「紙の花」

  Kaagaz Ke Phool (Paper Flowers)

 (2005/05/09)


 映画会社の門をくぐる一人の男…汚いボロを纏った初老のこの人物は、入口にあるモニュメントを懐かしげに見上げた。

 まだ誰もいない早朝のスタジオ内に、男は危うげな足取りで入り込む。ガランとしたスタジオは、不思議な静けさに包まれていた。やがてこの男は、ライトが据え付けられた頭上高い足場へと登っていく。それはまさに、夢の工場の舞台裏だ。

 そんなスタジオを感慨深げに見回す男の脳裏に、かつての思い出が甦って来る。それは忘れがたく…何とも痛みを伴う思い出だ。

 人のつながりは、やがて終わってしまうもの。この世の関わりは、うつろいやすいもの…。

 それは今から数年前のこと。ボンベイの中心街にある豪華な劇場を借りきって、有名な映画監督グル・ダットの最新作の試写会が行われていた。本来なら観客の反応を固唾を飲んで見守るところだろうが、ヒット作連発のダット監督はいまや怖いモノなし。ロビーで悠々とパイプをくゆらし、余裕で上映終了を待っていた。

 案の定、上映が終わると観客がドッと出てきて、興奮してダット監督に殺到。今回も成功は約束されたも同然だ。

 そんなダット監督だから、クルマでスタジオ入りすれば偉い人から下っ端まで平身低頭。今このスタジオに、ダット監督が気を遣わねばならない人物は誰もいない。それが仮に大スターでも…いわんやもっと偉い人物でも…だ。現在ダット監督は新作「デーウダース」を準備中。最初主演と目されていた大スター女優は、少しでもキレイな格好をしたいと映画会社の社長にゴネる。だがダット監督は「このヒロインは質素でなければならん!」と、スターのワガママを一切認めない。例え社長が取りなしても、まったく折れようとはしない。いざとなれば、とっておきの殺し文句を吐き捨てるだけだ。「何だったら私をクビにしてください!」

 むろんダット監督がクビになる訳もない。彼はこの映画会社の稼ぎ頭だ。社長がそんな彼を手放す訳がない。ダット監督もそれを十分承知しているからこそ、これだけの強気で押していけるのだ。

 だがそんな一見順風満帆のダット監督も、実は人知れず悩みを抱えていた。意気揚々とスタジオから自宅に戻っても、そこにダット監督を待つ人は誰もいない。ダット監督と妻の関係はもう何年も冷え切ったままで、妻は娘ベビー・ナーズを連れて実家に戻ってしまっていた。その事を思うと、心がうつろになるダット監督であった。

 ある日、娘に会いに学校へと足を運ぶダット。長らく別れて暮らしてはいても、娘ベビー・ナーズは今でも父ダットを慕ってくれていた。だがその場に教師が現れると、いきなりダットと娘を引き離す。教師によれば、娘をダットに会わせないように…と母親からの要請があったと言うのだ。これにはさすがにダットも怒る。冗談じゃないとばかり、ダットはその足で妻の実家へと乗り込んだ。

 妻の実家はいわゆる「いいトコ」のお屋敷。ダットが乗り込んで行くと、そこにはいつものように慇懃無礼な義父と義母がいた。明らかに歓迎されていない雰囲気。特権階級意識に凝り固まった妻の一家は、ダットが映画界入りした事が我慢ならないのだ。妻ヴィーナーと来たら二階の自室に籠もったまま、降りても来ない。ならば自分から上がっていくと、扉を閉ざして会おうともしない。ダットの妻ヴィーナーは、以前からそんな傲慢な女だったのだ。

 すっかり徒労感にウンザリして妻の実家を出てくると、たまたま義弟ジョニー・ウォーカーにバッタリ。いささか軽薄ながら人生享楽型で気のいい人物の義弟ウォーカーは、この家で唯一ダットに心を開いてくれる人物だった。彼は浮かない表情のダットに酒瓶を差し出す。「飲みたまえ。父にウンザリなら一杯、母ならもう一杯。だが姉にだったら…一本丸ごとでも足らないな」

 そんな義弟ウォーカーが自分の馬を見に厩舎に行くのに付き合ったダットは、そこで彼が新任の女性獣医にすっかり惚れてしまうのを目撃するが…それはともかく、ウォーカーとも別れたダットが夜の街を歩いていると、いきなりにわか雨に襲われてしまう。仕方なく近くの木陰に逃げ込むダットだったが、そこにはすでに先客がいた。

 それは、清楚な若い娘ワヒーダー・ラフマーンだった。

 思わず「何してるんだ」「どこから来た」などとナンパの常道みたいな事を口走ってしまうダットに、ラフマーンは思いっ切り警戒してしまう。それでも何とかラフマーンの疑いを解いたダットは、雨でビショ濡れの彼女を見かねて自分のコートをかけてやった。この思いやりにはラフマーンもすっかり感激。だが次の瞬間、ダットはボンベイ行きの列車の時刻が迫っている事に気づく。慌ただしくその場を立ち去るダットに、コートを返す間もないラフマーンだった。

 さて、ダットは撮影所での忙しい日々に立ち戻る。ところがそんなダットを訪ねて、あのラフマーンがコートを返しにスタジオへとやって来た。その場にいたダットを見つけて声をかけるが、撮影に気もそぞろの彼は全く気づかない。そんなこんなで撮影中のスタジオ内に迷い込んだラフマーンは…。

 ここはどこかの裏町か。別世界のような様子に戸惑うラフマーンに、頭上から何やら不思議な物体が迫ってくる。

 キャ〜〜〜〜ッ!

 「カ〜〜ット、カットカットカットカット〜ッ!」

 いきなりスタジオ内に喧噪が戻る。いきなりの闖入者にイラつくわ怒るわのスタッフたち。その人ごみの中に、あのダット監督もいた。「キミは?…コートを持って来てくれたのかい?」

 ラフマーンは仕事でボンベイにやって来ていたのだ。これにダット監督は感激。スタジオの一角に椅子を持って来させ、そこでラフマーンに見学して待っているように告げた。

 だが、いつまで経っても撮影は終わらない。いいかげん繰り返しばかりに飽きたラフマーンは、そのままスタジオから立ち去ってしまった。

 ところが映画会社では、予想もしない方向に話が転がっていった。

 たまたまラフマーンが写り込んでしまったラッシュ試写を見て、ダット監督が突然騒ぎ出したのだ。「これだ!見つけたぞ!これこそ私の求めていたヒロインだ!」

 何とダット監督は、たまたまやって来たラフマーンこそが映画のヒロインだと確信してしまったのだ。そしてボンベイ市内で働いていた彼女を捜し出し、無理矢理映画会社でのオーディションを受けさせた。

 そんな社長以下会社幹部を前にしてのオーディション当日…だがラフマーンは元々女優になどなる気はなかった。興味もないし出来るとも思っていない。だからセリフをしゃべれと言われても満足にしゃべれないし、笑顔を見せろと言われても出来ないと突っぱねた。これには映画会社幹部は猛反発。これではとても使えない…と全員が反対だ。だがダット監督はまったく気にせず、社長以下の反対を完全に押し切ってしまう。「彼女がヒロインだ。彼女で行きますから!」

 ラフマーンはラフマーンで、まるで女優など気が進まなかった。そんな彼女をダット監督はアレコレと説得する。「ギャラはキミが信じられないほど入るぞ」

 最終的にはダット監督の説得に応じたラフマーン。だが彼女が折れた理由は、その高額のギャラにはなかった。

 こうしてラフマーンを加えての撮影が始まる。それは彼女にとって、まるで夢のような日々だった。そして念願の理想のヒロインを得たダット監督にとっても、それは夢の実現に他ならない。ダットはいつもラフマーンと一緒で、義弟ジョニー・ウォーカーに引き合わせたりもした。二人にとって至福の時が続く。

 ある日のこと、映画会社社長の命令でパーマをかけ化粧しドレスに身を包むラフマーン。この日は彼女のお披露目パーティーが開催されるのだった。だがラフマーンはその場にダット監督がいないのに気づき、会社内をあちこち探し回る。やっとこ見つけたダット監督は、ラフマーンの出で立ちを見ていきなり激怒だ。「何だその格好は! キミはそんな女だったのか。見損なったよ!」

 美しく着飾り装った女ではなく、素朴な美しさの素顔の女を求めていたダットは大激怒。ラフマーンの言葉もロクに聞かずにわめき散らす。「元々のキミの方がよっぽど美しいのに、何でそんなバカなマネをするんだ!」

 そうブチまけると勝手に立ち去ってしまうダット監督。ラフマーンはいきなり怒られて途方に暮れながらも、ダット監督が自分本来の美しさを賛美してくれたことに、いささかの誇らしさと喜びを感じるのであった。

 翌日は早朝からロケに出発。トラックには機材が積まれ、クルーや俳優たちも乗り込んだ。ダット監督はイラついてクルマに先に乗っていたが、そこにやって来たラフマーンは…。

 何とパーマも化粧も何もかも落としているではないか。

 「キ、キミィ…一体どうしたんだい?」

 「私も仕事が一番大事ですから」

 聞けばラフマーンは、昨夜徹夜して落としたのだと言う。そんな彼女の言葉にすっかり感激のダット監督。こうしていい雰囲気で、一同はロケへと出発した。

 「昨日は僕もキミに言い過ぎたよ」

 とか何とか、柄にもなくラフマーンに優しいダット監督。天気も上々の中、みんなでドライブ…と、すっかりハイキング気分のダット監督とラフマーンであったが…。

 突然、ダット監督の実家に電話がかかってくる。電話に出たダット監督の妻は、いきなり驚いてデカい声を出した。「えっ、夫が交通事故にあった?」

 何とロケの途中でクルマが事故に遭い、ダットが負傷したと言うのだ。それまで彼に頑なな態度を貫いて来た妻は、さすがに心配そうな様子。だが怪我人にも関わらず、ダットにこちらに来るように言い出す始末。見舞いに来てくれと頼まれると頑なに固辞。相変わらずどこまでいってもテメエ勝手な女なのだ。

 かくして大ケガをして屋敷で寝込んでいるダットを、看護婦が泊まり込んで世話を焼く事になる。だが夜中に目覚めて「水をくれ」と頼むダットに、看護婦の答えは聞こえない。何のことはない、看護婦は寝込んでまったく目覚めないのだ。ノドが乾いて仕方がないダットは、仕方なく自力でベッドから起き出す。顔面に包帯が巻かれて目の見えない状態で、部屋をウロウロと危なっかしく歩いていると…。

 「危ない!」

 コケそうなところを助けられたダット。その女の声に最初は看護婦かと思うが、ダットは話しているうちに声の主に思い当たった…。

 「キミじゃないか!」

 何とあのラフマーンが心配して、ダットの屋敷に泊まり込んでいたのだ。これには感激も新たのダット。だが何より…まだうら若いラフマーンがダットの屋敷にいるのはマズイ。いてくれたのは嬉しいが、それは彼女のためにならない。こうして心を鬼にしたダットは、彼女に帰るように告げるのだった…。

 だが、結局これが二人を急速に近づけた。

 キズも癒えてスタジオへと戻ってきたグル・ダット監督。いつものように誰もまだ来ていないスタジオへとやって来ると、何とそこにはあのラフマーンが静かに一人編み物をして待っているではないか!

 ラフマーンに決定的な自分との「絆」を感じてしまうダット。彼女が今編んでいる毛糸のセーターも、誰のためのモノかダットには分かっている。彼も彼女も、お互いが身も心も一つになるのが自然だと知っている。今にもお互いの思いをぶつけたいと望んでいる。だが…それは世間では許されぬ事だ。こうして気持ちではあともう一歩まで寄り添ったにも関わらず、身を切るような思いでお互いを引き離すダットとラフマーンではあった。

 それでも、そのただならぬ気配は容易に嗅ぎ取られてしまう。

 ゴシップ雑誌にも、ダットとラフマーンの「親密さ」はデカデカと取り上げられた。これが災いして、ダットの娘ベビー・ナーズは学校でイジメを受ける事になってしまう。たまりかねた娘ナーズは、そのままボンベイへと出てきてしまった。ただし直接父の元には行かず、まず訪れたのが…あのラフマーンの住まいだった。

 最初は敵意むき出しで、父と手を切るように迫るナーズ。だが二人の絆の強さが尋常なものではないと悟ると、今度は手の平を返したような猫なで声。結局ラフマーンは、彼女の思いを無視は出来ないと悟った。

 そんなやりとりが行われているとはツユ知らず、突然の娘の訪問に相好を崩すダット。折りもおり、ちょうどラフマーンを起用したダット監督渾身の新作が、完成試写を迎えようとしていた。ダットは娘ナーズを連れて、華やかなプレミア会場へと出かけていく。

 映画は果たして大成功。観客は絶賛の嵐でダット監督とラフマーンを迎えた。そんな二人の間に、気を遣ってさりげなく娘ナーズを置くラフマーン。そんな彼女にナーズは、耳元でコッソリつぶやくのだった。「いいわね、約束よ」

 それが一体いかなるやりとりかを知らないまでも、何やら不穏な雰囲気をかぎ取るダット。だがその夜は凄まじい絶賛の渦に飲み込まれ、ダットもラフマーンと引き離されモミクチャになるのだった。

 そんな大成功から一転、映画会社は上を下への大騒ぎとなった。

 大スターとしての地位がこれで約束されたラフマーンが、突如女優を辞めたいと言い出したのだ。社長が何と説得してもダメ。いくらギャラを積もうと何しようとダメ。契約があるから訴えると脅しても、彼女の決意は頑として覆らない。これには会社幹部たちもお手上げだ。

 そんなラフマーンの決意を知ったダットはビックリ。その裏で娘のナーズが暗躍していた事にすぐ気づいたダットは、彼女に向かって激怒。初めて父親に叱られた娘ナーズは動転して、ダットのラフマーンへの思いを責める。

 ともかくラフマーンの決意を翻させねば…彼女の住まいに初めて乗り込むダットだが、もはやラフマーンの決意はダットでさえ変えられない。会えば会うほど、語りあえば語り合うほど…お互いがかけがえのない存在だと分かっていながら、もはやどうする事も出来ないダット。「こんなにもお互い分かり合えてしまうのに…」

 だが、もはやすべてが時間切れだ。ダットはラフマーンから手編みのセーターを渡され、無念の思いで彼女の住まいを去るしかなかった。そして、間もなくラフマーンはボンベイから姿を消した。

 ラフマーンに去られて傷心のダット。そんな彼に、さらに追い打ちをかけるような出来事が起きる。あの忌々しい義父が、娘ナーズを連れ去ろうとしたのだ。これには怒ったダットは、妻側の家族と娘の親権を巡って法廷闘争に持ち込む。だが、所詮不規則な生活の映画監督に、娘の親権が委ねられる訳もない。こうして娘ナーズまでも奪われてしまうダット。これが彼の精神に決定的な打撃を与えてしまう。

 連日連日の酒浸り。飲んで飲んで飲み続け、スタジオにも連日の遅刻。来てもへべれけに酔いつぶれ、演出など出来る状態ではない。その情けない状況にスタッフたちは心配するが、ダットの落ち込みぶりには何者にも口出し出来ない異様なモノがあった。

 こんな事で満足な仕事が出来るのか?

 ズブズブになりながらの新作完成。例によっての試写会の日、そこにいつもの自信満々のダット監督はいなかった。そして彼は、さらに窮地に追い込まれる。新作の出来が最悪だったため、観客が暴徒と化して暴れ出したのだ。「こんなひどい映画、誰がつくったんだ! 関係者出てこい!」

 当然、会社での彼の信用も地位も一夜にして失墜。次作の打ち合わせの際に作品のコントロール権をすべて奪われ、さすがにダットは憮然。社長に向かってついつい例の文句を口走ってしまう。「何だったら私をクビにしてください!」

 「じゃあそうするよ」

 が〜〜〜〜ん。今までたっぷり稼がせてやったのに…そうつぶやきながら部屋を出ていったダットは、周囲の風向きがまるっきり変わったのに気づいていなかったのだ。

 だが、落ち目になったダットに仕事などない。やがて屋敷も売りに出したダットは、いずこかへと去って行った…。

 さて、ボンベイを去ったラフマーンは、その後田舎に引っ込んで教師となった。ところが子供たち相手に授業をしている彼女の元へ、懐かしい珍客が訪れる。それはあのダットの義弟ジョニー・ウォーカーだ。実は映画への出演拒否を貫くラフマーンを会社が訴えた裁判が、会社の勝訴というカタチで決着を見た。そこでラフマーンの出演を説得するために、ウォーカーが派遣されたのだ。むろんウォーカーがこの役を買って出たのには理由があった。ラフマーンならば義兄ダットを立ち直らせる事が出来るのでは…というウォーカーなりの期待があったからだ。そんな彼の言葉に、カムバック固辞していたラフマーンの心も微妙に揺れ動く。

 かくして映画会社に赴いたラフマーンは、一転して映画界復帰を受け入れる。ただしその条件は、グル・ダットの監督起用だ。社長もこの条件をのんで、ダットの元に使者が差し向けられる。

 だが当のグル・ダットは、もはや見る影もないほどに落ちぶれていた。おまけにアル中でヨレヨレ。せっかく映画会社から使いが来ても、ラフマーンからの申し出による起用と聞いて一気に態度を硬化させる。ラフマーンの同情による起用だと、ダットには痛いほど分かったからだ。こうしてせっかくの監督要請も蹴ってしまうダット。

 やがて、うらぶれた裏町にダットを訪ねるラフマーン。ダットはそこでも、安酒に溺れる日々を送っていた。汚い彼の住まいには彼女が座る場所とてない。そんな家の中にも、ラフマーンからもらった手編みのセーターだけは大事に飾ってあった。

 あまりに落ちぶれたダットの境遇と自嘲気味な態度に、ラフマーンは唖然とせざるを得ない。それでも彼女はダットを一生懸命説得する。「私は今度女優にカムバックするの。だから、ぜひ監督に撮っていただきたいと思って…」

 だがダットとて、それが何を意味するか分からないでもない。ラフマーンの好意の賜物であると、気づかぬ彼ではないのだ。そうは思わせまいと、ラフマーンはあえて「金のためのカムバックだ」と悪びれて言うが、そんな彼女の性根はダットもお見通しだ。

 「何もかも失ってしまった者に、最後に残されたモノは“誇り”だけだ…」

 ダットのために良かれと思ってやって来たラフマーンだが、そう言われては返す言葉がない。ラフマーンは黙って、ダットの住まいを去って行くのだったが…。

 

 1950年代から1960年代前半に活躍したインドの映画監督グル・ダットの事は、かねてよりその名前だけは聞いていた。特にその代表作の一本「紙の花」が映画界を巡るバックステージものの体裁をとっているという事も知ってはいたので、何とか実物の作品を見たいとも思っていた。今回その機会を得てやっと見ることになった訳だが、確かにこれはかなり興味深い作品だったんだよね。

 まず最初にこれは断っておかねばならないが、僕はインド映画というモノについて何かを語る資格はない。何せサタジット・レイのキャリアの最後の頃の作品「チェスをする人」(1977)、「家と世界」(1984)、「見知らぬ人」(1991)などをチラチラっと見た他は、G・アラヴィンダン監督の素朴でユーモラスな作品「魔法使いのおじいさん」(1979)、さらには東京国際映画祭で見たサスペンス・スリラーストーミー・ナイト(「真犯人」改題・1999)とか、死刑を巡る風刺劇マラナ・シムハサナム(1999)と王様の犬を巡る風刺コメディドッグズ・デイ(2001)の2本のムラリ・ナイール監督作品…後はいきなりマサラムービーの「ムトゥ/踊るマハラジャ」(1995)にいってしまうという乏しくも脈絡のない作品群しか見ていない。身分制度やら宗教や言語が入り組んで複雑な事情をはらんだインドの事も知らなければ、その映画界についてもまったく分かっていない。これではとてもじゃないが…ハリウッド映画について語るように何かをご説明する訳にはいかないのだ。

 だからこのグル・ダットについても、何かを語れるほどのものはもっていない。せいぜい映画上映時に売っていたパンフレットの内容の受け売りぐらいしか出来ない。

 で、その受け売りを堂々とさせていただければ、グル・ダットという人はまず監督としてそのキャリアをスタートさせたらしい。何作か発表するうちにさまざまな事情から自分で主演するようになって(!)、監督・主演で充実した作品を次々発表したということだ。

 正直言うと、監督が自分で主演するようになる…という事情が、他の国の映画界ではあまり見られない事なのでイマイチよく分からない。だがこの「紙の花」を見る限りでは、グル・ダットは明らかに「スター」然として主演しているようだ。撮り方を見ればハッキリ分かる。明らかに知的なスターの風貌だ。日本で言ったら…誰だろう?…池部良とかあのへんの俳優さんの雰囲気だろうか(笑)。パイプなんぞをくゆらせ、実に堂々とカッコイイのである。

 ところがこのグル・ダット、ある時を境に監督業から足を洗ってしまう。その後も実質上は監督をした作品などもあったのだが、少なくともクレジットはしなくなってしまう。そんな分岐点になったのがこの「紙の花」なのだ。

 この映画はグル・ダットが映画監督役で主演もするというフランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」(1973)的作品とも言えるが、実はそれよりも「自伝」的要素がグッと濃い。何しろグル・ダットは妻子のある身ながら、相手役を演じるワヒーダー・ラフマーンという女優さんと不倫関係だったらしい。まったくこの映画での役どころはシャレになってない。この映画で描かれるグル・ダットの苦悩は、そのまんま本人の悩みだったらしいのだ。

 しかも「紙の花」は、グル・ダットにとってかなりの自信作だったにも関わらず大コケ。これにショックを受けたグル・ダットは、以降自分の名を監督としてはクレジットしなくなってしまう。で、最終的には公私ともに悩みを抱えたあげく、ほとんど自殺のような状態で亡くなってしまったらしい。そんな自身の将来を予見したような「運命の一作」とも言える映画がこの作品なのだ。

 ただこの映画…そうなるとインド映画としてはかなりハイブロウで、向こうの人でも限られた知識階級の人しか見ない…とか、向こうにおけるサタジット・レイ映画みたいな特異な位置づけを想像してしまうが、実はそうでもないらしい。先日たまたまインド映画を中心に東南アジア各国の映画交流史を研究されている松岡環さんにお話を伺う機会があったが、松岡さんいわく…グル・ダット映画はちょっと知的ではあっても多くの人に見られている有名な作品群であり、かなり大ヒットを記録したものもあるようだ。

 実際この映画はちゃんと大衆娯楽映画としてつくられているし、インド映画の常道(…だと素人の僕などは思ってしまうが)である歌も満載している。いかにもインド映画らしく、ミュージカル映画でもないのに何かというと歌が出てくるのだ。これらの歌が商業的妥協の産物として「仕方なく」挿入されているのか…というと、見ている限りではそうも思えない。結構歌の場面も力を入れて演出しているようだし、実際に作品の魅力の一つになっている。イイ歌も多いのだ。そして見ていて楽しい場面になっている。どう考えてもグル・ダットは、「自らの意志で」この映画に歌を入れているように見える。

 ただ…これはパンフレット中にも指摘された事だが、主人公のグル・ダット自身は一回も歌をうたわない。これは確かに異例な事なのかもしれない。そしてそれこそが、「紙の花」が意欲作たる所以でもあるだろう。ひょっとしてインドで初公開時に不評だったのも、そんなあたりからではないか。

 そして、この作品が「意欲作」たる所以はもう一つ…何とインド映画初であるシネマスコープで制作されている事でも伺える。

 最初は僕も、何でよりによってこの映画でシネマスコープを導入したのか…と疑念を抱いた。本来その国初めてのワイドスクリーンだったら、歴史大作とかスペクタクル映画とか…その手のジャンルで制作するものではないか。それなのに…何が悲しくて愛に苦悩する映画監督の話(笑)。オープニング・クレジットにデカデカと「20世紀フォックスからライセンスを得た」…云々とシネマスコープの表示を出しているだけに、そのへんの意図についてかなり理解に苦しんだんだよね。

 だが、本編を見てみて疑問は氷解した

 例えば早朝誰もいないスタジオで、グル・ダットとワヒーダー・ラフマーンが愛に葛藤する描写。結ばれたい結ばれるべきだ…だけど、結ばれる事が出来ない。悶々とする二人が、ワイドスクリーンの右と左に引き裂かれて立ちすくんでいる。この構図を見て…なるほど、これがやりたかったんだな…と合点がいった。

 その他にも落ちぶれ果てたグル・ダットが無人のスタジオにやって来るあたりで、がらんと静まりかえったスタジオ内をとらえてワイドスクリーンが遺憾なく威力を発揮。この手の映画で…「なるほど」と分かるカタチでワイドスクリーンを活かしきった作品を、僕は他に見たことないんだよね。これは正直言ってマジメに感心してしまった。

 だが…そのへんの事は正直言ってどうでもいい。どうでもいいと言ってマズければ、枝葉の事に過ぎないと言うべきだろう。この映画に引き込まれたのは、そんなところではないのだ。

 映画が始まってすぐ、ボロボロの主人公が無人のスタジオに一人で佇んでいる場面に、どこからともなく静かに歌が流れてくる。

 人のつながりは、やがて終わってしまうもの。この世の関わりは、うつろいやすいもの…。

 ここからいきなりズバリと本題に入ってくる。この映画は、実際のところ終始一貫してこの歌のテーマをどこまでも繰り返していく。劇中の別の歌でも、同趣向の内容を繰り返して歌っている。前述した主人公とヒロインの葛藤シーンでも、背景に流れる歌は同じような事をうたっているのだ。「時とはうつろいやすく残酷なものよ、幸福は長くは続かない…」

 どこを切っても金太郎アメみたいに…諸行無常、万物流転、盛者必衰…。時は残酷、人の心は変わる、良いことは続かない、つながりはモロい…とにかくこれでもかこれでもかと「この世のすべての物事の儚さ」について連打を浴びせてくる。見ているこちらはほとんどパンチドランカー状態。こちらは実際のグル・ダットの顛末も知っているだけに、ドップリとメランコリックな気分に浸ってしまうのだ。そして、グル・ダットその人の憂愁を帯びた表情…。

 その「儚さ」は一つの事にはとどまらない。この映画では、出てくるすべての要素が「儚さ」を帯びているのだ。主人公と妻との間にあったはずの愛情の「儚さ」だけでなく、真の絆であるはずの主人公とヒロインとの運命の愛も、主人公と娘とのつながりも「儚い」。しかも主人公が愛を注ぎ、本人も主人公を深く愛するはずの娘が「良かれ」と思ってやる事すべてが主人公を破滅させてしまうという…愛の危うさ

 そもそも愛を失った事で主人公の精神のバランスも「儚く」崩れ落ちてしまうし、主人公が掴んだと思った名声も地位も「儚い」。映画人としての自信もプライドも「儚く」消えてしまう。何もかも虚しく危うくモロく…「儚い」ものなのだ。

 もっと言えば…生きている事そのものが「仮の宿り」とも言われるくらいだから、元来が「儚い」ものなのかもしれない。人生の間に起きる楽しい事も苦しい事も、ほんの一瞬の夢のような淡いものだと言えなくもない。少なくともこの映画はそう言っている。

 何より…グル・ダットと彼の主人公が人生を捧げている「映画」そのものが、元々が幻であり虚構である性格上「儚い」ものでしかない。つまり主人公は「儚い」もので身を立てている人間であり、「紙の花」という映画自体がそんな「儚い」映画の世界を舞台にしたものなのだ。全編を貫くように「儚さ」が横溢しても、そこに何の不思議もあるまい。

 そんな「儚さ」がグル・ダット自身の実感を込めて描かれるから、切実さが尋常ではないのだ

 実際のところ、僕は個人的にも今そんな事を痛感している真っ最中だから、まるっきりシャレにならなかった。ある事でつまずいて以来、どうも物事がうまくいかない。いつか巻き返せると思っていたが、そんな事をやっているうちに状況はどんどん悪くなる。いや、ホントにこの映画に描かれている転落はリアリティがある。世の中あんなものなのだ。

 そして…実は情けない話だが、僕は主人公の持つ一種の「ひ弱さ」にも思い当たるフシがある。

 実際のところ、主人公は気の毒ではあるが自業自得のところがある。そして、あまりに「ひ弱」だ。愛する女と娘を立て続けに失い、主人公は一気に転落していってしまう。それはハッキリ言って「自滅」でしかない。人によっては「何であんなにだらしないんだ」とノレない向きもあるかもしれない。僕だって自分が絶好調の時だったら、そんな事を思って切り捨てるかもしれない。

 おまけに落ちぶれた主人公を助けようとわざわざヒロインが監督依頼しに来た時、主人公の言うセリフが言わずもがなではないか。

 「何もかも失ってしまった者に、最後に残されたモノは“誇り”だけだ…」

 オマエはそんな事を言ってる場合か…と言いたいのは山々だが、それが言えるのは自分がその立場でない時だ。これが自分に降りかかっているとなれば、そんな単純に割り切れるものではない。激しく負けていれば負けているだけ、虚勢と意地がデカくなる。そうするしかなくなる。これは本当に負けた人間だけにしか分からない。「もっと地道にやれ」とか「割り切ってやれ」などという「正論」は、その立場に立った事のない人間にしか言えないのだ。ズバリ言って…何のためらいもなく「正論」が言える人は、実は人の心について何も分かってはいないと断言出来る。

 この主人公の精神的なひ弱さ、そして虚勢の張り方は、たぶんそっくりそのままグル・ダットその人に当てはまるのだろう。でなければ、こんなに自分を思わせる主人公と物語を構築しないはずだ。ヒロインに自分の女を持って来る事もない。結果的に、自分の将来の予言にまでなるはずもない。トコトン思い詰めて思い込んで追いつめられて…精神的にひ弱であるくせに虚勢ばっか張ってるええカッコしいだったから、彼は一気に破滅へと突っ走った。何とダメな男。だけど…それが人間ってものなのだ。今なら僕にもそれが分かる。そうなるしかない事だってあるのだ。

 そして、そのダメさはグル・ダット自身が一番よく分かっていた

 それは、主人公の義弟のキャラクターの突出ぶりを見てみれば、何となく分かる。まずはジョニー・ウォーカーなる酒の名前からいただいた芸名の役者…その名前といい「バットマン」でジャック・ニコルソンが演じた悪役ジョーカーみたいな顔(笑)といい、何とも奇妙でオカシイこの男がメランコリック極まりない物語に登場してくる事からして妙だ。しかもこの男の出番が、なぜかかなりの比重を占めている。作品中のバランスを崩すくらいに出てきては、場面をさらってしまう。普通この手の映画では、こんなキャラが本筋とは別に大々的に出しゃばりはしまい

 この男は何から何まで主人公とは対照的で…誠実でマジメで深刻で思索型の主人公に対して、刹那的で楽観的で享楽型。人生エンジョイするのが一番…と、競馬に女に大いに楽しんでいる。愛に対してもロマンスを楽しみこそすれ深刻な事態や責任は避けたいから、結婚などするものか…と歌ったり踊ったりする始末。女への愛で追いつめられていく主人公との違いは歴然。何から何までお気楽な男なのだ。

 だが不思議とこの作品の中で、主人公の一番の理解者がこの男でもある

 そもそもこの男、まるっきり脳天気な人物でもないようから面白いのだ。彼の一見お気楽な言動も、厄介な現実への失望か達観…あるいは諦めがそうさせているようにも見える。根っからの俗悪・快楽主義に見えて、その裏には知的なニヒリズムもチラつくのだ。だとすると…この人物は主人公とは対照的どころか、意外に同じ土俵の上にいるようにも見える。

 本当は、グル・ダットもこのキャラみたいに振る舞いたかったのではないか?

 もし彼のように現実に見切りをつけて割り切れたら、自ら破滅などしまい。ロマンスを楽しみこそすれ思い詰めなければ、倫理観に苛まれることもあるまい。世の中こんなものと達観出来たら、最悪の事態は避けられたに違いない。本当は彼だってそうしたかったはず。…この映画の中で無類にイキイキとして大活躍するジョニー・ウォーカーを見ていると、何となく僕はそんな気がしてくるんだよね。本当は「かくありたかった」自分を、ジョニー・ウォーカーに体現させたのではないか…。でも、グル・ダットは結局そうは出来なかった。

 そして、人はそれでいいのかもしれない

 例え愛が移ろうものであろうとも、そこにあった一時の輝きには偽りはない。人生に下り坂があり終わりがあっても、そこにあった美しさや実りは否定できない。「儚い」けれど…「儚い」からこそ、そこには価値がある。そう思えば、「儚い」からこその人生だとも言える

 そしてグル・ダットが身を捧げた「映画」とは、先にも述べたように所詮は幻と虚構から成り立つ「儚い」世界だ。だが、だからこそひときわ美しい「夢」となる。

 「紙の花」とは…そのことではないのか?

 この映画のラストで、主人公はディレクターズ・チェアに座ったまま息絶える。それはあたかも往年の栄光にすがって死んだ、哀れな姿のように思われるかもしれない。だが、本当にそれは「哀れな死」なのだろうか?

 映画はこの主人公の死の後で、スタジオのライトが一気に点灯してまばゆい輝きを放ちながら幕となる。それはとても悲劇的なエンディングには見えない。むしろ主人公を明るく祝福するかのような…一種のハッピーエンドのように見える。

 いや…それはきっとハッピーエンドなのだ

 画面全体がまばゆく輝く至福の時。それは「儚い」世界と知りつつもそこで自らを全うした、「完全燃焼」の喜びに違いないからである。

 

 

 

 

<参考>

「インド映画の奇蹟 グル・ダットの全貌」(パンフレット) 国際交流基金アジアセンター

 

 

 


Kaagaz Ke Phool (Paper Flowers)

(1959年・インド)グル・ダット・フィルムス・プライベート・リミテッド 制作

制作・監督:グル・ダット

製作統括:S・グルスワーミ

脚本:アブラール・アルヴィー

作詞:カイフィー・アーズミー

作曲:S・D・バルマン

出演:グル・ダット、ワヒーダー・ラフマーン、ジョニー・ウォーカー、ベビー・ナーズ、ヴィーナー

2005年4月11日・アテネ・フランセ文化センター「特集 グル・ダットの全貌」にて鑑賞

 


 

 

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