「椿三十郎」(黒澤明監督作品)

  Sanjuro

 (2007/12/24)


 杉木立の中にぽつんと建つ古い神社。今その中で、9人の若い侍たちが何やら思い詰めた表情で相談をしている真っ最中だ。

 「とにかく、叔父は話にならん!」

 そう語るのは一同のリーダー格である井坂伊織(加山雄三)。実は彼らは藩のお偉方の汚職に気づき、それを告発しようと血気にはやっているところ。そこで井坂言うところの「叔父」こと城代家老の睦田を後ろ盾にして、この汚職を暴こうと思い立ったわけだ。

 だがこの睦田は人は良さそうだが昼行灯のような人物で、いかにも万事に疎そうだ。井坂はまず汚職を告発しようという若侍たちの意見書をこの睦田に見せたが、睦田は意見書をビリビリっと破ると、とんでもない事を口走るのだった。

 「人は見かけによらないよ、危ない危ない。第一、一番悪い奴はとんでもない所にいる、危ない危ない」

 そんなわけで叔父が頼りにならないと分かった井坂は、今度は大目付の菊井の元にこの話を持ち込んだ。菊井は若侍たちにも人望のある、見るからに立派な人物だ。井坂から事の次第を一切合切聞いた菊井は、「よろしい、若い人たちと一緒に立ちましょう!」と快諾。それを聞いた若侍たちも「さすが菊井さんだ!」「これで千人力だ!」と大ハシャギ。井坂からここまでの経緯を聞いた若侍たちは、この寂れた神社の建物の中で思わずワッハッハッハと大笑いだ。すると…。

 「ア〜ッハッハ〜。ふあ〜あ…っと。…ちょっと待ちな!

 アクビに続いてデカい声が聞こえて来て、思わずギョッとする若侍たち。奥の暗がりから彼らの前に現れたのは、一人の無精ヒゲの素浪人(三船敏郎)だ。

 これまでの話を聞かれたか…と一触即発ビリビリの若侍たちだが、素浪人は頭から湯気を立てそうな若侍たちを、まずは「馬鹿野郎」と一喝して冷水を浴びせる。さらに余裕で大あくびをかますと、何ともカッタルそうな様子で話し始めた。「いいか、オレはその城代家老も菊井って奴のツラも知らねえ。しかし知らねえから見た目で惑わされることもねえ。オレに言わせりゃ城代家老はなかなかのタマだぜ。そして…早い話が、大目付の菊井って奴が黒幕かもしれねえぜ」

 何とも不愉快な指摘をされて、思わずいきり立つ若侍たち。だが素浪人は平然として言葉を続ける。「人は見かけによらねえぜ、危ねえ危ねえ」

 そう、確かに城代家老の睦田はそう言っていた。しかも「一番悪い奴はとんでもない所にいる」とさえ言っていたのだ。こう指摘されてしまうと、さすがの若侍もグウの音も出ない。結局、素浪人の言い分に納得せざるを得なくなるが、そうなると改めて自分たちの抜き差しならない状況に気づく若侍たちだった。

 「しかし、大目付とは今夜ここで話し合うことにしてきたんです」

 これには素浪人も、思わず目をむかずにはいられない。「な〜にぃい?」

 慌てて立ち上がった素浪人は、建物の壁に駆け寄って節穴から外を覗く。案の定だった。外には大目付が放った刺客たちがワンサカ集結中。さらに素浪人は建物の四方を見てみたが、すでに神社は完全に取り巻かれた状態だ。「すっかり取り囲みやがった、アリの這い出る隙間もねえや」

 こうなると思い詰めた若侍たちは一斉に刀を抜いて、悲壮感タップリに戦うことしか頭にない。これにはさすがに素浪人も見かねて、声を荒らげずにはいられない。「まだバカな事をし足りねえのか! まぁ、せいぜいみんなくたばって、菊井の奴を喜ばせるこったな」

 すっかり困惑する井坂は、まるで指示を仰ぐかのように素浪人の顔を見る。「しかし、こうも取り囲まれてしまっては…」

 すると素浪人は、若侍たちにこう言い放つのだった。「ここはオレに任せな」

 古い神社の周辺は、二重三重に追っ手が取り囲んでいた。建物の中の様子を伺っていたこの連中は、意を決すると大声を張り上げる。

 「大目付菊井殿の手の者である。神妙にしろっ!」

 すると、建物の扉がゆっくりと開くではないか。のっそり姿を現したのは、もちろん例の素浪人だ。

 「うるせえな! 何でえ!」

 その様子を見て、おっかなびっくりながら建物に入って行く敵の手下たち。だがそんな連中を、素浪人は機嫌悪そうにつまみ出す。「オメエたち、人の寝ぐらに土足で入り込む奴があるか!」

 こうしてアッという間に連中を建物から放っぽり出した素浪人に、手下たちは剣を抜いて応戦しようとする。それを見るや素浪人は建物からずんずんと乗り出し、周囲に向かって言い放った。

 「面白え、やる気か。だが気を付けろ、今オレは、寝入りばなを起こされて機嫌が悪いんだっ!」

 こうして始まった大立ち回り。この素浪人の強いこと強いこと。次々飛びかかってくる敵の手下たちを、バッタバッタとなぎ倒す。たちまち叩きのめされた手下たちが、ゴロゴロとそのへんに転がるアリサマだ。

 「退けっ、退け退け〜いっ!」

 突然割って入った鋭い声に、その場の緊張が一気に解ける。その場に現れた声の主は、周囲の連中とは一線を画する殺気みなぎる一人の男(仲代達矢)だ。「この男を倒すには、かなり手間がかかるぞ」

 だが素浪人を見つめるこの男の表情は決して憎々しげなそれではなく、どこか不敵な笑みを浮かべていた。それはどこか一種の共感のようなものさえ漂わせていたのだった。「仕官の望みがあるなら、オレを訪ねて来い。…オレの名は、室戸半兵衛!」

 こうして連中は、まるで潮が引くように引き揚げて行った。それを待って、素浪人は建物の扉を閉じて奥の部屋へと入って行く。「もう、出てきてもいいぞ!」

 すると、床下から出てきた9人の若侍たち。こうして多少面白くない気持ちは感じていても、この得体の知れない素浪人に頭を下げない訳にはいかない若侍たちだった。

 「何とお礼を言っていいやら…」

 「礼なんかいいから、少しカネをくれねえか

 万事この調子。素浪人はカネをいくらか頂戴すると建物を立ち去ろうとするが、何か気になるところがあったか、扉の手前でふと立ち止まった。「しかしオメエたち、これからどうする気だ?」

 さすがに井坂たちは、先程の出来事でいいかげん目を覚ましていた。早速、城代家老の睦田に詫びを入れて、指図を仰ぐつもり…と速攻で答える。これには素浪人もご満悦だ。「聞き分けがいいな、いい子だ!

 こうして今度こそその場を立ち去ろうとした素浪人だったが、またまた何か気になったのか歩みを止めると、若侍たちの方に向き直った。「いけねえ…そうなると、その城代家老が危ねえぞ!

 どうも本当の黒幕らしい菊井は、すでに井坂が城代家老の睦田の元に直訴したことを知っている。しかも菊井は、この睦田が「一番悪い奴はとんでもない所にいる」と図星を指したことまで聞いているのだ。ならば菊井は睦田の身柄を押さえるに決まっている。それに気づいた井坂は歯ぎしりすると、自らの愚かさを責めさいなんだ。だが、他の仲間たちとて同じようなもの。「こうなったら、死ぬも生きるも我々9人!」

 すると、そんな若侍たちのやりとりを苦虫噛みつぶしたような表情で聞いていた素浪人は、ついにたまりかねて吠えた。

 「…10人だっ! テメエたちのやるこたぁ、危なくて見ておれねえや!」

 

黒澤自身ノリに乗った黄金期のエンターテインメント大作

 黒澤明の絶頂期はいつかと言えば、それぞれファンによって異論があろうかとは思う。中には「デルス・ウザーラ」(1975)を最も好きな映画に挙げる人もいるだろうし、「どですかでん」(1970)を最も黒澤明の本質が出た作品という人もいるだろう。黒澤自身は「乱」(1985)をライフワークと語っていた。だが、ごくごく一般的な見方で考えれば、黒澤明の全盛期は、おそらく「酔いどれ天使」(1948)から赤ひげ(1965)まで。つまり、黒澤明が三船敏郎とコンビを組んで作品を発表していたこの時期であることは間違いない。

 さらに細かく見ていけば黒澤が黒澤プロダクションを設立し、東宝と提携して作品を生みだしていた時期、悪い奴ほどよく眠る(1960)、用心棒(1961)、「椿三十郎」(1962)、天国と地獄(1963)、「赤ひげ」…の頃が、作品的にも商業的にも最も安定したパワーを持っていた時代だと思える。一作目の「悪い奴」こそ汚職告発という社会派テーマながら、内容は「ハムレット」に基本を置く復讐劇。後はどれもこれも文句なく娯楽味たっぷりな作品の連打だ。むろんその前から「七人の侍」(1954)の面白さには無類のモノがあったし、「隠し砦の三悪人」(1958)は面白さ「だけ」を追求した感がある潔い作品だった。だが、黒澤プロ=東宝提携時代の黒澤明は、まさにエンターテインメント映画の巨匠として君臨していた観がある。

 その中でもさらに…大ウケにウケて黒澤明に経済的な成功をもたらした作品はと言えば、何を置いても「用心棒」の名を挙げねばなるまい。

 そのインパクトがいかに大きかったかを挙げれば枚挙にいとまがない。燦然と輝く作品群を誇る黒澤=三船コンビの作品群だが、三船はこの「用心棒」の素浪人・三十郎役でベネチア映画祭の主演男優賞を獲得した。「用心棒」をパクったイタリア映画「荒野の用心棒」(1964)が生まれ、これがマカロニ・ウエスタンの世界的成功の発火点となった。ついでに言えば、この作品はクリント・イーストウッドの映画スターとしての出発点ともなったのだ。また劇画家のさいとうたかをは、この映画の影響で斬殺音の表現を工夫したという話を聞いたことがある。もちろん文句なしの大ヒットをかっ飛ばして東宝を大儲けさせたことは言うまでもない。

 「椿三十郎」は、そんな「用心棒」の続編、あるいは姉妹編とでも言うべき作品だ。

 この作品が、元々は山本周五郎の「日々平安」なる小説の忠実な映画化をめざしていたこと、そこでは無敵の三十郎どころか腕っ節は全く自信のない男が主人公で、ひたすら頭脳プレイで事件を解決していく話だったこと、黒澤がこの脚本を堀川弘通監督のために書いていたこと…は、映画本ならどれでも大抵書いているような有名なエピソードだ。ところが前作の大成功が忘れられない東宝はこの主人公を三十郎にして欲しいと言い出し、それで監督も黒澤になった…というのも有名な話。

 確かにこの映画、よくよく見てみると他の黒澤作品とは佇まいがチト異なる。それはキャスティングを見ても明白だ。三十郎に三船を置き、そのライバルというべき役に仲代達矢、さらに悪役陣に志村喬や藤原釜足を配置したあたりは従来の「黒澤組」らしいところだが、若侍役の中心に加山雄三田中邦衛を起用しているのは、当時人気だった「若大将シリーズ」からそのまま持ってきたようなキャスティングに見える。さらに押入れに閉じこめられる侍役には「社長」シリーズなどでの活躍が目立った小林桂樹…と、まぁこれだけ見ていると、さながら「東宝オールスター」的な布陣。実際に「椿三十郎」は1962年の東宝お正月興業だったのだから「東宝オールスター」のキャスティングも当然と言えば当然だが、黒澤作品としてはちょっと不思議な気もしないでもない。何だかやけにサービス精神が勝っている感じ。

 そもそも「巨匠」黒澤明がヒット作とはいえ続編を手がけるというのは、極めて異例のことだろう。確かに昔は「續姿三四郎」(1945)を手がけてはいるが、これは黒澤がまだ新人のぺーぺーの時期の話。ヒット作も続出し海外での名声も高くなった黄金期の黒澤が、いかに東宝からの要請があったからと言って、おとなしく言うことを聞くとは思えない。ひとつには黒澤プロダクションの経済状態も「用心棒」で大いに潤ったはずなので、ここでもう一儲けということもあったのかもしれないが、さすがにそれだけとも思えないだろう。やはり黒澤自身が、「三十郎」モノに大いにノリに乗っていたと考えるべきだ。

 そんなわけでこの「椿三十郎」、佐藤勝作曲のおなじみ「三十郎のテーマ」…あのズンズンチャッチャッズンズンチャッチャッ…という独特なリズムの曲をモチーフにした音楽からスタートすることからも、明らかに「続編」「姉妹編」としての位置づけは明らか。むろん三船のあのキャラクターも全く変わらない。劇中で名前を聞かれて適当な名前をでっち上げたあげく、「もうすぐ四十郎ですが」と余裕でかます楽しい場面も再び出てくる。完全にシリーズもののスタイルを踏襲しているのだ。「続編」としてはちょっと変だが、あくまで「姉妹編」として考えるなら、またしても仲代達矢が敵役になっているのも共通性だろう。

 さらに「椿三十郎」は、世界の映画界に与えた影響でも「用心棒」に匹敵する。ラストの三船・仲代の壮絶な決闘がそれだ。これ以降の日本の時代劇が血みどろになってしまったこともさることながら、「ワイルドバンチ」(1969)などサム・ペキンパーの流血描写から、キン・フー監督のショウ・ブラザース作品大酔侠(1966)が終盤で見せる悪徳坊主の血の噴出描写は、完全に「椿三十郎」の影響下の産物だろう。これ以前と以後ではアクション映画が変わってしまったという意味で、「椿三十郎」が映画史に与えた影響は絶大なのだ。

 ところで少なからず共通点を持っているにも関わらず、実は「用心棒」と「椿三十郎」との間には大きな違いが存在している。そして黒澤作品として考えた時、僕には「椿三十郎」のほうがはるかに面白い点を持っているように思える。

 例えば「用心棒」の時には当時緊張関係にあった米ソの冷戦構造に対する皮肉の意味があったなどと語られているが、今になってみるとそんな解釈は退屈なシロモノでしかない(誤解されると困るが、映画「用心棒」そのものは今でも大いに面白くエキサイティングだ)。そういえば「七人の侍」の時も、サムライと百姓の階級闘争がなんだらかんだら…と退屈な屁理屈がイヤになるほど並んだ。それと比べると、「椿三十郎」にはつまらない例えを持ち出す余地がない。作品の成立経緯からして一見娯楽を極めたように思える内容だけに、変な解釈が生じにくい。その代わり作品に充満しているのは、ピュアな黒澤テイストのように思える。黒澤映画のイズムが、120パーセント濃厚に立ちこめているように見えるのだ。

 ところで前作「用心棒」と「椿三十郎」との間には大きな相違があると述べたが、それは映画を一見すればよく分かる。

 「用心棒」は後にマカロニ・ウエスタンに焼き直されるくらい、西部劇臭が濃厚だ。そもそも敵役の仲代達矢が拳銃を持っているくらい、露骨に西部劇ムードを狙った作品だ。それに比べたら、「椿三十郎」はおなじみ日本の時代劇のテイストに忠実な世界を描いているように思える。城代家老に大目付、お家騒動に立ち上がる若侍…と、いかにもテレビの時代劇ドラマでも描いていそうな世界。そこに、あのウエスタンの世界からやって来たような三十郎が放り込まれる。だからやたらに時代劇的なお約束で固定観念に囚われた若侍が、徹底的にシビアで合理的な三十郎に大いに戸惑わされるというシチュエーション・コメディが成立するのだ。

 ただしここでは、シチュエーション・コメディという言葉は正確ではないかもしれない。シチュエーション・コメディならギャップを持った両者がそれぞれ歩み寄る結論でめでたく終わる。しかし「椿三十郎」では結論は歩み寄りの方向にはいかない。固定観念に囚われたあげく紋切り型の言動ばかりしている若侍の方が、終始一方的に断罪されるのだ。

 既成概念ばかりを後生大事にするこの若侍たちは、ご立派に見える人物を人格者に、貧相に見える人物を無能な人物に…と何も考えず見た目だけで判断して失敗する。自分たちより頭も切れれば度胸もいい、腕っぷしもメッポウ強い三十郎に対して初対面で「無礼者」呼ばわりする生意気さも滑稽なら、さんざ世話になっていながら真意を疑うあたりも愚かだ。敵の作戦をマトモに受け取って、まんまに罠にかかりそうになるアホぶりも相当なもの。それもこれも、しゃちこばった建前や既成概念ばかりを真に受けていて、自分の頭で考えようとしていないから墓穴を掘ってしまう。

 つまりこの作品は、昔ながらの決まり切った考え方…精神主義やら封建主義、日本の古色蒼然たる考え方に対する批判の映画なのである。

 しかし若侍たちは絶体絶命の場面に追い込まれると、圧倒的多数に対していきなり刀を抜いて応戦しようとする。多勢に無勢で絶望的状況にも関わらず立ち向かうのは、根性があって悲壮感たっぷりに男らしい考え方だと思いこんでしまう。ハッキリ言ってそれは無駄な行為なのに、立派だと思いこんだまま思考停止してしまう。だがそれは…どう考えても無謀で勝負にもなっていない状況下で、しかも何の見通しもなかったにも関わらず、ヤケクソな戦いをやめなかった何十年前かのどこかの国に似ている。ハッキリ言って勝とうとしてない。そうなった時には無意味な精神論と非合理的な戦略に終始したあげく、全員で思考停止してしまうという点がまったく同じだ。だから三十郎からこう言い放たれた時、若侍も我々も等しく冷水を浴びせられたような気がしてしまうのだ。

戦さごっこはやめな! …そんなにやりたきゃ、せいぜいみんなくたばって、菊井の奴を喜ばせるこったな」

 そして後に出てくる「本当にいい刀というのはサヤに入っているもの」という睦田の奥方のセリフも、まさにこの点を指摘する。

 最大限に合理的に考えて振る舞っている三十郎は、終始若侍たちの既成概念に凝り固まった言動をバカにしている。そして何より明快な行動で答えを出している。その意味で、三十郎こそはこうした既成概念から解き放たれた男だ。少なくとも観客の目からはそう見える。

 だが奥方からはそうは見えていない。ある程度は三十郎の行動の正当性を認め感謝もするが、その根本的な部分では懐疑のまなざしで見つめている。それが「あなたはよく切れるけど、本当にいい刀はサヤに入っているもの」というメッセージなのだ。

 まだ何かというと腕っぷしに頼る三十郎は、若侍たちよりはマシだが、本当の意味では時代劇的お約束から自由ではない。いや…マッチョな力こそが有効だと思いこんでいる点で、実は若侍と五十歩百歩と言えるかもしれない。

 最後の決闘の後で三十郎が苦渋の表情でその場を立ち去るのも、改めてその点を自覚したからなのではないか。

 

黒澤映画の特徴的スタイルからみた「三十郎」

 …ってなことは、実は全部、ドナルド・リチーというアメリカの日本映画研究家が書いた「黒澤明の映画」なる映画論を読めば書いてある。恥ずかしながら、ここまでの話に僕のオリジナリティーは皆無だ。しかし、全部正論だから変えようがない。その点でいけば、僕は椿三十郎」リメイク(2007)をつくった森田芳光と同じ意見を持つ。いいものはいい。無理に変えるこたぁない。

 正直言って僕の映画感想文はこのドナルド・リチーの黒澤論と、昔「スクリーン」で連載していた双葉十三郎先生の「ぼくの採点表」が下敷きになっていると言っていい。特にリチーの黒澤論は、映画を見た後なかなか言葉にならなかったモヤモヤした僕の思いを、スカッと文章で見せてくれた気がして痛快かつ明快だった。だからここでの感想も、同じにならざるを得ないのだ。

 じゃあ何でこんな感想文を書いたんだ…と言われれば、やっぱり僕は黒澤映画が好きだから。そして、そんなリチーの映画論に加えて、僕にも僕なりの言い分があったからだ。

 それはともかく、先に僕が“「用心棒」と「椿三十郎」は、大きな違いを持った作品になっている。”…と述べ、重ねてこの作品には“黒澤映画のイズムが、120パーセント濃厚に立ちこめているように見える”…と書いたのには、それなりの理由がちゃんとある。それは、黄金時代に限らずほぼ全フィルモグラフィーを通して一貫していた、黒澤映画の特徴的スタイルがここではかなり色濃く現れていたからだ。

 まず「師弟関係」の追求。青二才の若造が調子こいていてドツボにハマり、師となる人物の導きで成長を遂げる…という、ちょっと前までのトム・クルーズ映画のストーリーみたいな展開が、少なくとも「赤ひげ」までの黒澤映画では異常に多い。何しろデビュー作の「姿三四郎」(1943)からして「師弟関係」の話だ。

 「椿三十郎」でも、変則的な形ではあるが「師弟関係」は存在する。型破りではあるが強くて老獪な三十郎は、どう見ても若侍…ことに井坂の「師」と位置づけられることは間違いないだろう。この後、「赤ひげ」で三十郎こと三船敏郎と井坂を演じた加山雄三とがまたしても「師弟関係」を演じるあたりからして、その関係性は明らかだ。

 そしてもうひとつの黒澤映画の特徴が、「善悪の相似形」だ。

 戦地からの引き揚げ時にただ一つの財産であるリュックを盗まれたという点では同じながら、その後は刑事と犯罪者というように真逆の関係となった「野良犬」(1949)の三船と木村功。刑務所の面会所でたったガラス一枚を隔てて対しながら、立場は誘拐事件の被害者と加害者。事件の発端も貧しい側が豊かな側との「上と下」との関係をねたんだものだった「天国と地獄」の三船と山崎努。いずれも善と悪とを代表する人物が、極めて近く似た者同士として語られる。それはまるで鏡を見つめたように、ビジュアル的にも完璧なシンメトリーとして描かれるのだ。僕が香港映画インファナル・アフェア(2003)の元ネタが黒澤映画だろうと再三指摘しているのもそのせいだ。

 「椿三十郎」でも、正義の権化・三十郎と対立しながら対照的に近しい人物は一人いる。言わずとしれた悪の権化・室戸半兵衛その人だ。

 それが端的に分かるのは、あの衝撃の対決シーンであることは言うまでもない。

 まずは構図がハッキリそれを指している。シネマスコープ横長構図を最大限に生かして、左右対称に立つ三十郎と半兵衛は、まるで鏡を見ているように配置されている。これはどこか「天国と地獄」エンディングの刑務所面会シーンでの、三船と山崎努を思い起こさせる構図だ。そんな二人が何十秒も飽きもせずお互いの顔を見つめ合っているのは、まるで自分の心の中をのぞき込んでいるように見える。

 そして何より三十郎が半兵衛を倒した瞬間、三十郎自身が言い放つセリフがそれを言い当てている。「オレもこいつと同じ、抜き身だ!」

 そして、そこには従来の黒澤映画の「善悪の相似形」を上回るほどの、苦い苦い思いがあるように思われる。

 実は前作「用心棒」の時から、三十郎のキャラクターには興味深いものがあった。確かに素性も過去も分からない風来坊の素浪人でありながら、僕にはどうも何か訳ありのイメージがあったのだ。2作も映画で描きながら、黒澤はあえて三十郎の正体を明かさない。しかし、その手がかりは作品の中の言動に、断片的に現れているように見えるのだ。

 何より三十郎とは、言わば「偽善者」の正反対に位置する「偽悪者」である。

 劇中で押入れ侍が喝破するように、「わざと悪く言う」「わざと気に障る言い方で言う」ような男だ。それはある意味で屈折だ。一種のニヒリズムでもある。そして、なぜそんな言動をするようになったかを考えれば、おのずから三十郎の過去は透けて見えてくるではないか。

 結果的にいいことをしてしまうのに、あえていいことをしようとは言わない。あるいは正義の側に立つ人間にも憎まれ口を叩く。大してカネが欲しい訳でもないのに、カネのためにやったという振りをする。それはなぜか。なぜ善意の人間と見られたくないのか。

 それは少々飛躍した解釈をさせていただければ、彼が世の「善人に見える」人間や「善人ぶっている」人間、その安っぽさを苦々しく思っているからではないか。

 「偽善者」たちがもっともらしいキレイ事を口走っているのを不愉快に思い、「自分はそんな輩と同じになりたくない」と、わざと正反対の言動をしている。しかし実は世の人々はその「偽善者」こそを信じてしまうこともよく分かっていて、三十郎はそんな「大衆」にも絶望感を抱いている。だから人々と交わりたくない。そんな底知れぬ絶望感を持っていながら、実は心の底ではまだ希望を捨て切れていない。だから彼はイヤイヤな顔をしながら善意の関わりを持ってしまうし、頼まれもしない善行を行ってしまう。

 もっと言えば、まやかしの「善意」に目がくらむ連中ばかりでなく、ひょっとして自分の「偽悪」ポーズを見通してその底にある「善」を見いだしてくれる誰かがいるのではないか、誰かが自分の言っていることに共感してくれるのではないか…と、ひそかに心の奥底では思っているのかもしれない。

 そんな三十郎は、がさつな言動とは裏腹にかなりデリケートでセンシティブな人物のように思えるのだ。

  一方、三十郎とて最初から風来坊で天涯孤独な人だったはずはあるまい。しかもこれほどの頭脳と腕の持ち主だ。当然、どこかの藩に仕官していたのは間違いないはずだ。その場合、彼は一体どんな人間だったのか。そして彼の身に何が起きたのか。それが彼をしてドロップアウトさせ、その後風来坊としての道を歩ませたのだとすると、相当の事がなければいけないはずだ。

 しかも善行を施しながら自らの本名を明かすことを良しとせず、事が済んだら人々と交わることをイヤがるように、まるで逃げるかのように去って行く。すでに悪は滅ぼされて周囲は彼に助けられた人物たち、あるいは彼を崇拝する人々ばかりなのに…いや、むしろそれだからこそ…彼はいたたまれない様子で去って行く。これは一体なぜなのだろうか?

 僕はそのあたりの秘密が、実はこの「椿三十郎」に隠されていると考える。

 例えば黒澤作品の特徴のひとつ「師弟関係」が、その手がかりになるだろう。そこでは最終的に、「師」の志は教え子たちに引き継がれていく。「赤ひげ」で新出(三船敏郎)と最初は対立していた保本(加山雄三)は、いつの間にか同僚にこう言われるに至る。「オマエ、近頃話しぶりまで先生に似てきたぞ」

 そして教え子の姿が「師」に似てくるとすれば、「師」のかつての姿は教え子の「それ」であった可能性が高いのではないか?

 不正を許せない若き日の三十郎が、若侍たちのように決起したとしよう。だがそこに今日の三十郎のように強く賢い指導者がいなかったとしたら、彼は一体どんな事になっていたであろうか。彼は自分より力強く老獪な悪につぶされ、憤怒の中で命からがら逃げ出さねばならなかったはずだ。

 あるいは拳を上げることなく黙ったままかもしれないが、激しい恥と自責の念にかられてドロップアウトしたかもしれぬ。いずれにせよ人と社会に対するシニカルな視線を持ち、見てくれだけの「良さ」に惑わされる人々…それは自分の「見る目のなさ」かもしれないが…に苦々しい思いを抱いて、もっとしたたかに斜めに世の中を見つめていく術を覚えつつ、もう二度とそんな「俗世間」と交わらずに生きていこうと誓ったかもしれない。

 しかしひとたび過去の自分と似た境遇の人々を見たら、どうしても力を貸さずにいられない。まるで過去の自分を救おうとするかのように、彼はその行為に夢中になる。三十郎が異常なまでのおせっかいを若侍たちに対して焼いたのは、そんな背景があったかもしれないのだ。

 なるほど、これで出来た。確かにこれは「かくあったかもしれない三十郎」の物語だ。だが僕には、もうひとつの選択肢があるように思えるのだ。

 それは、黒澤作品のもうひとつ大きな特徴を見れば明らかになる。つまり「善悪の相似形」だ。

 もし三十郎がドロップアウトする原因が、もう少し年齢が上になってからと考えたらどうだ。ならばその時は三十郎自身が藩の要職にあったはずだし、これほどの頭脳と腕の持ち主なら、かなり重用されたはずだ。そんな藩には良からぬことを企む輩もいただろうし、ひょっとしたら好むと好まざるとに関わらず、そんな輩に使われる身になった可能性だってある。そんな時、三十郎には周囲はどのように見えただろうか。

 悪の陣営に仕える身となれば、持ち前の優秀さでキッチリ仕事するに違いない。だが心の奥底では、悪巧みする連中のゲスで卑しい品性を軽蔑せずにはいられない。だとしたら、「正義の人」となって上に反旗を翻してみるか。いやいや…彼はゲスな連中の「悪」を見抜けない、「見かけ」に惑わされてばかりのバカな善玉側も軽蔑しているに違いない。そんな愚かな連中に与するのはまっぴら御免。ならば自分は悪のさらに上を行き、連中に使われるフリをして利用させてもらえばいい。どうせ世の中、トクか損かだ。

 それって室戸半兵衛その人ではないか。

 「椿三十郎」全編で奇妙なのは、三十郎と半兵衛は対立する存在でありながら、お互いを敵視している関係には見えない点だ。確かにこの両者は、最初から直接利害関係があるわけではない。三十郎は半兵衛に何らひどい目に遭わされているわけではないし、半兵衛が敵陣営の人間だと知らされるのも、神社前での初対面後のことだ。

 もっと不思議なのは半兵衛の反応で、三十郎にはその場で手こずらされているはずなのに、味方の軍勢の攻撃をわざわざ止めさせている。しかもニヤリと笑みを浮かべて、最初から三十郎に対する好意を前面に出している。「貴公、なかなかやるな」…などという台詞は、剣豪同士が対立し合っていてもお互いを認め合うような、時代劇のお約束的要素ではある。だがここでの半兵衛の好意はそれを通り越して、三十郎に仕官のクチを世話してやるとまで言っているのだ。明らかに、三十郎を仲間に引き込みたいという意図がアリアリ。

 しかもそれは、三十郎が腕が立つから利用したいだけという訳でもないらしい。実際に三十郎が半兵衛を訪ねた時に、彼は実に楽しそうに「二人の計画」を打ち明けるのだ。「あとは、貴公とオレでよろしくやれる」「そういうわけだ」…。

 どうも半兵衛は自分の上の連中などどうなってもいいと思っていて、むしろ三十郎と「よろしくやる」方に夢中になっている。これは実に奇妙な話ではないか。

 では一方、三十郎の方はどうか。行きがかり上は若侍側についてしまったから、半兵衛と敵対してあれこれダマすことになったものの、彼個人には何の悪意もないように見える。それよりむしろ、一種リスペクトしているようにも見えるのだ。

 それは、ラストの決闘直前のやりとりにハッキリ出ている。さすがにコケにされて頭に来た半兵衛に、三十郎は「決闘などつまらねえぜ」と再三呼びかけている。それどころか「あれは仕方なかったんだ」などと謝ってもいる。心の底から半兵衛とは戦いたくないし、敵意も悪意もないと言っているのだ。これは他の悪党どもに対する三十郎の態度…いやいや、単に悪者側の家来だったというだけでバッサリ殺した連中に対する三十郎のクールな態度と比べて、あまりに違いがありすぎるではないか。

 それは何より、三十郎その人が自分で言っているように、「こいつはオレと同じ」だからだろう。

 そして…それは単にキャラクター的なことではなく、実際に似た人生行路を辿って来たからではないのか?

 過去の三十郎が現在の半兵衛と同じだったとしたら、三十郎は半兵衛の立場に共感を抱くだろう。三十郎が劇中で一度も半兵衛のことを「悪」だとも言わずモラル的に断罪しないことでも、それは裏付けられる気がする。彼は半兵衛を悪人とは思っていないはずだ。

 なぜなら半兵衛ほどの…三十郎と拮抗するほどの能力と人的パワーを持っていれば、こうなるのが当然だと思っているからだ。封建社会の常として上の連中には逆らえない。だが上の連中はゲスで卑しい。しかももっと情けないのは、そんな悪の正体が見抜けない善玉連中や大衆だ。ならば悪の上前をはねておいしく立ち回って、どこが悪いのだ。

 では、なぜ三十郎はそんな半兵衛に対抗する成り行きになり、最後に討ち倒さねばならなかったのか。

 ここで今一度、過去に半兵衛的シチュエーションになっていた場合の三十郎を想定してみよう。悪は見下げ果てた奴らで、善はあまりに無知で無力だ。だから当然のごとく悪の手助けをするフリをして、その上前をはねてやった。我ながらアッパレ。だが、その空しさを誰よりも感じるのも…善悪両陣営の愚かさを見下してきたはずの「頭一つ上」の三十郎ではなかったか。アホな連中の上を行っているオレ…のはずなのに、やっていることは同じ甘い汁すすり。どんなに正当化しても他人をダマしても、結局自分はダマせない。実は三十郎もう一つのドロップアウトの原因とは、ここにあったのではないか。

 むろんこうやって善悪両陣営の上を行ったつもりが、奢りと傲慢さが災いして墓穴を掘った…と、三十郎ドロップアウトのもう一つの原因をこう解釈する手もある。才人、才に溺れる…は世の常。むしろそう考えた方が自然かもしれない。

 だが三十郎ほどの人物なら、その愚劣さに自ら嫌気がさしたと考えるのが妥当ではないか。

 そんな封印して捨て去りたい自分を、半兵衛に再び見出してしまったのではないか。

 ならば三十郎は半兵衛を徹頭徹尾敵視は出来ないし、何とか決闘を思いとどまらせようとするだろう。そして説得が出来ないとひとたび悟ったら、その存在を地上から消し去るぐらい木っ端微塵、完膚無きまでに叩き斬ろうとするのではないか。あの壮絶な血の噴出は、そんな三十郎による過去の完全なるリセット=消去のように思われる。

 自分は優秀で、人より頭ひとつ上を行っている…と思っていた三十郎。しかしその実際はどうだったのか。その優秀さを、少しはマシなことに使えたのか。

 「オマエたちもサヤに入ってろよ!」と若侍たちに怒ったような口調で怒鳴る三十郎。その真意は、「いい刀」のつもりでサヤに収まらなかった自分に対する、痛恨と悔悟溢れる叫びなのだ。

 


Sanjuro

(1962年・日本)

東宝、黒澤プロダクション 制作

監督:黒澤明

製作:田中友幸、菊島隆三

脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明

出演:三船敏郎、仲代達矢、小林桂樹、加山雄三、団令子、志村喬、藤原釜足、入江たか子、清水将夫、伊藤雄之助、久保明、太刀川寛、土屋嘉男、田中邦衛、江原達怡、平田昭彦

2007年12月2日・DVDにて鑑賞

 


 

 

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