「スラム砦の伝説」

 
  (The Legend of the Suram Fortress)

 (2005/02/21)


 グルジアに古くから伝わる「スラブ砦」の人柱の物語は、多くの人々の創作欲を限りなくかき立て続けて来た…。

 

「プロローグ」

 角笛が置いてある。大きな毛皮の帽子を被った男が塀に囲まれた敷地にやって来て、そこに置いてあった角笛を吹く。角笛の音が高らかに鳴り響く。

 スカーフを巻いた女がいくつかの卵を差し出す。

 大きな毛皮の帽子の男は、牛に引かせた荷車を引っ張っていく。女たちが駆け寄ってくる。女たちは荷車に積んだワラの上に、自分たちが持ってきたいくつもの卵を置いていく。

 桶に入った水・砂・粘土、卵が揃った。そこに石のかけらとツルハシも置いてある。

 塀に囲まれた敷地で、帽子の男は集められた水や砂や卵を台の上にぶちまけ、ツルハシで卵を砕きながら混ぜ合わせる。

 王がいる。「私は王にして戦士。私は民と共に歩む」…そして砦の図面を掲げる。

 戦士たちが馬で行き交う草原を野焼きしながら、人々が地面にツルハシを振るっていく。

 足場が組まれた砦が、徐々にカタチになっていく。出来上がるかと思われたその砦は…しかし突然大音響と共に粉々に砕け散った…。

 

「トビリシ・南の門」

 一組の男女がいる。男はドゥルミシハン、女はヴァルドー…二人とも奴隷の身だ。だがドゥルミシハンはハシャいでいる。きらびやかな衣装を地面に広げてヴァルドーを呼ぶ。「王のために踊らねば。あの方は私を自由にしてくれた!

 だがヴァルドーは気が進まない。ドゥルミシハンが自由になった経緯もよく分からないし、何より彼がすぐに旅立とうとしているのが気に入らなかった。ドゥルミシハンはどこかで金を稼いで彼女を身請けしようと考えていたのだが、そううまくいくものだろうか。「私はどうなるの? 不吉な予感がするわ

 やがて王の宴席で舞う二人。そこに遠方から使者が馬に乗って駆けつけた。「スラム砦がまた崩れました! 尊い命がまたしても奪われています」

 それを聞いたヴァルドーは、みなの失望感を代表するかのように突然グッタリと倒れ込んだ。「また多くの命が…一体どうすればいいの?

 

「道の始まり」

 そんなヴァルドーを気遣うドゥルミシハンだが、旅立つ事に変わりはない。ヴァルドーは頑なに繰り返すばかりだ。「あなたは戻らないわ。行くなら行って!」

 こうしてドゥルミシハンは、奴隷時代から丹誠込めて育てた馬に乗って旅立つ。ところが彼の旅は早々に挫折した。王が放った使者が追いかけて来て、彼から馬を奪ったのだ。何のことはない。王は馬が欲しい一心で、彼を手放したのだ。「バカな奴隷め、うぬぼれるな!」

 原っぱに倒れて泣き崩れるドゥルミシハン。

 

「隊商の宿」

 たまたまその周辺には、旅から旅を行く商人たちの集団がやって来ていた。彼らは地面に絨毯を敷いてはある方向に向いて祈る、いわゆる異教の徒だ。そんな彼らを率いているリーダー格の男が、ドゥルミシハンを呼び止めた。「おい、こっちへ来い!」

 ドゥルミシハンの窮状を見かねて呼び寄せたこの男、異教徒かと思えば何と同じグルジア人だと言うではないか。その名はナダール・ザリカシビリ。「すべてを失ったという事は、完全な自由を得たということだ。わしもかつて、そんな自由を得た」

 それから始まる、この男の長い長い物語…。

 

「告白」

 父が亡くなった後で大公がやって来て、私と母親は召使いにさせられた。そんな大公の元にお客二人がやって来る。このお客二人は私を使って、ちょっとしたお楽しみに興じようとした。私にさくろの実を投げさせて、それを剣で真っ二つに切り落とそうという遊びだ。私がざくろを投げると、剣を振るって空中でザックリ。そのたびに、私にざくろのタネと汁が降りかかる。いいかげん耐え難い思いがしていたちょうどその時、大公はいきなり私と母に告げた。「オマエたちはこの客人に売り飛ばした」…と。

 こうして私たちは過酷な労働に駆り出され、母は死んでしまった。さすがにこれには大公も良心の呵責を覚えたか、私は母の亡骸を抱えて奴隷生活から解放される事になった。

 母の亡骸を弔った私は、再び大公の元を訪れた。手に大公への貢ぎ物を持って…そんな私を見た大公は傲慢にも笑ったが、この男が笑っていられたのも長い事ではなかった。次の瞬間に私の手の短刀が、大公のカラダに深々と突き刺さったのだ…。

 逃げて、逃げて、逃げて…。

 たまたま通りかかった旅の隊商に紛れ込み、服も言葉も、宗教さえも替えて逃げ延びた。そして商売にも成功した。

 だが今では、信仰を捨てた自分が許せない…。

 

「運命の道」

 一通り自分の話を話し終えた、かつてはザリカシビリという名のこの男…今の名前をオスマン・アガ…は、ドゥルミシハンに一緒に来るように誘った。そして服も馬も差し出した。「これを私に?」

 ドゥルミシハンは感激のあまり、オスマン・アガの本拠であるグランシャロまで同行する事にした。

 

「グランシャロ」

 そこは人々が行き交い、大いに栄える港町。海には大きな船が浮かび、毎日数多くの荷物が上げ卸しされる商売の街だった。初めて訪れた者なら、思わず我を忘れてしまうには十分な華やかさ…。

 

「結婚式と黒い歓喜」

 その街で知り合った女と結婚する事になるドゥルミシハン。その式の最中に、妻となる女は終始笑っていた。「何を笑っているんだ?」

 「オスマン・アガが十字架を渡すんだもの」

 自分が苦しむ信仰を捨てた痛みを、ドゥルミシハンには味あわせまいとするオスマン・アガの思いやりだったのか。だが当のオスマン・アガは、今日も聖母マリアの幻影に責められていた。羊とワインとパンのイメージ…。

 その頃ドゥルミシハンの婚礼は宴もたけなわ。集まった客たちの前で、血に染まった初夜の床の敷布を見せるドゥルミシハン。客たちはやんやの大騒ぎだ。

 そして妻はすぐに身ごもった。苦しんでうずくまる妻は、ドゥルミシハンにとんでもない事を口走る。「男ならズラプ、女ならグリスヴァルディという名前にしましょう」

 「グリスヴァルディ…どこでその名を? それだけはやめろ!」

 グリスヴァルディとはあのヴァルドーの正式な名。なぜ妻はそんな名を口走ったのだろうか?

 

「祈り」

 そのヴァルドーは、ドゥルミシハンが去ってから絶え間ない苦しみの中にいた。スカーフを羽織ると、あちこちへ出向いてドゥルミシハンの足取りを追う。だが、結果はいつも空しかった。

 「聖ニーノ様、お助け下さい」と、ヴァルドーは持ってきたハトを捧げた。

 「アンハンゲル様、遠方よりやって来ました」と、雄鶏を捧げた。

 「聖ダビデ様、苦しんでいるのです」と、羊を捧げた。

 だが、苦しみは止まない。そんな折り、祈りに向かう黒スカーフの女たちを目撃したヴァルドーは、同じように黒スカーフを手に入れて後を追いかける。

 

「女占い師」

 そこは、占い師の老婆の住まいだった。ヴァルドーはドゥルミシハンについて占いを頼む。占い師の老婆はうなるようにつぶやいた。「苦しい…苦しい悲しみだ」

 やがて桶にはった水に、愛しいドゥルミシハンの姿が映る。それは身ごもった妻を連れている彼の姿だった…。

 もはや望みは尽き果てたヴァルドーは、老婆に占い師になりたい旨を伝える。だが老婆は 「おやめ、もっと良い人生を歩むのだ」と彼女を拒む。それでもヴァルドーは一歩も退かなかった。

 「もう帰る所はありません」

 占い師の老婆はそんなヴァルドーを見つめながら、苦しそうにつぶやく。「胸が張り裂けそうだ…」

 そして苦しみもだえたあげく、占い師の老婆はそのまま息を引き取ってしまうではないか。どこからともなく現れた人々が形見分けをしていく中、呆然と佇むだけのヴァルドー。そんな彼女に、やって来た人々の中の一人が声をかける。「占い師になれ。占ってダマしてやれ。みんなダマされたがってるんだ

 こうして自ら占い師になったヴァルドーの元にやって来たのは、事もあろうに老婆に連れられたドゥルミシハンの妻ではないか。何と身ごもった子供の事について聞きに来たのだ。ヴァルドーは黙って彼女を占ってやった。「おめでとう、男の子です」

 そして彼女たちが帰った後で、お礼に置いていった果物をケッ転ばす。「こんなもの!」

 

「こっけいなパグパイプ吹き」

 こうして生まれたのが、その名をズラプという男の子。可愛い少年の彼に、パグパイプ吹きのシモンがいろいろな知恵や教えを授ける。「これはキリスト教の伝道師、グルジアの啓蒙家ニーノだ。それでもってこれが…」

 こうしてまっすぐに育っていくズラプ。

 

「罪の許し」

 オスマン・アガは貯めてきた財産から多くのモノを、「聖なる父」への贈り物として差し出そうとしていた。そんな彼の動向をコッソリ探っている人間も…。

 

「聖なる父と二度目の洗礼」

 オスマン・アガは、ここで再びキリスト教への改宗をしたいと願っていたのだ。司祭の前で跪くオスマン・アガ。「過ちをお許しください」

 「神は必ずオマエを祝福してくれるぞ!」

 

「遺言状」

 こうしてオスマン・アガは、いきなりドゥルミシハンに商売を譲ると言い出した。「今度毛皮が届いたら、オマエが好きなだけさばいてくれ」

 ドゥルミシハンは当惑して引き留めるが、もはやオスマン・アガの決心は揺るがない。「別れの時が来た。財産の半分はオマエにやる」

 

「夢と死の予感」

 それは夢だろうか現実だろうか。オスマン・アガは頭から布を被せられ、ロープを首に絞められて大勢の人々に引っ立てられる。彼らはオスマン・アガを引きずり回すと、彼を剣で一気に斬首した。

 

「愛の始まり」

 あのドゥルミシハンの息子・ズラプは、立派な青年になっていた。そして彼にも愛する娘がいた。「もうすぐマリクのお祭りよ、私はチョウになるわ」「じゃあ僕はキリギリスだ」

 「私はチョウに」「僕はキリギリスに」「私はチョウに」「僕はキリギリスに」…そんな他愛のないやりとりが延々と続く。

 

「王と民の遊び」

 王は苛立って声を荒げる。「今この国はどうなっておるのだ。本当のところを申せ!」

 こうして臣が一人ひとり発表していく。「わが国の砦はいまや一つひとつ再建されております」「すべて再建されております…たった一つを除いて

 そのたった一つこそ…問題のスラム砦だ。昔から、何度建ても崩れてしまう呪われた砦。何か手だてはないものか…。「女占い師に聞いてみましょう!」

 こうして祭りが始まった。高貴な者も貧しき者卑しき者も、等しく楽しむ祭りの日。ズラプもまた大いに楽しんでいた。そして父ドゥルミシハンに興奮を隠しきれずに告げる。「王に謁見されたんだ。王はスラム砦の事で頭を痛めておられた」

 だがドゥルミシハンは冷ややかにつぶやくだけだ。「あの砦はどうしても再建出来ないんだ。ムダだよ」

 だがズラプは王の言葉に刺激された事もあって、戦争の災いの事が頭から離れない。

 

「ズラプの描く襲来」

 羊のように大人しい人々が、襲いかかってくる敵軍勢に追い散らされるように逃げ去っていく。戦士たちは力尽きて倒れ、国は焦土と化していく…。

 

「時間の疾走」

 いつしか若い娘だったヴァルドーにも年月が流れ、その顔にしわが刻まれた中年の女となっていた。もはや占い師稼業も板についたもの。

 

「罪の繰り返し」

 迫り来る戦争の脅威に、思わず「家族をお守りください」と祈らずにいられないドゥルミシハン。だがその祈る相手は、今の彼が慣れ親しんでいる「アラー」の神だ。いつの間にか生来の信仰を捨ててしまったドゥルミシハン。

 それでも生活のためには働かねばならない。ドゥルミシハンは息子ズラプを商売のために旅に出す。「商売に励め、家族を考えろ、国の事も考えろ」

 そんな父ドゥルミシハンに、息子ズラプはつい頼み事をする。「出かける時に、僕のために十字を切ってくれませんか?」

 それを聞いたドゥルミシハンが思わず息子を突き飛ばしたのは、考えたくないし認めたくない「罪の意識」ゆえのことか?

 こうして出発したズラプだが、商売の出先で王の使節団と合流。彼らと共に女占い師の元へと出かける事になった。もちろん「スラム砦再建」の手だてを探るためだ。だがそんな彼らに、女占い師ヴァルドーは厳しく言い渡す。「オマエたち、みんな出て行け!」

 これにはムッとしながらも、渋々出ていく使者たち。付き合いでその場にいたズラプも一緒に外に出ようとしたその時…ヴァルドーは突然彼を呼び止めた。「オマエはお待ち!」

 そして部屋に彼一人を留めると、桶にスラム砦の土と水、そして民が出したお金を入れさせた。すると…そこにはリッパに再建なったスラム砦の姿が映し出されるではないか!

 「再建出来てる! やれるんだ!」

 だがそんなズラプにヴァルドーが持ち出した「再建の条件」は、実に恐ろしくも厳しいものだった。

 「背が高く美しい、青い目をした若者をそこに埋めなさい…」

 

孤高にして悲運の映画作家セルゲイ・パラジャーノフ

 僕がセルゲイ・パラジャーノフの映画を初めて見たのは、今から10年以上前になる。

 今はなきシネヴィヴァン六本木で、いきなり彼の作品「ざくろの色」(1968/1971)、「スラム砦の伝説」(1984)、「アシク・ケリブ」(1988)が3本連続で上映されたのは1991年のこと。だがその時にはまるで見たいという気持ちにはならなかった。結局僕がパラジャーノフ映画を見ることになったのは、そのシネヴィヴァンでの上映から1〜2年後。たまたま名画座に流れてきた「スラム砦の伝説」を、知人と見に行ったのが最初だ。

 ところが一旦見たらあまりのユニークさに驚いて、次々見ずにはいられない。結局、連続上映での3本と、たまたまレイトショーで上映された彼の長編デビュー作「火の馬」(1964)、それに何か別の映画の併映作品として上映された短編「ピロスマニのテーマによるアラベスク」(1986)まで見るアリサマ。一時期、僕は柄にもなくこの映画作家にえらく入れ込んでいた事があるんだよね。

 今回、たまたまデジタル・リマスターしたDVDが出た注1ので、いても立ってもいられずに買ってしまった。それくらい、パラジャーノフ映画はクセになる映画と言っていい。

 これだけ偉そうに言えばさぞかし詳しいだろう…と突っ込まれてしまいそうだが、実は情けない事に僕はパラジャーノフについて多くを知っている訳ではない。ともかく旧ソ連においてその作品の独創性が抜きん出ていて、それ故に当局から激しく迫害された映画作家…それがセルゲイ・パラジャーノフだ。

 と言っても、この人って何らラジカルな思想やら民主化の訴えやら…そういう政治的発言や活動をしていた訳でもないようだ。そもそも、そういう理屈っぽい事が性に合いそうには思えないキャラクターだと思う。それは後に説明するごとく、映画を見てもらえれば分かる。作品にも、何ら思想性やら政治性など見いだせないからね。

 ただ、とにかく映画としての表現が「とんがってる」。まぁ、一般的に言えば「前衛的」という事になるんだろうが、おそらくはパラジャーノフは自分を「前衛」などとは思っていないだろうし、実際に作品を見てみても「前衛」というのとはちょっと違う気がする。そもそも「前衛」だったら、この僕自身がついていけないだろう(笑)。ただ、他の映画作品とは恐ろしく異なる表現形式を持っているのだ。

 だから「なぜパラジャーノフが当局から睨まれたのか?」を、いろいろな資料やら自分なりの憶測も含めて考えてみると…他の映画のように「ストーリーを語る」ものとは程遠いスタイルが、いわゆる「社会主義リアリズム」とかその手のものから激しく逸脱してしまっていたのが問題とされたのかもしれない。ハッキリ言うと、作品を検閲したり審査するべき人間には、その映画が何を描いているのか分からなかったのだ。少なくとも、「革命を賛美」したり「革命に役立つ」ような作品でない事だけはハッキリ分かってしまった。…だから面白いのにネ(笑)。

 それと…これも後で詳しく述べようと思うが、彼の作品では旧ソ連中央=ロシアから見れば辺境の言語がしばしば使用され、お話そのものも主にコーカサスの国々(グルジアやアルメニアなど)を舞台にしたものとなっている。当然そこに出てくるのは、ロシアとは著しく異なった風俗習慣、衣装や美術だ。これはやっぱりソ連中央としてはやって欲しくはないだろう。緩やかに各共和国の自主性を尊重するというのはタテマエとしてあっただろうが、「ソ連」としての求心力の意味からも望ましくはなかったはずだ。

 またこの「辺境性」とも絡んでくるが、やたらと宗教的アイコンが登場してくるのも「共産主義国家」ソ連としては頭の痛いところだったに違いない。共産主義は宗教は認めないのがお約束。神様はたった一人…レーニンだけだからね(笑)。

 さらには…今回のDVDの映像特典としてパラジャーノフ夫人のインタビューが収録されているが、ともかくこの男は自由奔放で、ハタから見たら「変人」の類だったらしい。それくらいだからこそあれだけユニークな作品が生まれたのだとは思うが、周囲の人間は彼の気まぐれに相当悩まされていたようだ(笑)。それと同じくらい人間的魅力もあったというが、毎日付き合わされた夫人にとってはシャレになってなかったとのこと。だから本人に悪気はなかったろうが、当局の神経を相当逆なでしただろう事は想像に難くない。

 また、最初にパラジャーノフが国の内外で注目を集めた「火の馬」の時に、自由化を叫ぶウクライナの文化人や芸術家の一派がパラジャーノフを持ち上げた…という事もあったらしい。いわばこういう連中への見せしめ、一種の象徴として叩かれたという不運もあったわけだ。

 こうした訳でパラジャーノフは1964年の「火の馬」で大評判をとりながらも、以後まったく映画を撮れない状態が続いてしまう。1968年にやっとこ撮れた「ざくろの色」もボコボコな目にあって、再編集されて何とか1971年に公開。しかも何だかんだと難癖つけられて投獄されるという、ムチャクチャな状態に追い込まれてしまう。一体何がそんなにお上の逆鱗に触れたのかは分からないが、どうも彼一流の例の調子で当局を相当小バカにしてたらしい。そんな調子でパラジャーノフは創作の機会を奪われるどころか、まったく自由のない生活を強いられる事になってしまったのだ

 そんなパラジャーノフを取り巻く状況も、1982年にブレジネフ書記長が死んでからは徐々に変わって来た。こうして新作「スラム砦の伝説」がついに1984年に発表され、何とモスクワでプレミアショーまで行われるに至る。ゴルバチョフの書記長就任が1985年、彼による「ペレストロイカ」の提唱が翌1986年と来て、さらに自由度が増したパラジャーノフは早くも新作「アシク・ケリブ」を1988年に完成。いよいよこれから…というところで、長い獄中生活での疲労や衰弱が祟ってか1990年に亡くなってしまう

 その生涯に残した長編映画はわずかに4本。撮影出来ずに残った多数のシナリオの中には、何とあの「星の王子さま」の映画化という企画もあったと言う。ともかく映画作家セルゲイ・パラジャーノフは、徹底的に不遇の人であった事は間違いない。

 今回の作品について語る前に、パラジャーノフについて長々と受け売りのウンチクを並べて申し訳ない。だが、こうしたバックグラウンドを知った上で見れば、これらの作品の凄味がいやが上にも増すのは明らかだ。なぜなら度重なる迫害にも関わらず、これらの作品はノビノビと奔放そのものだからね。この大胆さはとても信じられないほどだ。

 日本では「火の馬」以降初めての本格紹介となったシネヴィヴァン六本木での連続上映も、このようにパラジャーノフ没後のこと。まさに悔やんでも悔やみきれないというのはこの事だ。その残念さは、実際の作品に接してみればすぐに分かる。

 

パラジャーノフ映画とは一体どんな映画なのか?

 ところで…その作品がどんなものかという事は、実は文章ではまったく表現できない(笑)。映画の周辺のゴタクをあれこれ語る事は出来ても、映画そのものは語るのが困難だ。

 実際のところ、映画というものは少なからず言葉で言えるものではない。それはパラジャーノフに限った事ではないのだが、それでもここまで徹底的に語るのが困難な映画も珍しい。まずはストーリーがあまり意味を持っていない。その強烈なイメージで見せる映画だから、ストーリーは映画のほんの一部分を形作っているに過ぎないのだ。もうこのあたりからして、文章で語るのがいかに難しいかがお分かりだろう。

 実際いろいろ書かれているパラジャーノフ映画のレビューを見ても、どれもこれも一体どんな映画なのか…分かるように書かれたものは皆無に近い。これではなかなか普通の映画ファンが、食指をそそられないのも無理はない。そこでここでは、出来る限りパラジャーノフ映画の特徴を具体的に語っていきたいと思う。

(1)珍しい風俗・習慣・衣装・美術

 この「スラム砦の伝説」はグルジアのお話。それ以外もパラジャーノフ映画は、アルメニアだったりウクライナのローカルだったり、言っては何だが「辺境」ばかりを舞台にして作られている。これはパラジャーノフがアルメニア人の両親の間で、グルジアで生まれたという事情によるものだろう。

 僕はこのあたりの「コーカサスの国々」については、自慢じゃないがまったく詳しくない(笑)。だが分からないなりにも、位置的にも文化的にもヨーロッパとアジア・中東との接点というか、非常に微妙なポジションにある国らしいという事ぐらいは分かる。民族的にも宗教的・文化的にも、ソ連=ロシアのメイン・ストリームとはかなり異なる。キリスト教と言っても他のそれとは様相が違うだろうし、そこにイスラム教も混在しているようだ。そのあたりのエスニック性、エキゾティック性は、映画全編に溢れんばかりに登場してくる。

(2)高い宗教性

 先に述べたような地域特性を持っているためか、その作品には宗教的なニュアンスがかなり強く打ち出されてくる。キリスト教とイスラム教との相克やらも題材に出てくる。ただし、それらは必ずしも我々の理解を超えているようなものではない。なぜなら、元々それらを観客に「理解」させようとしているかどうかも怪しいからだ。「理解」なんてしなくていいとさえ思っているフシがある。そもそもパラジャーノフ映画は、「理屈」の映画とは程遠いものなのだ。パラジャーノフ映画を理解しようなんて思わなくていい。逆に言えば、「理解できない」なんて恐れるには当たらないのが彼の映画だ。

(3)著しい記号性・象徴性

 そんな地域性やら宗教色やらが反映してか、映画にはさまざまな記号的アイテム、象徴…つまりは「例え」が登場してくる。宴の席に置かれたクジャクにはかくかくシカジカの意味がある、剣で割られるざくろの実にはあんなこんなの象徴が隠されている…云々ってなアレコレが、画面にふんだんに登場してくる。中には当然僕らに分からない類のモノも相当数あると思われるが、それらが分からなければ映画が分からないというモノでもない。先にも述べたように、パラジャーノフ映画で「理屈」を語るのはヤボだ。それらは決して完全に分からないものばかりではないし、もっとズバリ言うと分からなくても全然問題がない。見る側が受け取らねばならぬのは、実はそんなものではないのだ。

 この記号性や象徴性は、別に宗教的・風習的なモノだけには使われない。物語を語る意味でも、「何かに例えて」語られる事がしばしばだ。それらは見ていただければお分かりの通り、決して理解に苦しむような複雑怪奇なモノにはなっていない。むしろ表現上は、子供向けの紙芝居や人形劇に似ているかもしれない。

 元々物語性が乏しい上に、そのわずかな物語すら昔話や民話伝説の類だ。分からないようなモノではないし、途中で分からなくなっても困るシロモノでもない。ごくごく単純素朴なお話ばかりなのだ。

(4)「絵」のような「映画」

 先に述べた「記号」や「象徴」や「例え」をどうして「分からなくてもいい」のかと言えば、それらがその見たままだけでも十分楽しめるからだ。とにかく全カットが「絵」になっちゃっている。ワン・カット、ワン・カットが「絵」…とは映画でよく言われる事だが、文字通り本当の意味で全カットが絵みたいな映画って…実は世間で言われているほど多くない。パラジャーノフ映画は、間違いなくそんな「絵」みたいな映画だ。

 だが、まずここで勘違いしてもらっては困る。「絵」みたいだが絶対に「映画」だ。あくまで「映画」という形式でないと見れない「絵」だと言えばいいのか。

 それを証明するのが、パラジャーノフが遺した短編のひとつ「ピロスマニのテーマによるアラベスク」だ。これはグルジアの画家ピロスマニの作品を画面に映し出すだけのドキュメント作品なのだが、カメラワークやら構図やらダビングした擬音やらで、まるでそれらの映像にストーリー性があるかのように見せている。つまり「映画」みたいな「絵」を撮った「映画」…とでも言おうか。

 すごく簡単に言っちゃうと「チョ〜素朴なエスニックMTV」(笑)とも言える作品だが、ピロスマニの素朴ながら独特な「濃さ」を持った絵(イマドキの人ならアレを「ヘタウマ」ととらえるかもしれない)とパラジャーノフの映画センスが、絶妙にマッチした不思議な映画に仕上がっていた。ともかくこれを見ると、彼にとって「絵心」と「映画」が不可分の関係にあるのは間違いない。

 そんな訳で、ともかく筋書きなど読もうと思わずボケーッと見てみれば分かる。水野晴郎のテレビ映画劇場の解説じゃあるまいし、映画に必ず「現代社会の不安」とかを感じなきゃいけない訳でもあるまい。ただボケ〜ッと見て、「変わった映画だねぇ」って感想でもいいではないか。これはそんな映画なんだよね。

(5)華麗にして素朴という両立

 そしてそこで描かれる「絵」の面白さ。元々出てくるものが先に挙げた珍しい風俗習慣によるものなので、それでなくても興味深く珍しい。不思議さに目が惹かれる。しかもワン・カットが「絵」…と述べたように、構図も独特なセンスが溢れている。主にシンメトリー(左右対称)の効果が用いられ、特異な色彩センスの衣装、絨毯などの敷物、旗やノボリ、その他装飾品や調度品や骨董品がふんだんに登場する。それらは色合いもエスニックに大胆ではあるが、決して過度に煌びやかなものではない。中にはかなり時代物と見受けられるものも出てくるが、あくまで年期の入った土地の独自のモノという印象を与える。ピッカピカでギラギラしたものではなく、どこか素朴なものだ。

 撮影場所もおそらくスタジオは使用せず、セットも作ってはいないようだ。土地に残された遺跡やら古い建造物…それも崖に彫り込んだ住宅や寺院などに、カラフルな旗やノボリや敷物を配置して撮影したりしている。映画全編に、華麗と素朴の不思議な共存が図られているんだよね。

 

 …などなど、あれこれ書いてはみたものの、これではまったく映画の魅力を伝えていないと気づいた。これで映画が見たくなる奴がいたら、相当な変人だね(笑)。地域性が強くて物語性が乏しくて宗教色が強くて象徴性が高くて「絵」のような映画…。どう考えても最悪ではないか(笑)。だから今までパラジャーノフの映画を語った文章って、どれもこれもつまらなそうな訳だ。

 ハッキリ言おう。僕もちょっとお高くとまって文章を書きすぎた。パラジャーノフって、本当はこんなに敷居が高い映画作家ではないのだ。もっと「世界ふしぎ発見!」みたいなバカっぽくて大らかな映画なんだよ(笑)。もっと分かりやすく書くように努力してみるから、もうちょっとだけ僕と付き合ってくれないかな。

 

「スラム砦」の魅力をさらに具体的に検証する

 さっき「象徴性」とかいろいろ難しそうに言ったけど、この映画での豊かな表現って例えばこんな調子だ…。

 スラム砦が再建されている。足場も作られて、着々と工事が進む様子が画面に出てくる。だがそのスラム砦って、実は鏡に映した姿なんだよね。やがてドドドドッと大音響がダビングされて、スラム砦が映った鏡がバリッと砕ける。痛々しくひび割れた鏡に映るスラム砦も、当然のことながら砕けたように見える。こうして鏡を用いる事で、間接的にスラム砦が崩れてしまう様子を描いているのだ。つまりは「ものの例え」を絵で見せているわけ。CGを使わない特殊効果だ(笑)。

 こういう手法って、例えば日本の能などでもよく用いられるよね。何だか知ったかぶりで恐縮だけど、あえて言わせてもらえれば確かにそれが一番近いように思う。

 どんな出し物だったかは忘れたけれど、例えば巨大な化け物が建物の屋根に上って大暴れ…というような場面を例にとってみようか。もちろん演者が「化け物」役になって、大暴れの演技をする。だがそこでの演者は別に化け物のかぶり物を着込んだりはしない。普通の能役者の扮装のままで、「決まりモノ」として演じる。しかも「屋根の上で大暴れ」の演技は、その場に置いた木製の台の上でダダンダダンと力強く足踏みして表現する。これが今ちょうど話題にしている「象徴性」だ。「象徴性」とは別に難しい事ではない。その程度の事でしかないのだ。

 で、そんな「象徴性」が、パラジャーノフ映画全編に横溢している。

 それが何に近いかと言えば、「人形劇」を屋外で実際の人間を使って実物大でやっている…というニュアンスが一番近いだろうか。そうだ…繰り返して言えば、“パラジャーノフ映画はホンモノの人間が演じる原寸大の「人形劇」だ”と言えば、その「感じ」をお分かりいただけるかもしれないね。本当にそんな雰囲気の映画なのだ。

 僕が書いたこの映画のストーリーの、一番最初の部分「プロローグ」のあたりをご覧いただきたい。これは完全ではないが、映画の場面を自分なりに忠実に語ってみたものだ。これだけでも何となくこの映画の語り口がお分かりいただけるのではないかな?

 以下、この映画の特徴的な「絵」をいくつか紹介してみよう。

 まずは映画の最初の頃、「トビリシ 南の門」というエピソードの最後のくだり。僕のストーリー紹介ではこう書かれている部分だ。

 

 やがて王の宴席で舞う二人。そこに遠方から使者が馬に乗って駆けつけた。「スラム砦がまた崩れました! 尊い命がまたしても奪われています」

 それを聞いたヴァルドーは、みなの失望感を代表するかのように突然グッタリと倒れ込んだ。「また多くの命が…一体どうすればいいの?」

 

 画面では、ヴァルドーという女が失望のあまりグッタリ倒れると、その場に置いてあった大きな二つのツボ…というか、異常に巨大な徳利にしか見えないのだが(笑)…これが女とほぼ同時に「グッタリ」という感じで左右対称状態にゴロ〜ンと倒れるんだよね<絵1>。こう書くとちょっと笑っちゃうんだけど、そんな女とツボの倒れるタイミングから、その場の雰囲気が実にうまく表現されている。そこに居合わせた人々の気持ちが、同じようにガックリうなだれてしまったと見てとれるわけ。

 これって、やってる事は大したトリックでもテクニックでもない。むしろ素朴としか言いようがない。だが手法としては実に大胆。…これぞパラジャーノフのマジックなのだ。

 あるいは「グランシャロ」というエピソード。商業港として大いに栄えているこの街の様子を表現するくだりをご覧いただきたい<絵2>。実際の港の海面を背景に、二人の男がそれぞれの動作を行っている。この二人の男は左側が絶え間なく手旗信号を行い、右側がドンドコドンと太鼓を叩いている。二人の動作によって、グランシャロという港のにぎわいを表現しているわけだ。そして帆船の模型を二人の頭上にワイヤーで吊し、港に停泊する船を表現している。…実は二人の背景は実際の海なので、そこには現代のタンカーとか商業船が行き交っているのが見える(!)。でも、パラジャーノフはそんな事に一切お構いなしだ。そして昔の港の華やかさと賑わいは、二人の男と船の模型だけで十分表現出来ている。

 この「グランシャロ」エピソードの別のショットも同じようなもので、やはりワイヤーで吊った帆船の模型の下に、樽を転がして運ぶ男たちや荷物を背負う男たちを配置したりしている。これで港での荷物の揚げ卸しを表現しているわけだ。

 これらの「象徴性」が全然高級でもハイブロウでもないと、お分りいただけただろうか?

 僕が分かりやすくするために描いた絵はあくまで図解だから、絵としての見た目は美しくも何ともない。当たり前の話だが、実物は構図的にも色彩的にももっと吟味された絶妙な味わいのあるものになっている。ここではそこに配置されている要素だけを述べたという風に理解して欲しい。僕もあんな下手な絵がパラジャーノフ映画だと言うつもりはないからね(笑)。だが少なくともそれらの表現が、徹底的に簡素化・素朴化されている事だけはご理解出来ると思う。

 ここで挙げた例を見ても分かる通り、それらは最小限まで引き絞ることで表現を研ぎ澄ませるような、一種の「ミニマリズム」を極めるスタイルをとっている。ムダをそぎ落としているからこそ生まれるインパクトというか…そのあたりの佇まいは、先程例に挙げた「能」の表現みたいなものにも相通じるところだろうか。

 かといって、ストイシズム的にただひたすらにキリキリと切りつめられているのかと言うと、そうでもない。うまく言えないが…強いて言うなればドリフの「8時だヨ!全員集合」のコント用の舞台セットみたいに、わざと狙ったチャチさとボロっちさ、バカバカしさみたいな部分もある(笑)。

 チャチだのバカバカしいだの言っちゃうと、パラジャーノフ愛好家から怒られそう。でも本当だから仕方がない。ハッキリ言って笑っちゃう部分さえあるのだ。究極を極めていくような神経がピリピリした感じは微塵もない。もっと余裕とユーモアと大らかさがある感じ。イイ意味でのユルい隙もあるし…とにかくドカ〜ンと大きな「豊かさ」を感じるのだ。例えば馬を歩かせる場面があったら、途中で馬がとんでもない方向に歩いて行っちゃっても「ま、いいか」…ってオッケーにしちゃいそうな、いい意味でのアバウトさとでも言おうか(笑)。僕が先に挙げた2つの例でも、そんなアホらしさやバカバカしさが伺えると思う。

 特に色彩の点から言えば、むしろストイックでミニマルどころか「饒舌」で「過剰」と言ってもいい。そこに配置された旗やノボリや絨毯や人物の衣装やらは、何ともエキゾティックでカラフルだ。全体の素朴さ・単純さ・簡素さの中で、色使いのめくるめく奔放さが対照的に際だって見えるんだよね。

 それらは画面上ではわざと平面的な「絵」のように表現されるから、見ていて不思議な気分になってくる。構図的には、ピラミッドなどに彫り込まれた古代エジプトの象形模様や絵画などの印象に極めて近いかもしれない。あのぺっちゃんこな絵柄を脳裏に浮かべていただければイメージ的にはかなり似ている。だから出演俳優たちも、その顔をカメラに向かって斜めに向ける事はない。大抵が真っ正面か、あるいは真横に向けて出てくる。あの撮り方は「これは絵として撮ってるよ」…というお約束だ。

 さらに特徴的な例を挙げれば…「隊商の宿」のエピソードで、ドゥルミシハンという男が隊商のリーダーであるオスマン・アガに呼び止められる場面。ドゥルミシハンの背後にさりげなく十字架が屋根に立った建物を配置したりして、彼がキリスト教の世界から異教の世界へと越境する運命である事を暗示したりしている。まぁ、そんな調子で一事が万事、アレコレと画面のあちこちに「記号」や「シンボル」や「象徴」が隠されてはいるのだろう。だが、そんな事は先にも述べたようにどうでもいいのだ。

 こうしたパラジャーノフの映画を見ていると、人間のイメージの凄さや素晴らしさや自由奔放さってのは、あくまで人間の頭の中の問題なんだって気づかされるよね。だって彼はコンピュータもいかなるCG技術も使ってない。にも関わらずの、このイメージの奔流ぶり。翻って、僕らの周囲に溢れかえる「デザイン」やら「ビジュアル」とやらの何ともお寒い貧弱さを見てくれよ。人間の頭の中の想像力こそ最も大胆不敵なモノだ。…そう改めて気づかせてくれるのが、パラジャーノフの映画なわけ。

 とは言え、先にも述べたように決して敷居が高い訳でもなければエラそうでもない。どこかのセンセー方は高級なおゲージュツ扱いしたがって何かと神棚に上げようとするが、本当は先にも述べたように単純素朴な昔話みたいなお話。それをすごくカラフルに描いた、紙芝居や人形劇みたいな映画なのだ。

 なおつけ加えるならば、共同監督としてクレジットされているダヴィッド・アバシーゼという人物は、この映画にも出演している俳優でもある。元々がパラジャーノフの幼なじみらしく、この映画以外でも「アシク・ケリブ」で共同監督を務めている。ただ、パラジャーノフが創作上のイニシアティブを執っていることは、改めて言うまでもない。

 僕は結局パラジャーノフの長編映画をすべて見た事になるらしいが、その中でも一番好きなのがこの「スラム砦」だ。最初に見て衝撃を受けた…という個人的な思い入れがあるし、映画全体に漂うムードも気に入っている。オープニング・タイトルとエンディングに流れる民謡みたいな歌も忘れがたい。ポロンポロンとブッ壊れたウクレレみたいな弦楽器を奏でながら、女性の枯れた声で淡々と歌われるどこか哀しい歌。ハッキリ言えば、それを聞いただけで映画のお話なんぞ分かっちゃうんだよね。

 そして一連のパラジャーノフ作品の中では、比較的物語性らしきものが感じられるのがこの「スラム砦」。パラジャーノフ作品の魅力に初めて触れる方には、まずは抵抗の少ないこの映画から見てみるのが一番いいかもしれないよね。

 

<注1>

今回のDVDは一連の「RUSCICO・コレクション」シリーズの一環としてリリースされたもの。旧ソ連旧作をデジタル・リマスターした上で、数々の映像特典をも添付して発売するこのシリーズ。その画質・音質の良さは認めつつも、今回ばかりはひとつ文句を付けずにはいられない。何とセリフのみならずオープニングのクレジットのスタッフ・キャスト名までも、ロシア語のナレーションでいちいち読み上げているのだ(!)。しかもこれはDVDメニューで解除できない、元々の映画の音声にダビングされたもの。おそらく旧ソ連国内において、従来よりロシア共和国以外のマイナー言語のローカル映画は、すべてロシア語ダビングして公開していたのではないか。日本公開時にはすべて現地語オンリーで見てきただけにこの無粋さにはガッカリ。これについては関係者の猛省を促したい。

 

 

 

<資料>

CINE VIVANT NO.44「めくるめく美への耽溺・パラジャーノフ祭」シネセゾン発行

 

 

 



(The Legend of the Suram Fortress)

(1984年・旧ソ連=グルジア)グルジアフィルム 制作

監督:セルゲイ・パラジャーノフ、ダヴィッド・アバシーゼ

脚本:ラジャ・ギガシヴッリ

出演:ヴェリコ・アンジャパリッゼ、ダヴィッド・アバシーゼ、ソフィコ・チアウレリ、デドゥハナ・ツェローゼ、タマール・ツィツィシヴィリ、シラブ・キブシーゼ

2005年1月27日・DVD(「RUSCICO・コレクション」シリーズ)にて鑑賞


 

 

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