「浮雲」

  Floating Clouds

 (2006/06/26)


 昭和21年の冬、外地からの引き揚げ船に乗って、一人の女が東京の地に降り立った。その女、名をゆき子(高峰秀子)という。

 彼女はある男を訪ねて、彼の自宅へとやって来る。だが玄関先に出てきた彼の母親や細君(中北千枝子)は、当然の事ながら若い女の訪問を喜ぶわけもない。続いて現れたその男…富岡(森雅之)も、何となく冴えない表情だ。ハッキリ言って、ゆき子の訪問に当惑している様子さえ伺える。ゆき子がいくら再会を喜んでも、富岡は一向に乗っては来ない。

 何でも富岡は帰国してから役所の仕事を辞めたとのことだが、疲れた表情の理由はそれだけとも思えない。こうして二人で雑然とした焼け跡の闇市場までウロつくが、今ひとつ会話ははずまない。そんな富岡の態度を薄々感じながらも、ゆき子はついつい過ぎ去った甘い時間の事を考えてしまう

 それは戦争中の昭和18年、日本軍占領下の仏印(インドシナ)でのこと。ゆき子はタイピストとして、現地の農林省の支局に赴任した。内地はそろそろ戦局悪化の影響を受け始めていたが、ここ仏印はまるで別世界。温暖な気候と素晴らしい自然に恵まれ、現地に赴任していた農林省職員たちも、みな戦争がウソのような豊かな生活を享受していた。

 男ばかりの農林省の職員の中で、まだ若く美しいゆき子は紅一点として大歓迎を受ける。だがたった一人、技師の富岡だけはそんなゆき子に目もくれない。それどころか…夕食の席でゆき子と一緒になった富岡は、彼女のことを「本当に東京出身なのか、ナマリがあるぞ」とか実際の年齢より上に見立てたあげく「女の場合は年上に見られるってのは聡明だって事なんだ。若く見られようなんて愚かなことだ」などとチクチク言いたい放題。同僚の加納(金子信雄)が「この男の毒舌はビョーキなんです。気にしないでください」と取りなしたものの、あんまりと言えばあんまりな言い草に、ゆき子は食事の席を立ってしまう。だが富岡は、別段気にする様子もなかった。

 そんな翌朝、ゆき子は所長に呼びつけられて、富岡と同行するように言われる。恐る恐る近づいてくるゆき子に富岡は意外にも優しかった。

 「で、私は何をすればいいんでしょう?」

 「とりあえず、向こうまで見物でもしたらどうです?

 戦局は思わしくなかったが、ここ仏印では誰もがまだ何も気にする必要はなかった。具体的な仕事もそれほどなかった。だから、そんな物見遊山的な事が許されていたのだ。ともかくジャングルの奥に分け入って進むうち、二人は自然といろいろ会話を交わすようになった。その中でふとゆき子の口をついて出た言葉を、富岡は聞き逃さなかった。「加納さんって怖くて…」

 昨夜は紳士然として、富岡の毒舌をとりなしていた加納。だがあの後で加納は、酒に酔ってゆき子の部屋に現れたのだと言う。それを聞いた富岡の目が、思わずギラリと光った

 川を渡る時、足下が危ういゆき子の手をとって助ける富岡。だが勢い余って、二人の顔が至近距離に近づく。見つめ合う二人は、そのまま口づけを交わすのだった…。

 だが、戦争は終わってしまった。二人は今、荒廃した日本にいる。日本の東京の…焼け跡に建った安宿の一室にシケ込んでいる。

 「私をどうかしちゃって! 私をどうにでもしてしまって!」

 すがりつくゆき子だったが、富岡の反応は冷たかった。彼女をゆっくり引き離すと、沈痛な表情でこう語っり始める。

 「そんな昔の事を言ってみても…あれは夢だったんだ

 一足先に日本に帰っていた富岡は、すっかり態度を豹変させていた。先に日本に戻って妻との関係も清算してゆき子を迎える…それが富岡の約束だったのに、いざ帰ってみたら苦しい思いをさせていた妻に「別れる」とは言い出せない。「僕らはもう別れるより仕方がないよ」

 「あななたちはそれでよくても、私はどうなるの?」

 富岡がまるで「手切れ金」のように差し出す現金を突っ返すゆき子。だが結論は全く見えない。そして金を突っ返したゆき子ではあったが、いまだ終戦のショックから立ち直れない東京に、彼女の仕事のアテはなかった

 そんなある日、あてどなく闇市をウロつくゆき子に、いきなり声をかける男がいた。それは遠縁の義兄の伊庭(山形勲)だ。引き揚げて来ても実家に戻らないゆき子を「心配していた」と言う伊庭だったが、ゆき子はそんな伊庭にどこか皮肉っぽいまなざしを投げかける。それもそのはず、彼女はかつて伊庭の家に厄介になっていた時、夜這いをかけられ犯された過去を持っていた。だからこそ、ゆき子は逃れるように遠く仏印に向かったのだ。

 だが伊庭はそんなゆき子の気持ちを知ってか知らずか、ゆき子が伊庭の持ち物から布団を無断で持ち出した事をグチグチ。そんな伊庭に、ゆき子は悪びれもせずキツい言葉で応えるのだった。「布団が何よ。世間知らずの娘が親戚の家でキズものにされて…以前の私を返してもらいたいくらいだわ

 しかしタンカを切ったものの、ゆき子の暮らし向きは一向に良くならない。いよいよ食い詰めたあげく、バーの女給の仕事でも探そうかと街を彷徨う彼女。そこに、若い米兵(ロイ・H・ジェームス)が優しい笑顔で声をかけるではないか…。

 やがて雑然としたバラックだらけの街の中を、あの富岡が歩いて行く姿が見られた。彼が訪ねたのは、ゆき子が一人暮らす家。バラックもいいとこのボロ家から顔を出した彼女は、髪型といい化粧といい服装といいケバケバしく一変していた。そんなゆき子の姿に、富岡も愕然とせざるを得ない。室内にコタツ以外何もないような家。だがゆき子は努めて明るく振る舞った。「こんな家でも、私にとっては宮殿みたいよ」

 二人でコタツに足を突っ込みながらの久々の会話。ゆき子のこの転落ぶりを分かっていながら、「なかなか幸福そうにやってるじゃないか」などと相変わらずの口ぶりの富岡。そう言う富岡自身は仕事がうまくいかずに敗残者の悲哀を噛みしめているだけに、毒のある言葉を吐かずにいられない。

 そんな会話を交わしている間も、ゆき子を訪ねて米兵がやって来る。すると米兵を連れて、外に出かけるゆき子。中に取り残された富岡は、やりきれなさもひとしおだ。

 やがて、暗くなってから家に戻ってくるゆき子。実は富岡は手紙で窮状を訴えてきたゆき子のために、何とか工面した金を届けようとしたのだ。しかし、それは遅すぎた。結局のところ、ゆき子も富岡もお互いイヤミの応酬を続ける他はない。

 「ふん、日本の男ってみんな同じよ」

 そんなしょうもないやりとりをしながらも、今夜はここに泊まろうとする富岡。ゆき子はそんな富岡のウソを次々暴き立てる。「最初から泊まるつもりだった?…ウソをおっしゃい!

 突然の米兵の来訪からの連想が、富岡の欲情を刺激した。あるいは、捨てた女へのわずかながらの未練がくすぶった。…いずれにせよ、そんなくだらない理由で久しぶりにゆき子を抱いてみたくなったに違いない。ゆき子の指摘は図星だったが、へし折られた自尊心を決して見せようとしないのが富岡という男。そっくりそのまま憎まれ口を返すあたりもこの男一流の皮肉な性格だ。「また、こうしてたまには遊びに来てもいいだろ? 営業妨害かい?

 そんな富岡に、ゆき子は呪いの言葉を吐かずにはいられない。「それがあなたの本心なのね!」

 結局久々の再会も、散々な結末に終わってしまった。イヤミな言葉のやりとりのあげく、富岡はサッサとゆき子のバラックを後にする。彼が去ってしまった後でゆき子は「しまった」と思ったのか、慌てて飛び出して彼の後を追いかける。しかし街の雑踏の中に、富岡の姿はもはやどこにもなかった

 そんなゆき子のバラックの家に、あの伊庭が乗り込んで来たのはそれから間もなくの事。何とこの期に及んで、ゆき子に持って行かれた布団を取り戻そうというのだ。あまりのシミッタレぶりに唖然とするゆき子だが、伊庭は本気も本気。「どうした、商売に困るのか?」という言い草の無神経さも相変わらずだ。怒り心頭のゆき子は、コタツに使っているモノから押入に入っているモノまで、拝借していた布団をヤケクソで叩き返す。これならまだ富岡の方がまだマシだ。

 だから久しぶりに富岡から呼び出されるや、ゆき子は嬉々としてそれに応じた。世の中は平静を徐々に取り戻しつつあり、街中をインターナショナルを歌いながら行進する一団もいた。だが喜び勇んでやって来たゆき子に、富岡が持ち出したのはやっぱり「別れ話」。「こないだがあんな終わり方だっただろ? 一度ちゃんと話をつけなくては…と思ったのさ」

 こうして二人で東京の街を歩き出すが、どこに落ち着くという訳でもなくフラフラ行くばかり。

 「私たち、どこにも行き場がないみたいね」

 「よし、いっそどこか遠くへ行ってしまおうか」

 こうして二人が出かけたのは、群馬県は伊香保温泉。急坂にしがみつくようにつくられた温泉街だ。ここで旅館にシケこんだ二人は、昼間っからチビチビと酒を酌み交わす。

 「私はあなたとの事をスッカリ諦めてしまったの。こうやってたまに会えればいい。その方がいいわ」

 「僕は君と死ぬことを空想していたよ

 「偶然ね。私もこの前そんな事を考えていたのよ

 だがゆき子は、富岡の表情にいつもの皮肉っぽさがない事を見逃さなかった。彼一流のおトボケとは違って、その目にはいつになく本音の色が覗いていた。

 「あなた…そのつもりでここに来たの?

 だが、彼らは死ななかった。そして一晩で帰ると言っていたはずなのに、いつしか年を越しての伊香保滞在となった。久しぶりに二人の間に、暖かいものが通い合う気がする。

 そんなこんなしているうちに、元々が一泊のつもりだったから金が底をついた。そこで富岡は温泉街にある飲み屋にフラリと立ち寄り、そこで自分の腕時計をさばこうとする。その店の名は「ボルネオ」。そんなユニークな店の名が、南方帰りの富岡の心の琴線にわずかながら触れたのだろうか。

 案の定、店の主人・清吉(加東大介)もまた南方のボルネオ帰り。この男、富岡の舶来製の腕時計に惚れ込み、何と1万の値を付けた。そればかりか…同じ南方帰りのよしみとばかりに、富岡たちを自宅に招待したいと言い出す。むろんそれには何の異存もない富岡だが、同時に彼の目は清吉の女房に向けられていた。ポッチャリと肉感的で、まるで清吉の娘同然の不釣り合いな女房…その名をおせい(岡田茉莉子)という。

 「これも何かの縁」とばかりに清吉の家で飲み明かす富岡とゆき子。そのうち思わせぶりな目配せと共に、「風呂に入りたい」と言い出す富岡。すると、まるで「あうんの呼吸」のごとく「私がお連れします」と立ち上がるおせい。清吉とゆき子はまだ何も気づいていなかったが、部屋を出るや否やいきなりおせいを抱き寄せる富岡だ。その延長線上で、風呂でも慣れ親しんだ夫婦みたいな調子で振る舞う。挙げ句の果てに、おせいは富岡にとんでもない事を言い出す始末だ。「私、一人で東京に出て、ダンサーになりたいんです!」

 そんな振る舞いがバレない訳がない。お人好しの清吉は気づかぬままだが、ゆき子は翌朝早速ピ〜ンと来た。だが富岡は往生際悪く、あげくの果てには例によって例の如しの開き直り。「僕は神経衰弱なんだ。時々どうにも寂しくて仕方なくなるんだよ…」

 これを言っちゃあミもフタもない。せっかく久しぶりに心を和ませた伊香保の日々だったのに、最後の最後にこのテイタラク。さすがに情けなくなったゆき子は、泣いて富岡に別れを言い渡すのだったが…。

 

 言うまでもなく日本映画が誇る巨匠の一人・成瀬巳喜男の代表作。日本映画史の中でも金字塔的作品だ。

 ただし、これが「好き」かどうかについては、映画ファンの中でもかなり意見が分かれるかもしれない。いや、成瀬ファンの間ですら割れるかもしれない。

 何しろ男と女のどうにもならない関係が最初から最後まで延々ダラダラ続いて出口なし。ここでご紹介したストーリーもほんの前半部分でしかなく、この後も…富岡と上京したおせいが同棲ゆき子の妊娠と中絶追ってきた清吉がおせいを殺害ゆき子が伊庭の元に身を寄せる富岡の妻の病死で、ジリ貧の富岡がゆき子に葬式代を借りに来るゆき子が伊庭の金を持ち逃げして、富岡の元にやって来る…と、ザッとこんな具合。二人はどんどんどんどん煮詰まっていく。

 むろん破滅に向かうカップルを描いた映画など、映画史にいくつあるか分からない。例えばアレックス・コックスの「シド・アンド・ナンシー」(1986)などもそれだろう。だが「シド・アンド・ナンシー」の場合には、破滅に向かって突っ走っていく「疾走感」があった。それが逆説的に潔く感じられ、観客にカタルシスを感じさせていたのだ。アーサー・ペンの「俺たちに明日はない」(1967)だって近作韓国映画オアシス(2002)だって、アナーキーなカタルシスで観客の共感を獲得した。だが「浮雲」のカップルにはそれはない。ただ踏ん切り悪くウジウジとお互いをキズつけながら墜ちていく。

 爽快感もカタルシスもなしでズブズブに破滅に向かって墜ちていくお話と来れば、ハッキリ言ってウンザリする人も少なくないだろう。かく言う僕にとってこの作品は圧倒的に「買い」だが、ダメと言う人の気持ちもそれなりに分からないでもないのだ。

 何しろ主人公が主人公だ。腐れ縁そのものの富岡とゆき子はどうにもならないカップルであり、建設的なところも発展性もまるでない二人だ。確かに見る人によっては、かなりイライラを感じてもおかしくはない。

 富岡については、伊香保から帰った直後のヒロインゆき子のセリフとして実に的確な表現が出てくる。「あなたって怖い人だわ。自分の事だけが可愛いんだわ。見栄っ張りで、気が小さくて、気取り屋で…ズルさをいっぱい持っていながら、それを隠しているような人よ」

 だが富岡は確かにそのセリフの通りどうしようもない男であり、おまけにダメ男のくせに妙にモテるもんだから始末に負えない。実は仏印にいた時にすでに現地人の女中に手を付けていたらしい事が暗示され、ヒロインと関係を持った後も悪癖は止まない。他人の女房のおせいに目を付けて結局テメエのモノにしてしまう。しかもこの女、さんざ世話になった男の女房なのに手を付けるんだから、人としてちょっと神経を疑ってしまう。結果として逆上した亭主がおせいを殺すという暴挙に出てしまう訳で、その遠因を富岡がつくった事になるわけだ。ところが富岡はこれに懲りずに、行きつけの飲み屋の若い女の子にも色目を使っているから呆れ果てる。それでいて女房を捨てる事はできず、かと言って悪いと思っているのかと言えばさにあらず。ヒロインとの仲を疑う女房を平気で叱責、ロクに大事にもせずで最終的には病死させてしまう。見ていて不愉快な男と言われれば、まったくその通りだ。汚くてセコい奴のくせに、度胸もなければ悪者にもなりたくない男なのだ。

 だが富岡がすべての元凶であるにしても…実はゆき子の鬱陶しさも相当なモノだ。こんなどうしようもない男を思い切る事が出来ず、何度もつかず離れずを繰り返す。そのあげく「どうして私を連れて行ってくれないの?」などとすがってしまう。生活に困って米兵相手のパンパンになるのは致し方ないとしても、自分を犯した遠縁の義兄の世話にまでなる墜ちっぷり。イマドキのフェミニストでなくても、かなり苛立たされる人物像ではある。

 本来ならこんな非建設的で後ろ向きで自業自得な主人公たちと、そんな主人公を巡る物語にいい印象など持とうはずがない。だからこの作品についても、どうしようもない話と思っていいはずだ。なのに、僕はこの映画を見始めると目が離せなくなる

 確かに日本映画が誇る黄金時代の2人の大スター高峰秀子と森雅之が素晴らしいので、それだけで見入ってしまうという事はある。墜ちれば墜ちるだけ凄みのある美しさを放つ高峰秀子もさることながら、元来のダンディぶりをまたまた見せつける森雅之も、ひどい男=ダメな男なのにも関わらず魅力的だ。ただこれだけはハッキリさせておきたいのは…この映画が見応えがあるのは、ダメ主人公を魅力的な役者が演じて「魅力的に見せかけている」からではない…ということだ。

 特に高峰秀子は、この「浮雲」以前にも稲妻(1952)など成瀬作品への出演経験を持っているが、「浮雲」以降は名コンビとして「流れる」(1956)、「女が階段を上る時」(1960)、「放浪記」(1962)、「乱れる」(1964)、「ひき逃げ」(1966)などなど…と数多くの傑作・話題作で組んでいる。そのキッカケとなったのが、この「浮雲」の大成功と考えてもいい。実際それだけの素晴らしい結果を残してもいる。だが、その素晴らしさと、主人公の人間像に共感するかどうかとは無関係だ。

 実際、僕はこの主人公たちに好印象を持っているわけではない。それと同じように、作者である成瀬もこの二人に賛同などしていない。賛同どころか肯定も容認もしていない。作者は彼らを全く甘やかしてなどいないのだ。むしろ彼らのダメさを冷徹に見据え続けている。その厳しさが、この映画を鑑賞に値するものにしているのだ。

 そんな全編重苦しい雰囲気が充満し、暑苦しい独特の音楽が延々流れるこの作品。市井の人々の暮らしを題材に、男女の心の機微や哀歓に触れる作風は、まさに成瀬映画の王道そのものだと言える。ゆえに代表作との評価も間違いではないのだが、いろいろ成瀬映画を見ていくと…その一方で「浮雲」は成瀬映画では異色の作品であるとも感じられるのだ。

 実際のところ成瀬映画とは、大げささや「これみよがし」な描写とは無縁のところにある。むろん「浮雲」にもそんなケレンは見受けられないが、ユーモアのカケラもなく終始一貫重苦しいというのは、成瀬映画ではこの作品ぐらいではないか。成瀬映画とは…と言っても僕もそのすべてを見た訳ではないが…どこかユーモアがあったり軽みがある作品群なのだ。例えば夫が死んだり娘を手放さねばならなくなったり…と不幸の連続のはずなのに、どこか飄々とした味わいで淡々とお話が進むおかあさん(1952)などを見れば、その違いが如実にお分かりいただけるだろう。

 その点、成瀬作品で異例の重苦しさという点では、室生犀星原作の杏っ子(1958)も挙げねばならない。室生犀星本人を彷彿とさせる大作家(山村聡)の娘(香川京子)と結婚した平凡な男(木村功)が、よせばいいのに作家を目指してドツボにハマるお話。終盤など才能ゼロの木村功が荒れ狂って手がつけられなくなり、香川京子はただ耐えるのみ。誰もどうする事もできないし先の展望もない、確かに救いのない終わり方だった。だがこの作品の前半部分は、エンディングがまるでウソのような軽妙さ。見ていてビックリしちゃうような展開なのだ。だから映画が始まったとたんに重苦しくなる「浮雲」とは一線を画する。

 その意味で、「浮雲」は成瀬の代表作にして異色作…と言うことができるかもしれない。

 また「浮雲」が成瀬の代表作と言われるゆえんは、彼が得意とする林芙美子原作による作品の最高傑作である事に理由があるようにも思える。ただし、20世紀前半を生きた女流作家・林芙美子については、僕も詳しいとは言えない。せいぜいその自伝的作品「放浪記」の舞台版を森光子が長い間演じてきた…とか、そんな事しか知らない。だが成瀬は、この林芙美子原作とすこぶる相性が良かったらしい。成瀬が最初に林芙美子原作に取り組んだのが「めし」(1951)で、その成功から「稲妻」(1952)、「妻」(1953)、「晩菊」(1954)…と毎年のように次々映画化。「浮雲」は、成瀬による林芙美子作品の映画化としては5作目にあたる。結局この後はしばらく間を空けて「放浪記」(1962)を手がけて終わりとなってしまったが、それくらい成瀬映画の素材として林芙美子原作はピッタリだった。ピッタリだったからこそ「浮雲」ではそれが行き着くところまで行き着いてしまって…その後、林芙美子原作には「放浪記」以外タッチしていないという完全燃焼状態になってしまったのだろう。つまり「あしたのジョー」のエンディングではないが、「真っ白に燃え尽きてしまった」ように思える。

 ともかくこの映画の重苦しさ・うっとうしさは、成瀬にしても異例のモノなのだ。そして僕には、見るべきポイントが2つあるように思える。

 まずその1つ目については…映画が始まったとたん、東宝マークがスクリーンに映っている時にすでに始まっている。のったりゆったりとしたテンポで、打楽器を中心に演奏されるどこかエキゾティックな音楽。そう、主人公カップルが結ばれた場所である、「仏印」を思わせる南方風のサウンドである。一階聞いたら耳から離れない、何とも奇妙な味わいの音楽。斎藤一郎によるこの印象的な音楽が、映画のほぼ全編に繰り返し繰り返し演奏される。これは成瀬映画でもかなり異例の事ではないか。まったく…とは言わないが、映画の上映中はこの音楽がとぎれないような印象で延々流れているのだ。これは二人の甘い思い出…なんてモノではあるまい。まるで呪いか憑き物のように、戦後の二人の人生にべっとりこびりついて離れないとでも解釈すべきなのではないか?

 そして二人の恋の原点である「仏印」とは、太平洋戦争における日本軍の「侵略」の産物でもある。

 そこで彼らは、誰が何と言おうとも「イイ思い」をした。彼らの恋自体も、そのオイシサの一つだったわけだ。彼らの幸福は、言ってみれば日本の侵略戦争による犠牲を土台にして成り立っているのだ。

 もっと言えば…劇中では「内地はひどくなっている」という台詞もあるし、兵士たちもチラリと写っている。他の日本人たちだってそろそろツケが回って来てる頃なのだ。なのに、彼らだけは物見遊山で楽しくやっている。周囲の国々を踏みにじり、自国の国民すらそのリバウンドの犠牲になっても、テメエたちだけは一向に腹が痛まない連中もいた。彼らもまた、そんな「特権階級」の一員だったということだろう。

 だがその幸福感や輝かしさは、一生忘れる事ができない

 その後、復員してきた日本のメチャメチャな惨状を目の当たりにすればするほど、仏印での輝かしさが忘れられないのだ。それが忌まわしさを土台にしたモノであっても、オイシかった事を人間は忘れる事ができない。一旦味わってしまったら、人間はそれを取り戻そうと悪あがきをせずにはいられない。あるいは、その後の現実を「落ちぶれた」と思わずにはいられないのだ。そして、「あの頃に戻りたい」…とも。

 戦後もずっと…そして現在に至っても、日本が戦争で「善いことをした」と言い張ったり「間違ってなかった」と言いたがる人々がいるのは、おそらくこの「オイシサ」が忘れられないからではないか? それでなくても人間は、「自分は正しい」と思いたいものだ。アレもコレも全部肯定して、ついでにあのオイシサや輝かしさも取り戻したいと思うのは…ホメられた事ではないが人情というモノかもしれない。だが、それをやっている限りは本当の輝かしさを取り戻す事もできないのだ。

 実はダメダメ男の富岡ではあるが、彼はそんな忌まわしさに無自覚ではなかったはずだ。そのくらいの知性は幸か不幸か持ち合わせていた。だからこそ、彼は戦後復員してきて、農林省に辞表を提出している。「官吏でいる事がイヤになってね」…という台詞だけで片づけられているこの行為は、おそらく彼のそんな自己嫌悪によるものではないだろうか。そして「戦争中に内地でひたすら耐えていた妻に悪い」…と愛人であるゆき子を切ろうとするのも、富岡の「悪い奴になりたくない」「悪い奴と思われたくない」という「いい子ぶりっこ」なズルさを差っ引いて見れば、そんな戦争中のオイシサを断ち切りたいという気持ちの表れかもしれない。だとすれば、ただ戦争中にオイシサを貪りながら何の反省もなく、そのまま戦後に向かっていった連中よりはいくらかはマシだろう。

 だが彼が「マシ」なのもそこまで。やっぱりオイシサを知ってしまった身体は、もう元には戻らない。結局あの輝かしさオイシサを忘れる事ができず、ズルズルとゆき子との関係を続けてしまう

 実は劇中で富岡がゆき子にあんまりなイヤミばかり並べるのに、僕も最初は「???」と思った。なんてイヤな奴だと頭にも来た。だがよくよく考えればこの言動って、ゆき子が象徴するあの仏印のオイシサと忌まわしさを思い出し、そこに呪いの言葉を吐きかけているようなものではないか。実はそれをゆき子にぶつけるのもお門違いなのだが、彼としては他にぶつける先がないのでそうせざるを得ない…というところなのだろう。

 だが当然の事ながら、それで何かが良くなるわけでもない

 現に富岡は、本当に何をやってもうまくいかない。カッコよく「官吏なんて」と辞めてみたところで、その後どんな商売をやっても失敗ばかり。結局、はるばる屋久島まで飛ばされる羽目になる。別に屋久島をくさすつもりはないが、中央官庁に勤めていた人間から見れば、ズバリ都落ちもいいとこだろう。女絡みの事にしたって同様で、女房がいて愛人がいて、その他にも次々女に言い寄られて大変結構と言いたいところだが、これが本人としては針のムシロ。言い寄ってきた女の一人は亭主に絞め殺され、女房は病死…結局のところ、これも何をやってもうまくいかない。うまくいくはずがないし、うまくいくべきではないし、絶対にうまくいってはいけない。それもこれも、こいつの根本に呪わしくも忌まわしき仏印での「甘い汁」があるからだ。

 だが現実がうまくいかなければいかないほど、ますますその「甘さ」が忘れられなくなる…という悪夢のスパイラル構造も成り立つ。こう考えれば、この映画の「出口なし」状況が理解できるだろうか?

 一方では山形勲演じる伊庭のように、徹頭徹尾テメエの損得で動いて何が起きても恥じない男もいる。親戚の無力で無垢な娘をオノレの欲望のままに犯し、それを何とも思っていない男。思っていないからこそ、その当人をつかまえて「何で仏印に行ったんだ?」「なぜ親戚の家に帰らないんだ?」と平気で訊ねられるのだろう。この男には恥というものがないのだ。だからパンパンまで墜ちたゆき子の家に乗り込み、わざわざ布団を引っぺがす。ちょっと考えれば、そんな事ができる自分ではないと分かりそうなものだ。さらには新興宗教を興し、ウソ八百並べて信者から金を巻き上げるアリサマ。

 だがそれって…戦後ずっと「金が儲かりゃいい」「トクならいい」「テメエさえ良ければいい」と欲をムキ出しにしてきて、とうとう下品極まりない小泉時代にまで行き着いてしまった我々日本人そのものではなかったか。我々はついにここまで墜ちたと言うべきか。

 ある意味では、伊庭はオノレの欲望に忠実な人間だ。だが、勘違いしてもらっては困る。欲望に忠実…とは「本音で生きる」という事ではないかとイマドキの連中には言われそうだが、それってそんなイイ事では決してない。やりたい放題では「人間」とは言えない。腹が減ったら他者を襲って食いちぎる、欲しいモノがあったら弱い者から奪い取るというのは、ケモノのやることだろう。いや、ケモノと言っては当のケモノに失礼だ。とにかく、それは人間ではない「畜生」だ。戦後日本とは、結局のところそんな畜生どもの放牧場になってしまったのだ。

 だが映画はその俗物ぶりを容赦なく暴き立ててはいるが、ある程度諦めて見放しているようにも見える。欲望ムキ出しで恥知らずの奴や、そういう奴にたぶらかされ踊らされるバカ者はどんな時もどんな状況下でもいるし、それはどうしようもないと達観しているのかもしれない。

 むしろそれが悪であると分かる知性も恥もあって、どうすればいいのか分かっていたはずの人間、にも関わらず何もしなかったばかりか、一緒になって甘い汁をすすってオイシイ思いをした人間…この映画の富岡のような人物こそが、本当に罪が深いと言っているのだ。

 日本映画界が生んだ最大のダンディ…森雅之が演じる富岡は、そんな戦後日本のインテリの偽善を体現した人物だ。そして彼らは、それゆえに敗残していく。根っこにあの戦争があり、それを黙認し肯定し…しかも享受した。そんな罪を清算しないまま、上辺だけ繕って戦後を生き抜くなんて虫が良すぎる。それでは何もうまくいくはずない。いや、うまくいっちゃいけない…とこの映画は言っているのだ。

 では、ゆき子はなぜ富岡と一緒に堕ちていくのか?

 おそらく彼女は無邪気に無自覚に、南方の地での暮らしを楽しんでいた。それはやはり戦争というものに無邪気で無自覚だった、イノセントな日本の一般大衆を象徴しているのではないか。イノセント…ではキレイ事に過ぎるとあらば、「愚民」とハッキリ言ってもいい。だが無自覚だろうと悪意がなかろうと、彼女も自ら「それ」に荷担してしまった事に変わりはない。だからこそ、彼女は富岡と一緒に堕ちていくしかないのだ。

 だが今一度富岡に立ち戻ってみると…彼がここで体現しているモノは、それだけにはとどまらないように思える。富岡は戦後日本人全体や日本の知的階層を代表するだけではないと、僕には思えるのだ。

 戦争を起こした当事者であり、戦争から最も恩恵を被り、なおかつ面倒やツライ事やツケは全部女に押しつけて憚らない日本の男たち…カッコいい事や威勢のいい事やもっともらしい事を言うくせに実際はてんでだらしなく、悪者になりきる度胸も覚悟もないくせに汚い立ち回りだけはうまくて、口だけカッコだけで結局自分では何にもできず女に甘えるだけの日本の男たち…富岡はそんな日本「男児」全員をも体現しているように思えるのだ。

 よくよく見れば…テメエも戦争でオイシイ思いをしているしグズグズにだらしない人生を送ってはいるが、最後どうにもならない時には自分の身を墜とす覚悟があるゆき子=高峰秀子の方が、この一点においてはまだマシだ。富岡という男はそれすらできない。そういう意味で「浮雲」の富岡の男性像は、どこかテレンス・マリックがアメリカ揺籃期に取材した近作ニュー・ワールド(2005)におけるジョン・スミス(コリン・ファレル)のそれにも共通するかもしれない。ええカッコしいでもっともらしい事を言ってはいるが、結局は卑怯で無責任。そんな男性像だ。

 そして「浮雲」では、無責任かつ卑怯で非力な日本の男の罪を、徹底的に富岡に背負わせているように見える。それは、先の戦争の原因と戦後の日本に噴き出したさまざまな矛盾が、すべて日本男性の精神構造の歪みや脆弱さに起因している…と喝破する事でもある。日本という国や社会が、日本の男たちによって構築された「男性社会」であるからこその問題点である…と言い切る事でもある。マッチョに振る舞えば振る舞うほど、「男」の看板を立てれば立てるほど、むしろ言動から「男らしさ」が失われていく日本の「男」たち。「オレは男だ」と大見得を切れば切るほどセコく汚く卑怯に臆病になっていく…そんな日本男性の特質こそが、すべての災いの根本にあると言っている。しかもタチの悪いことに…それが直情志向型のマッチョ男や体育会系の筋肉バカ、みんな右へ倣えの「烏合の衆」男ならまだしも、「分かってる」はずの知的ダンディ・森雅之ですらそうなのだ…と言っている点。これがこの映画の最もシビアな点だ。

 その意味で、この作品の日本男性に対する絶望感の大きさは、ちょっと他には例を見ないのではないか。もちろんここで日本男性と総称する中には、これを書いている僕も入れば映画を撮った成瀬自身も入ってくる。決して対岸の火事でもなければ、テメエ一人だけ火の見櫓の上に乗っかって見下ろしている訳でもない。我々自身が忌まわしくも薄汚い存在なのだ。この映画の卓抜したところ…そして忌々しくも苦々しい点は、まさにそこにある。

 だが、主人公たちを日本人全体ととらえようと、日本の知的階層に限ろうと、あるいは日本男性の象徴と受け止めようと…実際の日本人は戦争の罪を自覚しようとも償おうともせず、開き直って戦後を生き抜いてしまった。そんな歪んだ土台の基で、新たな日本を築いてしまった。だからこそこの映画では、そんな戦後日本人のぶんまで主人公たちが罪を背負って堕ちていく。オレたちみんな、本当だったらこんな風にならなきゃいけなかったんだぞ…作者はこう訴えているように思えてならない。

 この映画は、だからこそ厳しく怖く感慨深いのだ。

 そして、厳しく見据えてはいるが…人ごとのように距離を置いてはいない。観客にとって主人公たちを対岸の火事とは思わせない核心部分。それがこの映画の見るべきポイントの2つ目…「恋愛の実感」だ。

 何でこんな男にいつまでグズグズ関わっているのか、何で別れようと思った女にまた会おうと思うのか…まったく発展性のない関係をダラダラ続ける二人に、観客の中にはかなりイライラをつのらせる人もいるだろう。確かに彼らは言ってる事通りには実行できず、やってる事もチグハグ。まるで終始一貫できない。およそスジが通せない。それをダメな奴らと言ってしまえば確かにそれまで。

 だが実際のところ、みんなそんなにスジなど通せるのか?

 自分は上司に言いたい事を言ってやった、自分は夢を捨てずに最後までやり通した、自分はいつも本音で生きてきた…世の中は大層ごリッパな事を言う人々ばかりだが、僕はそれらのごリッパな発言が言葉通り実行された現場に居合わせた事がない。40数年生きてきたのに、ただの一度さえそんな「偉大な行為」をこの目で見た事がないのだ。その代わり、そんな素晴らしくも空疎な「言葉」だけは、多くの連中から死ぬほど聞かされてきた。結局どこの誰もが、そんな言葉通りには実行出来ないのだ。出来るのは地球上で数えるほどの、ほんの一握りの人間たちだけだろう。

 特に男と女の色恋沙汰の真っ直中では、そんなごリッパな振る舞いなど望むべくもない。それが本音に近い部分なら近いだけ、人は簡単に思い切れないしキレイ事では行動できない。すべては理屈通りにはいかないのだ。その時、得てして自分の気持ちは自分ですら裏切る。

 かつて僕も、先が見えてしまった関係をどうにも割り切れずにズルズル続けてしまった。それが自分のためにも相手のためにもならないと分かっていながら、どうしても断ち切る事が出来なかった。それどころか、何とかして1日でも長くこのオイシイ思いが続かないかとセコい努力をした。

 もう別れると決めて、別れる事になったその後も、理屈では割り切れない成り行きで関係を続けてしまった。それは僕だけではない。相手だってきっと、どこか割り切れてなかったに違いない。「なぜ?」と言われたら…何とでも理屈はつけられるだろうが、やはりどうにも説明には苦しむだろう。たぶん、理由は誰にも分からない

 色恋沙汰には、そんな理屈で割り切れない部分がどうしようもなくあるのだ。この映画には、そんな割り切れなさに圧倒的なリアリティがある。共感はしないが、否定は出来ない。どこかに身に覚えのある痛みが感じられるのだ。彼らの気持ちは、確かにこの僕も共有したことがある。それゆえに、この映画に迫力と真実味を感じるのだ。

 そして、主人公二人が結ばれた「仏印」…それはもはや失われた夢だ

 それがそもそも忌まわしさの象徴だった…ということは置いておいても、それが今となっては幻影だというのは間違いない。取り戻そうとしても取り戻せない。それが薄々分かっていながら、往生際の悪いあがきをしてしまう。そこにしか二人の拠り所は存在しないし現実はあまりに殺伐たるものだから、彼らはそこにすがるしかない。この二人の関係とは、そんなものだったのではないだろうか。

 それは例えばアン・リー監督の近作ブロークバック・マウンテン(2005)の同性同士のカップルが、取り戻しようのない「あの日」のブロークバック・マウンテンを取り戻そうと虚しい努力を繰り返すのに似ている。恐ろしく不毛な事なのに…おそらく彼ら自身もそれを知っているのに、そうする事をやめる事が出来ないのだ。それは理屈ではない。

 結局、富岡とゆき子はどんどん堕ちていって、最後の最後に当時の日本の最南端・屋久島へと下って行く。それは彼らにとって、夢の日々の象徴「仏印」に少しでも近づけるような幻影を抱かせる土地だったのではないか。

 だが実際の屋久島は、どこまで行っても日本だ。鬱陶しい雨がしとしと降り続く日本の中でしかない。そこでゆき子は力尽きるように、決定的な病いに倒れてしまう

 この最後を、ゆき子が聖母のように富岡の罪を許す…と解釈している向きもあるようだが、僕はそんな事は絶対にあり得ないと思う。そんな虫のいい話ではあるまい。むしろその逆だ。このシビアな世の中で、富岡はかけがえのない存在で唯一の拠り所を失ってしまう。そしてこの期に及んで…自分は取り返しのつかない事をしてしまったと、すべて手遅れの段階でようやく気づくのだ。これほど救いのない話もないだろう。だから、許されてなんかいない。「聖母のように許す」なんて、そんな聞いた風な甘っちょろい話ではない。そんな事を思っているのは、それこそ何でもテメエに都合良く解釈したがる日本の男だけだ。

 富岡とゆき子は戦後日本人の原罪を背負って、徹底的に堕ちるところまで堕ちる。それを後ろ向きだなんて我々に責められる訳がない。それは何もかもいいかげんで済ませてきた、我々日本人に自らを恥じ入らせるような「潔さ」なのだから。

 


Floating Clouds

(1955年・日本) 東宝 制作

監督:成瀬巳喜男

製作:藤本真澄

脚色:水木洋子

出演:高峰秀子、森雅之、中北千枝子、岡田茉莉子、山形勲、加東大介、木匠マユリ、千石規子、村上冬樹、大川平八郎、金子信雄、ロイ・H・ジェームス

2006年6月6日・ビデオにて鑑賞(1993年4月9日・NHK衛星第2放映時に録画)

 


 

 

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