「ザ・デッド/<ダブリン市民>より」

  The Dead

 (2006/12/18)


 1904年のクリスマス、雪が降る夜のダブリン。ある家に続々と馬車が停まり、少しづつお客が集結しつつあった。毎年恒例のクリスマス・パーティーが行われようとしていたのだ。主宰はもう高齢のジュリア(キャスリーン・ディレーニー)とケイト(ヘレナ・キャロル)のモーガン姉妹、それに彼女たちの姪のメアリー(イングリッド・クレイギー)の3人。お客は彼女たちゆかりの親しい人々ばかりだ。

 全体の切り盛りをしているケイトは客の到着のたびにヤキモキ。若いメイドのリリー(レイチェル・ダウニング)も右往左往。だがケイトがヤキモキしているのは、ある一人の客が気になっているからだ。それは飲んだくれのフレディという男。この男、決して悪い人物ではないのだが、酒が入るとどうにも始末に負えない。それでもこのフレディが最近母親のマリンズ夫人に禁酒の誓いを立てさせられたと聞いて、わずかながらの期待を抱いているケイトではあった。

 やがて次々と招待客が到着する中、ゲイブリエル(ドナル・マッキャン)とグレタ(アンジェリカ・ヒューストン)のコンロイ夫妻が到着。ゲイブリエルは今夜恒例のスピーチを頼まれていて、いささか緊張を隠しきれない。

 やがてウワサのフレディ(ドナル・ドネリー)が到着するが、案の定プンプンと酒の臭いを発散している。困り切ったケイトにフレディを託されたゲイブリエルは、彼をトイレに閉じこめて世話を焼く。そしてトイレにフレディを残したゲイブリエルは、今度は彼の母親であるマリンズ夫人が気になって様子を見に行った。

 客間では早くもダンスが始まっていた。そんな中、椅子にポツンと一人で座るマリンズ夫人。

 「あの子は大丈夫?」

 やっぱり酒癖が治ってないと察していたマリンズ夫人は、真っ先にゲイブリエルに聞いてくる。マリンズ夫人の息子についての心痛ぶりと、なぜかパーティーの席で独りぽっちの様子に同情したゲイブリエルは、彼女の隣に座って話し相手になってやる。

 だが、彼はすぐにそうした自分を後悔した。そして、なぜ彼女が独りぽっちで置かれていたのかも納得した。とにかくマリンズ夫人の話は面白くもないのに長いこと、クドいこと。妻のグレタなどダンスに興じて楽しそうなのに、自分は何が悲しくてこの婆さんの話し相手にさせられているのか

 婆さんのクドさにすっかり閉口したゲイブリエルは、キリのいいところで話を強引に打ち切ると、そそくさとフレディを探しに行く。だがちょっと目を離した隙に、フレディはこれまた飲んべえの老人ブラウン氏(ダン・オハーリヒー)早速しこたま酒をカッ食らっていた。マリンズ夫人の隣にオズオズと腰掛けたフレディは、しかし母親の厳しいまなざしにシュンとするばかりだ。

 さてケイトの仕切りで始まったパーティーの余興の第一弾は、姪のメアリーによるピアノ演奏。ところが男連中の中には失礼にも「おピアノ演奏なんて」とばかりに隣の部屋に飲みに行ってしまう輩もいて、ゲイブリエルは少々呆れてしまう。しかも演奏が終われば終わったで、いきなりブラボーと大拍手する現金さだ。まぁ、しかし人間なんてどだいこんなもの。ゲイブリエルはゲイブリエルで、ミス・アイヴァーズという女(マリア・マクダーモット)が意味ありげなウインクをしてくるのに少々困惑していた。

 お次はグレイス氏(ショーン・マクローリー)による詩の朗読。ところが、これが少々楽しいパーティーの場には似つかわしくない、恋の痛みと喪失を扱った詩だった。だがその詩に漂う独特の切実さは、お客たちの心をとらえた。中でもグレタは少なからず感銘を受けたようで、しばし呆然といった状態。夫のゲイブリエルはそんな彼女の様子に驚きを隠し得ない。

 さて再びダンス・タイムだ。ケイトはおせっかいにも、ゲイブリエルのダンス・パートナーにあのミス・アイヴァースを指名。だがこのアイヴァースという女、ダンスが始まるや否やゲイブリエルに何やらチクチク絡みだした。彼が英国の新聞に匿名で記事を書いた事を、「親英派」と盛んになじるのだ。実は彼女、いささか国粋主義かぶれのところがあった。それでいてゲイブリエルに大いに興味があるらしいからタチが悪い。夏のバカンスに夫婦で一緒にアレン島に遊びに来てくれ…などと誘いとも何ともとれる話を持ちかけ、いい返事をしなければ、再び「親英派」となじる。さすがにダンスが終わる頃には、ゲイブリエルもすっかり彼女にウンザリしきっていた

 さらにトリを勤めるのは老齢のジュリアの歌。その音程は、もはやお世辞にも安定しているとは言い難い。それでも真摯な歌いっぷりは、客たちに深い感銘を与えた。だが酔いどれフレディは感激の余りに過剰にベタほめして墓穴を掘り、それをブラウン氏がよせばいいのにからかう始末。さらに姉思いのケイトが勢い余ってジュリアが聖歌隊からはずされた事を憤って文句タラタラ。これは居たたまれない雰囲気になる…と思いきや、メアリーが絶妙のタイミングで「食事にしましょう!」と持ち出して、その場は無事に収まった。

 こうして一同がテーブルを前に席に就き、ガチョウの料理を味わう事になった。オペラの話、僧侶たちの禁欲的な生活の話…時としてイタイ言動やら場違いな言葉が飛び出し、ハラハラさせられる瞬間もあるにはあるが、その都度誰かの機知に富んだ対応がその場を救った。そして、それまでメモを見ながら緊張していたゲイブリエルのスピーチ・タイム…。

 「みなさん、私たちは今年もこの優しいご婦人たちのもてなしを受ける事が出来ました。この国の暖かいもてなしの心に幸あれ!」

 こう主宰者であるジュリアやケイトとメアリーを持ち上げつつ、ゲイブリエルはこの一年に逝ってしまい、パーティーに出る事が叶わなかった人々に言及して、その場を引き締める。さらに再び主宰者三人に話題を戻したゲイブリエルは、最後に彼女たちへの賛辞でスピーチを締めくくった。

 「私たちは、変わらぬ敬愛の心をあなた方に捧げます!」

 こうして、楽しいクリスマス・パーティーもお開きとなった。お客たちも次々と引き揚げて行く。マリンズ夫人とフレディの母子をブラウン氏と共に馬車に乗せた後、ゲイブリエルもそろそろ立ち去ろうと妻のグレタを捜しに階段のところまで戻りかける。

 すると、階上の方から招待客の一人・歌手のダーシー(フランク・パターソン)の歌声が聞こえて来るではないか。その時、ちょうどグレタは階段を降りてくるところ。ところがダーシーの歌う悲しく美しいその歌を耳にしたとたん、グレタは放心状態となって聞き入ってしまった。それは「オーリムの乙女に」というアイルランド古謡だ。

 あなたは覚えているだろうか、

 二人で交わした初めての愛のしるしを…。

 階段の途中で凍り付いたように固まってしまったグレタに、ただならぬものを感じるゲイブリエル。グレタの表情はどんどん切ないものとなり、その目には涙が溜まっていった。声をかけるのも憚られるようなその様子に、ゲイブリエルもまた愕然とせざるを得ない。

 やがて歌が終わって我に返ったグレタは、しかしいまだ心ここに在らずの様子。二人はケイトたちに礼を言って馬車に乗り込んだが、グレタは相変わらず様子が変だ。ゲイブリエルはそんな彼女の気を惹こうと、一生懸命笑い話を話し始める。しかしグレタの反応はどこかおざなりだった。

 二人がホテルの部屋に落ち着いた後も、グレタの心はどこかに行ったまま。ついに居たたまれなくなったゲイブリエルは、彼女に優しく尋ねた。「教えておくれ。一体何を考えているんだい?」

 するとグレタは、静かに事の次第をゲイブリエルに話し始めた。

 「昔、さっきの歌を私にうたってくれた若者がいたの…」

 

 本来ならここで晩年のジョン・ヒューストンについて語るべきなんだろうが、実はそれについては、すでに黄金(1948)の感想文であらかた語っちゃっている。だから、ここでは繰り返しになってしまうかもしれないので、できるだけアッサリ片づけたいと思う。

 ジョン・ヒューストンと言えば、アメリカ映画界の巨人であることは言うまでもない。だがこの人のイメージと言われると、何とも掴み所がないのが特徴だ。

 監督デビュー作でハンフリー・ボガート主演の「マルタの鷹」(1941)や「アスファルト・ジャングル」(1950)に代表されるハード・ボイルド映画の作家として一流であることはもちろんのこと、先程挙げた「黄金」や「王になろうとした男」(1975)などの「野望と挫折」テーマの骨太な作品群も数多い。しかも「赤い風車」(1952)や「白鯨」(1956)などヨーロピアン・テイストの文芸作も放つ。その一方で「アフリカの女王」(1951)、「天地創造」(1966)や「勝利への脱出」(1980)、「アニー」(1982)などのハリウッド娯楽大作もつくる…という、恐ろしいまでの一貫性のなさ。そのフィルモグラフィーの途中には、「黒船」(1958)などトンデモない駄作も数多く含まれる。

 普通これくらいのキャリアを積んで、名作・傑作を数多く残した作家ならば、何らかの意匠や刻印を作品に残すはず。だがヒューストンは、ほとんどと言っていいほど映像スタイルの一貫性がない。その上、作品のジャンルもバラバラと来れば、何とも作家として評価が難しいのも当然だ。

 おまけにこの人の評価を難しくしているのはその俳優としてのキャリアで、父親が名優ウォルター・ヒューストンだけに俳優業を手がけてもおかしくはないものの、その手当たりバッタリな出演歴にはますます訳が分からなくなる。「風とライオン」(1975)などの味わい深い演技には「さすが」と言いたくなるが、その一方でマカロニ・ゲテモノ映画「テンタクルズ」(1977)にまで出ちゃうという、実に困ったキャリアの持ち主なのだ。

 だがこの人、その最後の最後まで「現役」であった点は確かにスゴイ。これくらいの大御所になると普通は晩年は引退状態になるものだが、ヒューストンはホントの最後まで映画監督であり続けた。しかも、それが「晩年の作品」然とした枯れたものではなく、映画としての張りもボリュームもあり、作品的にも興行的にも映画界を賑わすモノとなっていたから常人の及ぶところではない。黒澤明が晩年に「八月の狂詩曲」(1991)とか「まあだだよ」(1993)を撮っていたのとは訳が違う。今回取り上げた遺作「ザ・デッド」(1987)の一本前の作品「女と男の名誉」(1985)では何とオスカー監督賞候補になってたくらいだから、常に最前線にいた事は間違いない。

 そんなヒューストンの最晩年に最も注目すべきは、興業性豊かな作品をコンスタントに撮っている中で2本の異色作を放っていること。その一本が「火山のもとで」(1984)…そしてさらにもう一本が、この遺作「ザ・デッド」だ。

 そのうち「火山のもとで」はまさに異色作の名に恥じない作品で、メキシコを舞台に「死者の日」という祭日を扱ったお話。時代は1930年代。元英国領事だった男(アルバート・フィニー)が酒を飲んで飲んで飲みまくって、破滅に向かって突き進むという壮絶なお話なのだ。そうなるに至るには妻(ジャクリーン・ビセット)の不貞などの要因もあるようなのだが、この映画ではまるで破滅が目的化したかのようにズブズブと飲んだくれる。メキシコの奇妙な風習と相まって、見ていて実に不思議な気分になってくる映画だ。

 この「火山のもとで」と「ザ・デッド」は、興味深いことに非常に似通った点を持っている。どちらもヒューストンゆかりの土地を舞台にした物語であること。「火山のもとで」のメキシコは「黄金」以来ヒューストンにとってお馴染みの愛着ある土地だったようだし、「ザ・デッド」の舞台アイルランドに至ってはヒューストンは国籍までとってしまったほど。かなり長い期間住んでいた事もあって、愛情もひとしおだったらしい。

 そしてこの2本には、「死のイメージ」がベットリとこびりついている事でも共通点がある。片や破滅的な話で、片や一夜のパーティーの話。まったく違うお話ではあるものの、両者はどちらも大きな商業性はなく個性的な異色作だ。その意味で、この2本は晩年のヒューストンが本当に撮りたかった題材だった…と言えるのではないだろうか。

 そんな訳でヒューストンとしても異例の題材である「ザ・デッド」。その原作はアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの短編集「ダブリン市民」に入っている「死者たち」という短編。実はヒューストンはかなり昔からこの小説を映画化したかったらしい。そう言えば前述の「火山のもとで」も、1950年代よりヒューストンにとって映画化が懸案であったという。奇しくもその晩年、ヒューストンは長年の懸案を一気に片づけるようにこの2本を制作したわけだ。

 この映画を僕は20世紀の100本という企画の中の1本として取り上げているが、その「傑作」としての評価は、僕が初めて劇場でこの映画を見た時から今日に至るまで微動だにしない。そして…この映画が「傑作」であることは、映画のオープニング・タイトルを目にした瞬間に確信した。劇中、重要な使われ方をするアイルランド古謡「オーリムの乙女に」のメロディが静かに静かに流れ始めるオープニング。その瞬間、一気に鳥肌が立って来た事を、まるで昨日のように思い出す。今、いささか画質に疑問の残るDVD版で見ても、やっぱり一気に鳥肌が立ってきた。そして涙で画面が見れない。この「傑作」だけが放つ凄みは、まったく理屈では説明できない。とにかく、この映画は最初から「傑作」を運命づけられている作品なのだ。

 83分という引き締まった上映時間の大半が、クリスマス・パーティーの場面。ここで繰り広げられる人間模様のディティールが実に素晴らしいが、そもそもパーティーという伝統のない我々日本人から見ても、こうしたパーティー場面の演出のきめの細かさはまさに驚異的。これほどリアリティがあって厚ぼったいパーティー場面演出は、イングマル・ベルイマンが最後の映画作品(結局つい最近、前言をはね除けて新作を発表したが)との触れ込み で制作した「ファニーとアレクサンデル」(1982)の5時間テレビ放映バージョンにおける、第1章のクリスマス・パーティー場面ぐらいしか匹敵するものがないのではないか。

 まぁ、さすがにパーティーの習慣はなくても、飲み会や宴会ぐらいなら貧しい我々も経験がある。その貧弱な経験から考えてみても、ここに集まった人々のディティール描写は素晴らしいのだ。楽しい会話の中で時折スベった発言やイタイ発言、場の空気を読めない発言も出てくる。その際の周囲のリアクションと場の収め方など、「ホントにこういう事ってある!」と言いたくなる瞬間が続出。これらの集団アンサンブル演技を的確にさばくヒューストン演出は、まさに「見事」の一言に尽きる。しかもこの時、ヒューストンは病魔に冒され酸素吸入器を装着しながらの演出だったというから、まさに二度ビックリだ。

 ここで個人的な話をさせてもらえば…僕の父はここ最近えらく呼吸が弱り、ついに酸素吸入器のお世話になる事になった。だから「酸素吸入を受けねばならない状態」を、まさに目の当たりにしているのだ。その父の弱りっぷりを考えると、酸素吸入を受けながら映画を撮ってしまうヒューストンには「それだけ」で驚かざるを得ない。しかも、それは部屋に人が2人いるだけ…ってな映画ではないのだ。

 そして、そんな状態で撮影された映画なのに、「やっとこ撮っただけ」という出来上がりにはなっていない。多くの人々の人生が錯綜する、重厚そのものの集団劇。それを徹底的にリアルに厚ぼったく描いているのだ

 実際、この映画には疲れなど微塵も見られない。「枯れ」など無縁なこってり演出に、ただただ魅了されるばかりだ。さまざまなパーティー参加者たちの間でさざ波のように揺れる感情がスリリングなので、いわゆる「会話劇」なのに一瞬たりとも退屈させてくれない。 その演出の集中力たるや尋常ではないのだ。

 キャストはいずれもアイルランドの名優揃いのようだが、中にたった一人…ジョン・ヒューストンの実の娘であるアンジェリカ・ヒューストンを起用しているのが目を惹く。脚本は息子のトニー・ヒューストンナイロビの蜂(2005)では役者として出演)という布陣から見ても、これを「遺作」と覚悟しての身内総出での映画作りなのだろう。

 特にアンジェリカの場合はこの直前の1986年に「女と男の名誉」でアカデミー助演女優賞を獲得…それを引っさげての主演だ。なお余談ではあるが、この人はフランシス・コッポラがディズニーランドのアトラクション用につくった3D映画「キャプテンEO」(1986)でマイケル・ジャクソンと共演したりしてるから、役を選ばないという点では父親譲りのところがあるのかもしれない(笑)

 だが、ここではその「キャプテンEO」にも出ているアンジェリカ(笑)が実にいいのだ。

 映画は終盤に入ってパーティーがお開きになったとたん、いきなり急展開を見せる。招待客の中のオペラ歌手が歌う「オーリムの乙女に」に、主人公の妻グレタが突然じっと聞き惚れる。ここで問題のアンジェリカ・ヒューストンが、尋常ではない演技力を発揮するのだ。何とおよそ2分間に及ぶこの歌のフルコーラスの間、聞き惚れるアンジェリカの表情と、それを愕然と見つめる夫役ドナル・マッキャンの表情だけで映画をもたせてしまう。これが十分これだけでもってしまうからビックリ!

 切なそうな思いを秘め、目に涙をいっぱいに溜めて、表情を刻々と変化させるアンジェリカには驚嘆するしかない。「オーリムの乙女に」という歌そのものの美しさもさる事ながら、このアンジェリカの表情はまさに一見の価値がある。それは彼女の夫ならずとも何やらただならぬものを感じずにはいられない、激しい感情のうねりなのだ。

 ホテルに戻ってから、夫は妻に「涙の理由」を訊ねる。そこからしばし語られるのは、妻が胸の内にずっと秘めていた遠い日の初恋の記憶…今は亡き若者への愛の思い出だ。それを聞いてしまった夫は、もう何も言えなくなってしまう。泣いて泣き疲れてベッドで眠ってしまった妻を、ただじっと見つめているしかない。

 そして、夫の静かな独白が始まる

 「私は君の人生にとって、一体何だったのだろう? 夫婦って一体何なのだ…?」

 夫役ドナル・マッキャンのナレーションは、つい先ほど聞いた妻の初恋の事に触れ、さらにパーティーの主催者の一人、年老いたジュリアへと言及する。そして、近いうちに予期される彼女の死についても…。

 「今夜は予報通り、アイルランドはどこも雪だ。雪は平地にも丘にも沼地にも、すべてに静かに降り積もる…」

 その言葉通り、あちこちに雪が降り積もるイメージがスクリーンに映し出される間、夫役ドナル・マッキャンのナレーションがさらに続く。その長さ、約4分間。そしてナレーションが終わってすぐ、夜の雪景色と共に映画そのものも終わってしまう。

 こう書いていくと、みなさんはこの映画があまり「映画的」ではない退屈なモノだと感じてしまうかもしれない。しかし、それは間違いだ。僕はこれほど映画的な4分間を知らない。ドナル・マッキャンのナレーションを聞きながら、まったく身じろぎができない。

 そして観客の胸に強く刻まれるのは、人のはかなさ…この世の無常観だろうか。人は誰しもいつかは死ぬ…という厳然とした真理が改めて胸に迫って来る。これは実際に映画を見ていただかなければ分からない。ここで僕が言えるのは、僕がこの映画から受けた感銘だけだ。それしか語れない。

 この世に永遠などはない。

 昔から、何となくそうは思っていた。だが、当時それが本当に分かっていたかと言えば、甚だアヤシイ。今なら僕はこの言葉を、腹の底からの実感を持って語ることができる。

 僕だってこのシケた映画サイトを何年か続けているが、その際に知り合った人々も、今はほとんどどこかへ消えてしまった。何となく疎遠になった人もいれば、突然どこに行ったか分からなくなった人もいる。おそらく彼らとは二度と会う事はないだろう。昔ならそれをひどく寂しく思っただろうが、今はそうは思わない。それは仕方のない事で、どうにも避けがたい事で…きっとそれでいいのだ

 いつか僕は彼らを忘れるだろうし、彼らの記憶からも僕は消えていくだろう。それでいいのだ。「忘れる」という事は人間の最も素晴らしい能力のひとつだ…と誰かに聞いた事がある。きっと人間は、「忘れる」からこそ生きていける。

 すべては消えてしまうからこそ、何かが生まれる余地もできるというものなのだ。

 親しくしていたが、ひょんな事から仲違いした人たちもいる。それらの三分の一は僕の過ちで、もう三分の一は相手側のせい。残りの三分の一はどうにも避けがたい運命のいたずらのせいだ。そして、それは今さら元へは戻らない。でも、それはそういう定めだったのだろう。

 それもいつかは忘れ去られる。

 運命のいたずらで知り合って、愛し合った女もいた。僕はあれほど人を愛した事はない。おそらく、もう二度とあのような事はないだろう。だが、その女との幸せは結局叶わぬ夢だったのだ。彼女も今では虚空に消えてしまった。僕が生きている間に、あの女に会うことはもうないだろう。

 一度は身内だと思っていた人なのに、ある日突然それが断ち切られてしまうのは、身を切られるようにつらい。だがありがたいことに、それらもすべて僕の脳裏から消えていく。僕も彼らの記憶から消えていく。

 僕の生活もいつかは変わる。永久に続くと思っていた暮らしにも、必ず終わりを告げる時が来る。身の回りにいる人たちも消えていく。この映画サイトも終わるし、消えて跡形もなくなるだろう。そして人々の記憶からも消える。

 そして、僕もいつかは死んでいく

 「ザ・デッド」の終盤にスクリーンに降り注ぐ雪を見ていると、そんなしんみりとした気持ちになる。最初に劇場で見た時もそうだったが、それから18年経った今見直してみると、なおさら切実さが増した。

 だが、それと同時に達観や諦観のようなモノも感じられるようになった。それは自分がある程度の年齢になって、人生には得るモノと同じくらい失うモノもあるのだ…と分かって来たからだろうか。そして、得るにせよ失うにせよ、最後はすべて消えていくのだ…と、どこかで悟ったからだろうか。

 雪は、誰にも平等に降ってくる。

 僕を傷つけた人々にも、僕が傷つけた人々にも、僕の愛してやまない人々にも、もちろん僕自身にも…生ける人々にも死せる人々にも、すべてに等しく降り積もるのだ…。

 


The Dead

(1987年・イギリス、アイルランド、アメリカ)

ヴェストロン・ピクチャーズ、ゼニス 制作

監督:ジョン・ヒューストン

製作:ヴィーラント・シュルツ=カイル、クリス・シュバーニヒ

脚本:トニー・ヒューストン

出演:アンジェリカ・ヒューストン、ドナル・マッキャン、ダン・オハーリヒー、ドナル・ドネリー、マリー・キーン、キャスリーン・ディレーニー、ヘレナ・キャロル、イングリッド・クレイギー、レイチェル・ダウニング、フランク・パターソン、マリア・マクダーモット、ショーン・マクローリー

2006年6月25日・DVDにて鑑賞

 


 

 

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