一フレームに収めるのと同様に、長回し撮影は同一ショット(時間的な経過はあっても)に複数の離れた対象物をとらえることで、それら同士の連続性やら関連性を見る者に印象づけることが出来る。つまりは、これも「本来見えなかったものを見せる」ための一つの手段なんだね。「スネークアイズ」の冒頭になると、その長回しショットの真っ最中にテレビのモニター画面を写し込み、一画面中でオプティカル技術の助けを借りずに例のスプリット・スクリーンと同じような効果までもたらしていて、まさに象徴的なわけ。

 そしてそう改めて考えてみると、デパーマが作品で描こうとしているものから作品をつくる際のアプローチに至るまで、「本来見えなかったものを見せる」モットーが一貫しているような気がするんだね。例えば「ミッドナイトクロス」では隠されていた陰謀がたまたま録音していた音声から明らかになってくると同時に、主人公の内向性やシャイネスと背中合わせの臆病さもあぶり出される。「殺しのドレス」では不倫妻殺しの真相が明らかになるとともに、精神科医の隠された素顔が露になってくる。「スカーフェイス」では主人公の妹への偏愛が終盤に暴露されてくる。「カジュアリティーズ」では素晴しい戦友たちの内面に隠された人間本来の獣性が、戦争の中でムキ出しにされる。もちろん近作「スネークアイズ」しかり。こう考えていくと、金のためだけに引き受けたように思えたデパーマとしては場違いな娯楽大作「ミッション・インポッシブル」さえ、同じ使命に向かって働いていると思っていた仲間が実はそうではなかった…というストーリーから見て、彼にとっては引き受けるだけのモチベーションが十分すぎるほどあったのではないかという気になってくる。

 一見しただけでは見えないものを見えるように、隠されているものを明らかにしていくこと…それがブライアン・デパーマの映画づくりの根幹にあるとしたら、この「キャリー」では、何が明らかにされていくのか。

 それは人間のデリカシーのなさと傲慢さだ。

 キャリーに対する周囲の若いイジメ連中のデリカシーのなさ、傲慢さは言うまでもないだろう。何か不幸な過去があったのかもしれないが、そんな自分の歪んだ感情と異常なまでの支配欲のはけ口としてキャリーを消費していく母親もしかり。キャリーの名前もきちんと呼ぶ気がない校長なども、デリカシーのなさという点では同罪だ。だが、問題なのは彼らではない。

 明快に「悪い」と分かるような連中が、まさに見た通りに悪いというのは、実に当り前のそれだけの話だ。デパーマが独自の映像スタイルで「見えないものを見せる」必要もない。

 だが、実は一見善良な者の側にも、同じ罪があるとしたら?

 例えばベティ・バックリー扮する女体育教師。確かに彼女はキャリーをイジメから救い出そうとした。そしてその後も何かと相談に乗ってやったし、キャリーをイジメた連中に報復のように特訓でシゴいた。確かに彼女はこのドラマの中で「善玉」側だ。

 だがこの女教師、映画の初めの頃に思わずポロリと本音を吐いているのだ。子供たちがキャリーをイジメたくなる気持ちも分かる…と。

 実は男勝りのコワモテなところもあるこの女教師、だからこそ当初グチュグチュとハッキリせずイジけた風情のキャリーに、内心嫌悪感を感じずにはいられない。そして生徒の一人エイミー・アービングが、プロムパーティーの時に自分のボーイフレンドとキャリーを一緒に行かせようとすると、ついつい本音が出てしまうのだ。「キャリーは彼には不釣り合いではないの?」

 これって、実はキャリーを軽んじているという点では、名前を一向に覚えようとしない校長といい勝負ってことじゃないのか?

 そして、もし内心キャリーを嫌って忌まわしく思っているのに、まるで善意でいろいろやっているように振る舞っているのだったら、それは「偽善」でもあるはずだ。

 また、キャリーと上記の若者がプロムに行く行かないにまで介入して、高圧的にやめさせようとまでするのは、明らかにこの女教師の「傲慢」でもある。

 キャリーをイジメた女の子たちに居残り特訓を命じるのは、確かに教師としての義務感からだろう。だが、その特訓の激しさは徐々に目に余るようになってくる。その時この女教師には、生徒たちにキャリーの無念さを思い知らせようという純粋な意図だけがあったか。ひょっとしたら生徒たちを公然とシゴける理由が出来たために、知らず知らずに自らの支配欲を思う存分満たしていたのではないか。反抗的な生徒の頬を殴打したのは、もはやキャリーのためではないだろう。そしてここでの「やりすぎ」こそが、終盤の悲劇の直接的な引き金になってもいる。

 登場人物の大半が命を落とすプロムパーティー崩壊のパニック場面で、この女教師が善玉側にも関わらず命を落とす…それも一際惨たらしいかたちでキャリーに殺されるのは、たぶんそういう理由があったからではないか?

 そして、この映画の中で唯一の純粋な善意の持ち主エイミー・アーヴィング扮するクラスメートですら、その罪からは逃れられない。

 最初にみんなと一緒にキャリーをイジメたのは、ごくありふれた若気の至りとでもいうべきものだろう。彼女はその後ですぐに反省して、何とかキャリーに罪の償いをしたいと考える。自分はプロムパーティーから身を退き、ボーイフレンドをキャリーのパートナーに差し出そうとしたのも、それが贖罪の意味を持つと信じたからだ。その事自体にまったくウソはない。

 だが結局、それが最悪の事態を招くキッカケをつくってしまった。こう決め付けては酷だろうか? 確かに直接的には彼女の罪ではない。では仮に悪ガキどもの企みさえなければ、全てはハッピーだったはずだろうか?

 いや、幸運にもあの事態を免れたとしても、結局キャリーにとっては「お情けで用意された」偽りの幸せに過ぎない。自分のボーイフレンドを差し出すといっても、たった一晩プロムパーティーの夜だけ一夜恋人を勤めさせるだけだ。その後で真実を知ったらキャリーはハッピーだっただろうか。そこにはエイミー・アーヴィング扮するクラスメートの、善意というより優越感と傲慢さが見え隠れはしないか? 仮にそこに優越感と傲慢さがなかったとしても、思慮のなさやデリカシーのなさは指摘されても仕方ないのではないか? そんな悪しき部分が一見そうとは見えないこと…そこが何より問題だ。そして彼女が自らのそんなデリカシーのなさに、露とも疑いを持たず自覚がまるでないということが、さらに何より罪が重いではないか。

 僕らもそういう事をどこかでやっていないか? 善意のつもりで子供が出来ない夫婦に子づくりを求めるジジイババアとか、子供のためと言いつつ自分の思いのままにコントロールする親とか、愛のムチだの鍛練だのと言いながら目下の人間を奴隷扱いする脳味噌の中が筋肉化した体育会系人間とか、男らしさなどとうそぶきながら何かというと人にオレ流押し付けようとする女々しさに気付かないゲス男とか、テメエがいつも一人だけ正しいつもりで言いたい放題やりたい放題のクソ女とか、国のため国民のため…とウソで言ってるならまだしも本気で思い込んだあげく、リーダーシップと思い違いしてみんなの首が締まるような管理や統制を強要しようとする発狂政治家ども。こいつら、ひょっとして仮に悪意はなかったとしても、いや…もし本当に善意や本気でやっているんだとしたら、そっちの方が100倍タチが悪い。なぜなら自分を顧みようという気がまるっきりないし、ヘタをすればそのまま断罪されないことだってあるからだ。

 さよう。悪人は自分を悪人と思ってはいない。

 だからアーヴィング扮する「善意の」クラスメートは、実はキャリーを追い詰めた周囲の連中と同じ…いや、彼らのうちの誰よりも罪が重い。 そして彼女は殺されはしない。それではあまりにあっけない。犯した罪に対して償う苦しみが軽すぎる。その罪の深さゆえ、彼女は誰にもまして厳しく罰せられなければならないのだ。

 一生消えず逃れることの出来ない、おぞましくも恐ろしい悪夢によって…。

 

 


Carrie

(1976年・アメリカ)ポール・モナシュ・プロ制作、ユナイテッド・アーティスツ映画

監督:ブライアン・デパーマ

製作:ポール・モナシュ

脚本:ローレンス・D・コーエン

出演:シシー・スペイセク、パイパー・ローリー、ウィリアム・カット、 ジョン・トラボルタ、エイミー・アーヴィング、ナンシー・アレン、P・J・ソールズ、ベティ・バックリー、プリシラ・ポインター

2002年4月27日・DVDにて鑑賞


 

 

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