「ランブルフィッシュ」

  Rumble Fish

 (2004/03/22)


退屈な田舎町に、伝説の「兄貴」が帰ってきた

 ここはアメリカの田舎町。そんな退屈な町のそこかしこには、妙な文句がスプレーでイタズラ描きされている。

 「馬偉苦野郎参上!」

 「馬偉苦野郎=バイク野郎」はこの町の若い連中の間では一種伝説的な人物だったが、その話はもうちょっと後でしよう。ともかくそんな退屈な町にある汚い食堂は、若い連中のたまり場になっていた。今その店に伊達男をキメ込んだラリー・フィッシュバーンが入ってくる。目指すは彼らの親玉然としたマット・ディロンだ。

 「敵の族のボスがオマエを殺すって言ってるぜ」

 フィッシュバーンはここの若い連中とつかず離れずでつき合っている不思議な男。その彼が敵の族からのメッセージを伝えてきた。こちらのリーダー、ディロンとサシで果たし合いをしようと言うのだ。上等じゃねえか…とディロンは武者震い。周りの郎党引き連れて、敵が言ってきた今夜10時にカタを付けてやると意気軒昂だ。

 実は周りの仲間たち…クリストファー・ペン、ニコラス・ケイジはさほど乗り気とは見えない。メガネをかけたマジメそうなヴィンセント・スパーノに至っては尻込みだ。何でこのスパーノがこんな連中といるのか不思議な気もするが、彼はディロンの幼稚園からのダチだった。浮いていようがいまいが、ディロンには大事なダチには違いなかった。

 だがそのスパーノが「バイク野郎は…」と一言口走った時は、さすがのディロンも声を荒げる。「兄貴の事は言うな! 奴はどっかに行っちまったんだよ」

 「バイク野郎」…それはかつてこの界隈の若い連中の「族」を仕切っていた伝説の男。そしてディロンの兄でもあった。だが彼は突然消えてしまった。今はどこにいるのか分からない。ここの族を仕切るのは、いまや弟のディロンの使命…と彼は頑なに思っていたのだ。

 かつての族はもっと活気があって、意味のあるものだった。それが今では…すべてはヤクが絡んでからだ。ディロンは苦々しくそう思っていた。そんな彼は帰り道がてらスクールバスに乗り込もうとしている少女の群の中にいるダイアン・レインに声をかける。

 そんなディロンにつれない素振りのダイアン・レイン。だが実は彼女もまんざらでもないようだ。彼女はディロンの恋人だ。あくまでクールに振る舞うレインに、ディロンは突っ張って一言。「オレが好きなくせに。今夜行くから床に絨毯敷いて待ってな」

 ディロンは今夜9時半の再会を約束して、仲間と別れた。

 その夜、予告通りにレインの家を訪れるディロン。その夜はレインの母親は留守だった。二人の関係に興味津々なレインの妹ソフィア・コッポラがチョッカイ出すが、水入らずをジャマされたくないレインに追い出される。こうなれば、後は二人の時間だ。ソファでイチャつく二人。だがふと気づくと、時計は9時半を回っていた。ヤベエ! 仲間のところへ行かなきゃ。

 そんなディロンをレインは止める。「アナタはお兄さんとは違うわ。ケンカなんか止めて」

 それでも例によって例のごとく、これで最後だ…と本気でもない台詞を吐いて彼女の元から飛び出すディロンだった。

 待ち合わせ場所には、仲間たちが焦れて待ちかまえていた。クリストファー・ペンにニコラス・ケイジ、後はその他大勢。マブダチのスパーノは来ていない。ディロンにケイジの皮肉な台詞が飛んだ。「オマエは人を信じすぎるんだよ」

 それでもスパーノは遅れてやって来た。さぁ、果たし合いの場所に参上だ。

 それは人けのないガード下。敵の族も勢揃いだ。ディロンを待っていた敵のボスは、ヤクでラリったイカレ野郎だ。気にくわねえ。「早くかかってこい! そらどうした!」

 するとこのイカレ野郎はナイフを取り出す。どこまでいっても気に食わねえ野郎だ。たちまちディロンと敵のボスを囲んで双方の族のメンバーがにらみ合う。

 イカレ男は盛んにナイフで威嚇するが、たちまちディロンにすっ飛ばされた。後はディロンの一方的な戦い。エキサイトするギャラリーの騒ぎを聞きながら、ディロンはイカレ男をブチのめす。そろそろ勝負がついたかに見えたその時…。

 バイクに乗った一人の男が静かに現れた事に、その場の全員が気が付いた。

 「兄貴!」

 思わず顔をほころばせるディロン。そう、その男こそ「バイク野郎」…ディロンの兄ミッキー・ロークだ。

 ところがその時、イカレ男が油断を突いてガラスの破片でディロンの腹を斬りつけた。苦痛に顔を歪めるディロン。ロークの冷ややかな眼光が一瞬ギラッと光った。

 バイクを全開で吹かすと、ハンドルからパッと手を離す。バイクは一気にイカレ男目がけて突っ込み、イカレ男は吹っ飛ばされてその場に倒れ込んだ。

 これで緊張感が解けて、クモの子を散らすように消えていく族の連中たち。傷ついたディロンを抱きかかえたのは、臆病なスパーノだった。ロークも弟を労るように見つめる。そこに一人の警官が現れた。この警官はロークをジッと見つめると、吐き捨てるようにつぶやく。

 「帰って来たのか。帰って来なかった方が良かったのにな

 ともかくスパーノと共にディロンを家に連れ帰るローク。酒を傷口にぶっかける手荒な治療を施すロークに、スパーノは珍しく憤る。だがディロンは、憧れの兄貴が帰って来たのが嬉しかった。

 だが久々に帰ってきたロークは、どこかが変わったように見える。スパーノさえこうつぶやく始末だ。「何だかずっと歳を取ったみたいだ」

 そんなディロンやスパーノの会話が聞こえていたのかいなかったのか。実はローク、時折耳が聞こえなくなる時があるらしい。それだけではない。彼は色盲でまったく色を感知しない男なのだ。

 そんな訳で、兄が家に帰って来てディロンは大喜び。今日もご機嫌でアパートに帰って来ると、階段に一人の女が立ちつくしているのに気づく。ディロンは彼女を見ると、やけに邪険に扱った。それはどうもかつてロークの恋人だったらしいダイアナ・スカーウィドだ。

 ディロンは元々この女が嫌いだった。それは彼女が教師なんて虫の好かない職業だからか、それとも単に兄貴との男同士の関係に割って入る女というのが気に入らなかったのか。だが、スカーウィドの様子がどこか変だ。

 「注射針の跡…テメエ、ヤクやってるのか!」

 ますます嫌悪感に虫酸がはしるディロン。だが彼女は泣きそうな顔で言い訳をした。私は嫌われ者ね。あの人が帰ってこないと思ったから、つい寂しさに手を出してしまった。でも中毒じゃないわ…。

 ウンザリしてスカーウィドと別れたディロンが部屋に帰ってくると、今度はロークがディロンを問いつめる。「オマエはいつもキズだらけだな。どうしてケンカをするんだ?

 そんな兄貴の言わずもがなの問いかけに、当惑せずにはおれないディロン。そこに帰ってきたのは二人の父親、飲んだくれの浮浪者然としたデニス・ホッパーだ。「おうおう、珍しい顔がいるな」

 この親にしてこの子あり…とでも言うのか、ホッパーは弁護士だったにも関わらず、今は酒浸りで生活保護に頼り切る日々だった。おかげで家もブタ小屋同然。そんなホッパーにロークは不在中の事を話しかける。「オレはカリフォルニアに行ってたんだ。カリフォルニアはここよりはマシさ」

 さて、その夜はディロンは仲間とお出かけ。ダチと女どもを引き連れて、留守宅の屋敷に忍び込んで乱痴気騒ぎ。レインという恋人がいながら、尻軽女とベッドでシケ込むアリサマだ。

 翌朝久々に学校に行ったディロンは、いきなり校長室に呼ばれる。そこで校長直々に停学を言い渡されたディロンはキレにキレた。「ここはダチがいるから来てやってたんだ、こっちから出てってやるよ!」

 ついてない時はついてないもの。その後で帰宅途中のレインをつかまえたディロンは、彼女から手痛いしっぺ返しを食らう。何と昨夜の乱痴気騒ぎが彼女に筒抜けになっていたのだ。何とかシラを切ろうとするディロンだが、今度はレインも一歩も退かない。体よく絶交を言い渡されて、アッサリ追い返されるアリサマだ。

 クサるディロンは兄貴ロークとツルんで楽しくやろうとするが、ロークは心ここにあらずな様子。またみんなでパ〜ッとやろうと持ちかけるディロンに、今は大人しくしていたいとつれない。「オレはハメルンの笛吹に飽きたんだよ。人を引き連れて行くには、目的地ってもんが必要だ

 だがそんな兄の気持ちが、ディロンには分かっていない。

 そんなロークの後を、あの警官が執拗につけていた。怒るディロンは警官に食ってかかる。「何でそんなに兄貴を目の敵にするんだよ!」

 警官はロークをにらみ付けて言う。こいつはオマエが思っているような英雄じゃない。こいつ自身それは分かっているはずだ。

 その夜、町はずれの繁華街に出かけるディロン、ロークとスパーノ。その途中でロークは意外な事をディロンに告げた。彼がカリフォルニアに行ったのは、母親に会うためだったと言うのだ。母親は二人が幼いうちに家を出た。そして父ホッパーは酒に溺れた。

 「親父はいつもオレが母親に似ていると言ってたが、その理由が分かったよ」

 そんなロークの告白に、ディロンは軽いショックを受けた。それでも彼は兄を慕っていた。兄のようになりたいと思った。

 ぐでんぐでんに酔っぱらったディロンとスパーノ。だが二人の前からロークは姿を消していた。フラフラになりながら夜の町を歩いていた二人は、暗がりでカツアゲ野郎二人組に襲われる。いよいよの時にロークが戻って来たから良かったものの、それでもディロンはカツアゲ野郎に殴られキズを負っていた。

 そんなロークにスパーノはくってかかる。「族がなんだ、そんなのは言われているほど素晴らしいモノでも何でもない。ハッキリ弟に言ってやったらどうだ?」

 ロークは静かにつぶやいた。確かに族なんてつまらないものだ。最初は楽しかったがじきに飽きてしまった…。

 しまいには自らを気が狂っていると称するローク。そんな言動にディロンは当惑せざるを得ない。そんなある日、例の食堂にシケ込んでいたディロンの元に、おめかししたレインがやって来た。自分に会いに来たと思ったディロンは、顔を輝かせてつぶやく。「相変わらずキレイだな」

 ところが次の瞬間、ディロンは冷水を浴びせかけられるような思いをする事になる。何とレインはあのニコラス・ケイジとデートするために来たのだ。これにはディロンも穏やかではない。「オモテに出ろ。ケンカはしない。話があるんだ」

 店の外でケイジと向き合うディロン。彼には今ようやく何が起こったのか分かった。「オマエはあの夜の事が彼女にバレるようにし向けたのか?」

 ディロンの問いをケイジは否定しなかった。唖然とするディロンは思わず口走る。「オレならそんな事を思いつきもしないぜ」

 そんなディロンに畳みかけるようにケイジは答える。今、族があるとしたら、ボスはオレだ。オマエは兄貴の名声でボスでいられたんだ。今ならオマエには誰もついて来ない。オマエは利口じゃないからな。

 そうかもしれない。ディロンはあまりに人を信じすぎる。あまりに思い込みが強すぎる。

 そんなディロンは、やっぱり兄貴の元へ行くしかない。その兄ロークは、ペットショップに入り浸っていた。彼はなぜか、この店の水槽にいる数匹の魚に魅入られていた。

 それはランブルフィッシュ…闘魚だ。

 好戦的な魚で、相手と見ると戦いを仕掛ける。だがこいつらも広い川の中ならどうだろう? そこでもお互い闘うだろうか? 魚は川に放してやるもんだ。

 だがずっとロークが入り浸っているのに警戒してか、店の主人は例の警官を呼んでいた。ロークとディロンは店から出て行かざるを得ない。

 その夜、ロークとディロンは父ホッパーのシケこむ酒場へと足を運ぶ。そこでディロンはホッパーに母親の事を尋ねた。ホッパーは初めて自分の口から、子どもたちの母親の事を話し始める。「世の中には他の人と違った見方で世界を見る人間もいる。あいつは間違った時に間違った場所で生まれてしまったんだ

 やがてロークは、ディロンを連れて例のペットショップへ舞い戻った。そんな彼の様子を心配したディロンは、兄の傍らを離れない。やがて店主が店を戸締まりして出ていくと、ロークは裏口に回って扉をこじ開けた。これにはディロンが慌てる。「金かい? 金なら何とかなる。この店はヤバいよ、ここにいたのを見られてる」

 だがいくら止めてもロークは言うことを聞かない。店の中にズカズカ踏み込んで、次々に生き物を放してやる。ディロンは泣いて止めるが、もうロークは留め金がはずれたようだ。そしてディロンに頼み事を告げる。「この後で、オレのバイクをもらってくれ。そして海を見に行くんだ

 呆然とするディロンを横目に、ロークはあのランブルフィッシュの水槽を担いでオモテに出た

 だが通報を受けてパトカーが駆けつける。さらにロークに目をつけていたあの警官もやって来た。慌ててオモテに飛び出すディロンの耳に、一発の銃声が飛び込んでくる

 川のほとりに駆けつけると、そこには撃ち殺されたロークの亡骸が横たわっていた。衝撃を受けるディロン。だが彼は、ロークの傍らに例のランブルフィッシュが投げ出され、苦しそうにはねているのを見た。そのランブルフィッシュを水槽に戻したディロンは、警官たちを無視するかのように川に魚を放す。それはロークの最後の遺志を全うしようとするかのようだった

 翌朝、カモメの飛び交う海岸に、バイクに跨ったディロンの姿があった…。

 

もはやすっかり「過去の人」なのかコッポラ

 これを書いている今現在(2003年3月)、僕はこれが当サイトで扱う初めてのフランシス・コッポラ作品だと気づいて、実は少々驚いている。逆に言えば、このサイトが開設されてからの5年間とは、フランシス・コッポラの新作が発表されなかった5年間と言える。確かに途中「地獄の黙示録・特別完全版」(2001)が発表されはしたが、あれは到底新作とは言い難い。コッポラと言えば一時期アメリカ映画をリードする存在だったはずだ。それが一体どうしてこうなってしまったのか?

 先日のアカデミー賞授賞式では、愛娘ソフィアと共に脚色賞プレゼンターとして壇上に上がったコッポラ。だがこの時はあくまで、「ロスト・イン・トランスレーション」でオスカー初の女性監督賞候補者ソフィアの父親としての存在に甘んじていた。司会のビリー・クリスタルには、娘が映画を撮っている傍らコッポラがやってた事と言えばワインづくりだけ…みたいなオチョくられようだ。この人の昔を知っている人なら、コッポラがそんな程度の映画作家とは認められないけどね。

 コッポラと言えば、何と言っても「ゴッドファーザー」(1972)のコッポラだ。相次いで発表された「カンバセーション/盗聴」(1973)、「ゴッドファーザーPART II」(1974)で飛ぶ鳥落とす勢いだった彼。時の人気監督ピーター・ボグダノヴィッチ、ウィリアム・フリードキンとディレクターズ・カンパニーを旗揚げしたのもこの頃だ。その後すぐにボグダノヴィッチとフリードキンは失速し、ディレクターズ・カンパニーは雲散霧消したものの、コッポラだけはその勢いを弱める事がなかった。自らの会社アメリカン・ゾエトロープで「地獄の黙示録」(1979)の準備を進め、今度はスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、マーティン・スコセッシら新たに台頭してきたニュー・ハリウッドの面々の親玉的存在として、アメリカ映画に君臨する事になる。このように映画の斜陽から立ち直って以降のアメリカ映画最前線に、常に立っていたのがコッポラだった

 アベル・ガンスのサイレント大作「ナポレオン」の復元上映(1980)やら、黒澤明復帰のキッカケとなった大作「影武者」(1980)制作の後ろ盾とか、本業以外の活躍も目覚ましかった。「地獄の黙示録」の制作が長期化・泥沼化の様相を呈して来た時も、必ずやまた一線で輝かしい活躍を見せてくれるとの期待を抱かせた。

 そして実際に、完成した「地獄の黙示録」はその期待に応える作品だった。出来については賛否両論あったものの、カンヌのパルムドールを取ったことはさておき、映画ファンだったら無視できない巨大な作品立ったことは言うまでもない。

 何よりコッポラが単なるヒットメイカー以上の存在だったのは、この人がどこまでも作家性ある作品をつくっていた事による。それは彼の最大の成功作「ゴッドファーザー」を見ればよく分かる。長くアメリカ映画の興行成績トップを守り通してきた「風と共に去りぬ」(1939)を抜き去った…そんな大ヒット映画にも関わらず、作品はどう見ても大人の作家映画。これ以降アメリカ映画興行成績トップの座に入れ替わり立ち替わり君臨した作品群を見てみれば、そのあたりはハッキリしてくる。「ジョーズ」(1975)、「スター・ウォーズ」(1977)、「E.T.」(1982)…それらの内容をくさすつもりは毛頭ないが、いずれもイベント・ムービー…どちらかと言えば若年層や子どもやファミリー層向けにアピールする作品ばかりだ。大人向けの骨太ドラマは、実は「ゴッドファーザー」以降「タイタニック」(1997)に至るまで現れない。しかも「タイタニック」ですらSFXを大幅導入したイベント・ムービーの色彩を持っていた。ハリウッド製ヒット映画は、「ゴッドファーザー」以降は子供向けへの傾斜をどんどん強めていく一方だった。大衆娯楽映画の世界で、あくまで大人の映画の作り手として真っ向勝負した映画作家としては、コッポラが最後の人となったのだ。

 ところがそんなコッポラの「作家性」こそが、その後のコッポラの足を引っ張っていく。それがゾエトロープでつくった次の作品「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)だ。

 ラスベガスを舞台に中年男女の恋の行方を描いたミュージカル仕立ての作品。これをまさに往年のミュージカル同様に、すべてスタジオ内のセットで撮影した。一方でビデオやエレクトロニクスの最深テクノロジーを大胆に導入。この新旧折衷の強引さ、それを力業でやってしまうのがコッポラたる所以だ。

 だが「ゴッドファーザー」「黙示録」のコッポラがミュージカル仕立てのロマンス映画とは、ファンならずとも戸惑う方向転換だ。「巨匠」コッポラがロマンス映画だからね。それに所詮は…と言っては申し訳ないが、他愛のない小ぢんまりした話のはずなのに、スタジオに大セットを建造。そこにハイテクの導入…とはあまりに器がデカ過ぎた。このため映画は不発。資金回収もおぼつかず、ゾエトロープも傾いた。

 映画そのものについては、僕は案外嫌いではない。愛らしい作品だ。だが、それと裏腹のやたらデカい構えが、どうもチグハグな印象を与える映画でもあった。そもそも興行的大成功を収めるような話でもないしね。これに何であれほど巨額の資金を投じてしまったのか、正直言って僕も理解に苦しんだ。そしてこれ以降、コッポラは慢性的な経済上の苦境に陥る事になる

 この作品は、コッポラが元々持っている体質を明らかにしたようなところもある。どうもコッポラは、どこかアンビヴァレンツに引き裂かれる矛盾した要素を抱え込んだ作家らしいんだね。

 他愛のない可愛らしいお話に超大作の器。作家主義なのにオールド・ファッションな映画づくり。大衆娯楽映画を大風呂敷広げてつくろうとしながらの、進み過ぎている前衛指向。語り口を重んじる脚本家上がりなのに、映像に耽溺するビジュアリスト。何より革新的映画製作を標榜していたコッポラが、オール・スタジオ撮影のミュージカル風作品ってあたりが矛盾以外の何モノでもない。この時期コッポラはゾエトロープのために撮影所を買い取り、俳優やスタッフを丸抱えにして契約するような事もやっていた。それってすでに死滅した昔のハリウッドの、撮影所システムのモロ再現ではないか。そこに最新テクノロジーを導入して今に通用するモノにするという意図は分からないでもないが、やっぱりどうしたって矛盾がある事は否めない。そんな体質がうまく作用すれば「ゴッドファーザー」みたいな大成功をもたらすが、多くはその矛盾に引き裂かれる。それでもその矛盾を矛盾のまま抱え込まざるを得ない…それがフランシス・コッポラという映画作家の本質らしいのだ。

 この後コッポラは自らの経済的苦境を打開すべく雇われ仕事をしながらも、彼らしい作家性を満たす作品を模索していった。雇われ仕事の中には「ペギー・スーの結婚」(1986)、「友よ、風に抱かれて」(1987)、「ドラキュラ」(1992)、「ジャック」(1996)などの「らしくない」作品群もあれば、彼ならではの持ち味を見せた「コットンクラブ」(1984)、「タッカー」(1988)などの作品もあった。だが、どれもこれも往年の元気は見られない。フランシス・コッポラ・プレゼンツ作品としても映画に精力的に関わってはいたが、その内容はどんどんお寒いものになっていった。中にはディズニーランドのアトラクションとしての立体映画、マイケル・ジャクソン主演の「キャプテンEO」(1986)なんてシロモノまである。

 さんざやらないと言っていた「ゴッドファーザーPART III」(1990)にまで手を出すに至っては、さすがに僕も驚いた。映画そのものは、やっぱりコッポラは「ゴッドファーザー」だよな…と思わせる出来映えで、今のところ最後のコッポラらしい堂々たる面白さの作品となりはしたが、それでも金のために手を出した苦しさは否めない。それに、結局コッポラは「ゴッドファーザー」しかないのか…って印象も与えちゃったしね。もうちょっとこのあたりまで来ると、金になれば何でもやるのかという気にさえなってくる。もちろん商業映画の世界はそれでいい。だけど一時はタンカを切りまくっていたコッポラだけにねぇ。ハッキリ言って寂しかったよね。

 現在までのところコッポラの最後の監督作品は、ジョン・グリシャム原作の「レインメーカー」(1997)って事になるのだろうか。ベストセラー作家グリシャム原作、当時旬のマット・デイモン、クレア・デーンズはじめ錚々たるキャストの大作とは言え、何となく違うんだよね。実際映画もコッポラ作品の意匠はほとんど感じられない作品だった。こうなっちゃうと「過去の人」扱いも無理ないところかなと感じずにはいられない。実際、みんなもう「過去の人」だと思ってるんだろうね。

 

前哨戦としての青春映画姉妹編「アウトサイダー」

 さて今回の「ランブルフィッシュ」(1983)は、まさにコッポラが経済的苦境真っ直中で金稼ぎと作家性の両立を必死に模索していた時期の作品。ただ、この映画を説明するには、これのすぐ前の作品「アウトサイダー」(1983)から説明しないといけない。この両作品、実は同じS.E.ヒントンという女性作家の原作によるもの。で、見事なまでに「姉妹編」としての性格を持っているのだ。

 S.E.ヒントンって作家の事は僕はまったく知らなかったが、向こうでは青春小説の大家として知られているようだ。

 まずはこの両作品の話は「アウトサイダー」制作のニュースから僕の耳に飛び込んできた。アメリカのある高校で、生徒たちが愛読書「アウトサイダー」映画化に相応しい監督として、コッポラを指名したと言うのだ。おそらくは学校で面白がって投票でもやったんじゃないかと思うが、その署名運動だかクラスルームの結果だかを知ったコッポラは、これをマジで受け止めたらしい。信じられない話だが、彼がこの声に応えて本気で映画化に乗り出したというのが事の発端だ。

 意地悪く考えてみれば、コッポラはこの時何としても興行的な成功作が欲しかった。高校生の愛読書「アウトサイダー」の映画化は、確実に金になるオイシイ仕事だったと言える。元々一作目からやりたくなかった「ゴッドファーザー」に手を出した事も思い出して、高校生から指名までされたなら…とやる気になった経緯は分からないでもない。

 でも、さすがに腐ってもコッポラと思わせるのは、彼がこの映画化に集めた若手俳優たちの顔ぶれだ。マット・ディロン、ダイアン・レイン、C・トーマス・ハウエル、マルフ・マッチオ、ロブ・ロウ、エミリオ・エステベス、パトリック・スウェイジ…そして泣く子も黙るトム・クルーズ。中にはいつの間にか姿を消してしまった奴もかなりいるが、それでもこの後数年間はアメリカ青春映画の中で中核を担ったヤング・スターばかり。みんな後で考えてみると、この「アウトサイダー」で見出されていたんだよね。このあたりコッポラならではの手腕と言わざるを得ない。

 コッポラはこうした将来のスターを見出す眼力がある。「ゴッドファーザー」ではアル・パチーノ、ジェームズ・カーン、ロバート・デュバル、ダイアン・キートンらが世に出た。ここに「PART II」でのロバート・デニーロ、「PART III」でのアンディ・ガルシアも加えれば、「ゴッドファーザー・サガ」がアメリカ映画にどれほど多くの恩恵を与えたか計り知れない。

 この他にも「地獄の黙示録」でのマーティン・シーン、ローレンス(ラリー)・フィッシュバーン、フレデリック・フォレストあたりまで考えると、コッポラの俳優を見る目の確かさが伺える。「アウトサイダー」は、まさにそんなコッポラならではの作品と言えるのだ。

 ただし、僕自身はハッキリ言って「アウトサイダー」には少々失望したのを白状しなくてはならない。配役表がググッとせり上がって、スティービー・ワンダーが歌う「ステイ・ゴールド」が流れるオープニングは、「地獄の黙示録」でドアーズの「ジ・エンド」とヘリによるナパーム投下を鮮やかに合体させて「つかみはオッケー」だったコッポラならでは…と興奮したよ。だけど、本筋が始まると意外に古くさい青春映画の常道そのままだったんだよね。若者たちのケンカの描き方あたりには、「ゴッドファーザー」以来のパンチが効いていたが、それでも何となく古くさい。つまりはいかにも凡庸だ。平凡なありきたりの青春映画。この映画は好評で迎えられヒットもしたが、僕はコッポラが青春映画を新しくするのでは…と期待したせいか、ちょっと肩すかしをくらった気がした。

 ところが間髪置かずに、この「アウトサイダー」に次いでS.E.ヒントン原作の青春映画を撮っていると知ったから、僕はブッたまげたわけ。

 確かに「アウトサイダー」はこの時期のコッポラにしては興行的成功を収めたようだ。そうは言っても従来のコッポラ作品より制作費が格段に安かったって事もあったんだろうけどね。そんな訳で、僕はコッポラが味をしめてまたやったのか…と思ったわけだ。それと、コッポラが修業時代にロジャー・コーマンの下で映画を撮っていた事も大きかったに違いないと思ったんだよね。

 ロジャー・コーマンってのは、とにかく低予算で映画をつくりたがった人だ。セットをつくったら同じセットでもう一本、ロケに行ったらロケ先でもう一本。こうして予算を浮かして、少しでも多く映画をつくるというのがモットー。たぶんこの両作をつくった時のコッポラには、そんなコーマンイズムが蘇っていたんだと思うよ。

 それが証拠に、キャストすらマット・ディロン、ダイアン・レイン、そしてトム・ウェイツまでダブってる。余談ではあるが、この二本とも娘のソフィアが出ているんだよね。そんな訳で、またまたお手軽にやろうとしてると思っちゃったわけ。

 ところが「ランブルフィッシュ」について、コッポラは妙な事をコメントしてるではないか。

 「アウトサイダー」は、言わば青春映画の「ゴッドファーザー」。それに対して「ランブルフィッシュ」は、青春映画の「地獄の黙示録」だ…。

 どちらかと言えばオーソドックスな大河ドラマ形式の「ゴッドファーザー」。それに対して「地獄の黙示録」は、どこか前衛的な実験精神が横溢する作品だった。だとすれば、「ランブルフィッシュ」はあのコッポラの実験精神がまたしても爆発している映画なのか?

 

青春という季節に誰しも陥る矛盾と凡庸さ

 確かに「ランブルフィッシュ」は、もう一つの「アウトサイダー」を期待すると面食らう作品だ。

 退屈な田舎町を舞台にして、ケンカに明け暮れる出口の見えない若者を描いたという点では一致する。だが一致するのはそこまで。まずは視覚的に大きく違う。こちらは1960年代以降珍しい、全編モノクロームの作品だ。

 しかも語り口まで大きく違う。ここでのモノクロはありがちなノスタルジーをかき立てるために使われてはいない。画質はあくまで硬い。オープニングや劇中のところどころには、空の雲がすごいスピードで飛び去ったり、日差しがアッという間に変わっていったりという超低速度撮影が行われている。そして夜間撮影での異常に光と影を強調する照明。ハッキリ言って昔のドイツ表現主義…などを彷彿とさせる映像だ。しかも町には不自然なほどスモークがたなびく。この映画は視覚的にリアリティを意図していない。むしろ様式的に描いた絵が連発する。

 劇中でも学校の時計のそばに、主人公の恋人ダイアン・レインが挑発的ポーズで寝そべるといった幻想が登場。そして全編のハイライトは、水槽の中に泳ぐランブルフィッシュのパート・カラー映像だ。モノクロの中に、この魚だけをカラーにして見せるショットはメチャクチャ印象に残る。おそらくはコッポラの師匠・黒澤明の「天国と地獄」がヒントになっているんだろうが、ともかくこの魚のショットは妙に心に残る。

 さらに今回再認識したが、音響効果が秀逸なのだ。さまざまなノイズがひっきりなしに聞こえてくる。それが主人公たちのささくれ立った気持ちであるかのように、あっちこっちでカチャカチャカリカリとドルビー・ステレオで聞こえてくる。そんなサウンド面を彩るのは、元ポリスのドラマー=スチュアート・コープランドによる硬質な音楽。これも音楽と言うより音響効果スレスレだ。確かコープランドの映画音楽は、これが最初だったはず。ここにコープランドを起用…というのは、なかなか凡人の思い付く事ではないよ。

 とにかくこんな調子で、映像も音響も凝りに凝っているのだ。主人公のマット・ディロンと兄のミッキー・ローク、さらに主人公の親友ヴィンセント・スパーノが繁華街に繰り出す場面では、主人公の酔っぱらった気分をうまく映像で体感させてくれる。これは見た当時えらく感心した覚えがあるよ。

 そう。実はこの「ランブルフィッシュ」、僕は公開当時劇場で見ている。そして、「ゴッドファーザー」の面白さを堪能し「地獄の黙示録」のすごさに圧倒された僕だが、一番好きで気になるコッポラ作品と言えばこの「ランブルフィッシュ」だと思い続けているのだ。今回たまたまこの作品のDVDを手に入れた僕は、ワクワクして久々の鑑賞に臨んだわけ。で、やっぱりこの映画は一筋縄ではいかない作品だった。

 さっきキャストが「アウトサイダー」と大幅にダブると書いたけど、今回新たに起用された俳優たちもスゴい。ヴィンセント・スパーノはジョン・セイルズの「ベイビー・イッツ・ユー」(1983)が忘れられない俳優で、この後もタヴィアーニ兄弟の「グッドモーニング・バビロン」(1986)があった。そしてコッポラの甥のニコラス・ケイジ。ラリー・フィッシュバーンとデニス・ホッパーは「地獄の黙示録」からの登板だ。「アウトサイダー」にも出ていたトム・ウェイツは、「ワン・フロム・ザ・ハート」での音楽担当の縁だろう。

 こうした親類縁者やご贔屓俳優を多用するのもコッポラらしい。「アウトサイダー」に引き続いて出演のダイアン・レインなんか、惚れ込んじゃったあげく「コットンクラブ」にまで起用しているほどだからね。

 マット・ディロンの連続起用はどうしてか…とハタと悩んじゃったけど、それもこの映画での彼を見ればおよそ察しはつく。あのグチャグチャとした口跡、フテぶてしい態度…ひょっとしてコッポラは、「ゴッドファーザー」「地獄の黙示録」で連続起用した怪優マーロン・ブランドの、若き頃の姿を二重写ししていたのではないか。コッポラって絶対ブランドの個人的ファンだったはずだもんね。

 個人的にはリチャード・ドナーが唯一商業性無視でつくった佳作「サンフランシスコ物語」(1980)のヒロイン、ダイアナ・スカーウィドの登場が嬉しい。彼女この後はどうなっちゃったか分からないけどね。

 こんなメンツを見てみれば、「ランブルフィッシュ」がただの青春映画に終わらない事は一目瞭然だ。何たってデニス・ホッパーが出てるんだよ。この時はまだ本格的復帰前だろうから、飲んだくれの落ち目の男はシャレにならなかったけどね。

 そして誰よりもミッキー・ロークだ。この後「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)やら「ナインハーフ」(1985)で大ブレークするロークの、これがたぶん最初に目立った映画だろう。確かにコッポラの見る目は正しかった。今では落ちぶれ果てちゃったけど、この映画でのカリスマはハンパじゃないからね。

 映画は生き急ぐ若者たちの出口のないような心情を、台詞ではなく映像で見せようとしているかのようだ。モノクロなのはロークが色盲という設定ゆえだが、彼の色盲には意味がある。世界が他の人々と違った見え方をしている男の胸の内を、ヴィヴィッドに表現しているのがこのモノクロだ。彼が自身を狂人と自称するあたりを思い出していただきたい。彼はそんな世界との折り合いのつかなさ、あるいは他の連中に見えないモノが見えてしまった憂鬱を象徴する存在だ。

 一方、弟のディロンはあまりに純粋単純イノセントで、純粋過ぎてバカがつく。兄貴に憧れても到底なれない。劇中何度も「人を信じすぎる」ところを見せて、それで足下をすくわれたりする。

 この兄弟どちらも、ある種青春時代の若者の心情だろうと僕は思う。僕にはもう失われてしまったものだが、この映画を見るとあの頃を思い出したりする。あの頃というのは、自分が他者と違っててどこか異常で世間と折り合いがつかないと悩んでみたり、逆に自分が恐ろしく凡人で愚鈍でマヌケに思えたりするものだ。あるいはどんどん時が経って自分の置かれた場が変化する事に焦り狂うかと思えば、逆にイヤになるほど死んだような退屈さに煮詰まってウンザリしたりする。何もかも先の事が透けて見えて希望が持てなくなると同時に、実は将来真っ暗闇で骨の髄まで怖くなる。矛盾と言えば矛盾。だけどホントにこうだった。若い頃はホントにこうだった。そんなどっちつかずの宙ぶらりんな気持ち自体が、常に不安のタネだった。

 だけど、これって実は今でも何ら変わってないのかもしれない。世慣れていろいろ経験したつもりが、実は何も分かってなかったりする。ただ、そんな不安を押し隠している、そんな分別だけがついている。そして、その事自体を自分も忘れた気持ちになっている。でも、実は矛盾はいまだに解消されてなんかいない。ホントはまったくもって成長なんかしていないのかもしれないんだよね。少なくとも僕はそうだと思う。

 おそらくコッポラもそこに気づいて、だからS.E.ヒントンの青春小説を立て続けに映画化したのかもしれない。

 実は「ランブルフィッシュ」も、僕が記したストーリーを見てもらえれば分かる通り、青春物語としての本筋は凡庸だ。でも、青春ってものは凡庸なものだろう。たぶんみんなが同じように思っているモノなのだ。違うのは、それぞれがみんなそれを自分だけのモノとして持っていること。だから中味は同じでも、その実感は人それぞれのオリジナルなものなのだろう。

 そしてストーリーが凡庸という意味では、「ランブルフィッシュ」も「アウトサイダー」と何ら変わりない。コッポラは「アウトサイダー」は言わば雇われ監督の延長で、原作ファンの気持ちを活かして忠実につくったのかもしれない。だけど、それではこの実感を描ききれなかった。そんなコッポラの作家的欲求が、この「ランブルフィッシュ」をつくらせたとは言えまいか。さまざまな技巧を凝らした末に、誰しも抱く凡庸な青春像をオリジナルな実感に叩き直す。リアリズムを排して見せていくのは、あくまでそんな若者たちの「自分の」目線で見せようという意図なんだろう。そこにコッポラの最大のモチベーションがあったのではないか。

 この映画のエンディング・クレジットの終わりには、彼の兄オーガストへの献辞が登場する。どうもコッポラもまた、この映画のマット・ディロンのように兄への葛藤を抱えていたようなのだ。だとするとこの映画の物語は、いかに一見凡庸なものに見えようとも、あくまでコッポラにとっては実感のあるオリジナルなものだったのだろう。

 そして何より、そんなこの映画の主人公たち…さらには青春という季節を通り過ぎる人々の胸の内をよぎる心情は、コッポラには人ごとでなかったに違いない。どっちつかずで宙ぶらりんな不安…それは作家的に常に矛盾を抱え続けて来た、コッポラその人の軌跡とピッタリ重なり合うではないか

 だとしたら…こんな事を言うのもおこがましいが、コッポラの思った事も僕と同じなのかもしれない。

 自分はちっとも成長してない、あの頃の宙ぶらりんさから解放されてない…と。

 

 


Rumble Fish

(1983年・アメリカ) ゾエトロープ・スタジオズ製作 ユニバーサル映画

監督:フランシス・フォード・コッポラ

製作:フレッド・ルース、ダグ・クレイボーン

脚本:S.E.ヒントン、フランシス・フォード・コッポラ

出演:マット・ディロン、ミッキー・ローク、ダイアン・レイン、デニス・ホッパー、ダイアナ・スカーウィド、ヴィンセント・スパーノ、ニコラス・ケイジ、クリストファー・ペン、ラリー・フィッシュバーン、トム・ウェイツ、ソフィア・コッポラ

2004年3月20日・DVDにて鑑賞


 

 

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