「意志の勝利」

  Triumph des Willens (Triumph of the Will)

 (2009/08/31)


 「総統の委託による、レニ・リーフェンシュタール監督作品」

 第一次大戦勃発から20年、ドイツの苦難から16年、ドイツ再生の始まりから19ヶ月…アドルフ・ヒトラーは、再びニュールンベルグに戻ってきた。

 ヒトラーを乗せた飛行機が、もくもくと盛り上がる雲の上を飛んでいる。やがて雲の中を抜けて下界に下りてくると、そこは堂々たる建物が建ち並ぶ古都ニュールンベルグだ。そして上空から街並みをよく見ると

規律正しく行進する人々の行列が見渡せる。

 みんな、この街で行われるナチ党の党大会のために余念がない。

 飛行機は飛行場に着陸。周囲には多くの人だかり。彼らの視点はある一点に注がれている。

 飛行機から降り立った、アドルフ・ヒトラーだ。

 その場に集まった人々は一斉に大歓声。右手をピンと伸ばして前方に上げる、ナチス独自の「敬礼」を争うように行う。群衆の声は耳をつんざくばかりだ。

 「ハイル! ハイル! ハイル!」

 そんな人々の歓呼に応えるアドルフ・ヒトラー。彼はオープンカーに乗り込むと、人々の歓声と敬礼の中を、街中までパレードしながら進む。沿道には老若男女あらゆる階層の人々が群がり、何とかしてヒトラーの顔を見ようと押しくらまんじゅう。通過するヒトラーの姿をひと目見るや、「ハイル、ハイル!」と連呼して敬礼を繰り返す。その表情は歓喜そのものだ。周囲の建物からも窓から目一杯人々が顔を出し、ヒトラーに向けて歓声を上げている。

 やがてヒトラーを乗せたオープンカーは、街の最高のホテルの前に停まる。ここが今夜のヒトラーの宿だ。彼がホテルの中に入っても、周囲に集まった人々は立ち去らない。その大歓迎ぶりに、ヒトラーは部屋の窓を開けて人々に挨拶の大サービスだ。

 そんな状態は夜になっても変わらず、周囲には人だかりが絶えないまま、軍楽隊が勇ましい演奏を続ける。

 そして翌朝。至るところにナチスのカギ十字の旗がはためく街は、まだ目覚めたばかりで静かだ。街の郊外にはヒトラー・ユーゲントのキャンプがあり、若者たちが朝から溌剌と活動を開始している。健康で健全な若者たちが、規律の中にも和気藹々とした共同生活を行っている場所だ。

 次に民族衣装を着た農家の女性たちが、街中をパレード。ヒトラーが彼らを祝福。農民たちはみな感激に顔を輝かせている。

 やがて巨大な市内のホールで、党大会の開会式が行われる。

 各地の代表が、それぞれのナチス旗を持って入場。副総統ルドルフ・ヘスの司会で始まった開会式は、ヒトラーに向かっての「あなたはドイツです!」という絶叫で興奮が頂点に達する。その後も物々しい雰囲気の中、ヒトラーはじめナチス幹部の面々の熱っぽい演説が続く。いずれもドイツは順調に発展し、その基礎は揺るぎなく将来は明るいというような内容だ。

 さらに広大な広場に舞台を移して、今度は「銃ではなくシャベルで戦う」労働奉仕団の大集会。ズラリと並んだ数万の奉仕団は、その場で寸劇のような唱和を始める。

 「君はどこから来た?」「フリーゼンから」「君は?」「バイエルンから」「君は?」…「一つの民族、一人の総統、一つの国家…ドイツ!」

 こうして一糸乱れぬ統制のとれた奉仕団を前に、ヒトラーは「労働の尊さ」について一席ぶつ。奉仕団はみな感激の面もちでヒトラーを見つめる。

 しかし党大会には、まだまだこれから大規模なイベントを用意されていたのだ…。

 

レニ・リーフェンシュタールと呪われた映画

 ナチの協力者としての悪名高いレニ・リーフェンシュタールについては、僕は昔からかなり関心を持っていた。

 いわく「ナチの協力者」であること、ナチの威光を借りてやりたい放題にやりながら、戦後は責任逃れをしていると言われていること、いざとなると「女の武器」も駆使し、ヒトラーの愛人呼ばわりされた(本人は否定しているが)こともあること…。

 その生涯は毀誉褒貶に満ちていて、特にナチス時代に発表した「意志の勝利」(1935)、「オリンピア」(1938)の2作が映画史に残る素晴らしい映像美の傑作と言われながら、同時にこれらがナチスの暴走に拍車をかけることになった史上最大のプロパガンダ映画であったとも言われている。

 しかし、リーフェンシュタールの名前を聞くことは多いが、その作品を見る機会は極めて少ない。そんな中で僕が最初にリーフェンシュタールに深く接することができたのは、ドイツで制作されたドキュメンタリー映画「レニ」(1993)を見た時だろうか。

 この作品では、彼女のナチ時代以前…ケガでダンサーを断念してから山岳映画のヒロインとして活躍を始めたあたりから、比較的近年のアフリカのヌバ族への取材や海中の魚たちの映像撮影などまで紹介していて興味が尽きない。しかし何と言っても彼女の生涯で最も注目せざるを得ないのは、その忌まわしいナチ時代のエピソードなのだ。

 その一つひとつに具体的に評価するのは僕の仕事ではないが、ともかく彼女がまるっきり「罪の意識を持っていない」のには唖然呆然としてしまう。

 「美」や「芸術」を追求したかっただけ…とは彼女のよく言う言い訳で、それは確かにそういう面もあっただろうが、「それだけ」で押し通してしまうには結果があまりに重大で深刻過ぎる。あと、彼女に言わせれば、「あの当時は誰しもがヒトラーやナチに夢中になったではないか」「私だけじゃない」「あれほどひどい事になるとは思わなかった」…というところなのだろう。確かに当時同じように甘い汁をすすりながら、レニほど激しく非難されドツき回されることもなく、まるで知らん顔をしている連中もいるんだろう。

 それにああいう時代に生きていくには、あのように生きていくしかなかったのかもしれない。正直言って、その時に生きていたら、僕もそんな誘惑に勝てる自信がない。

 しかし、まるっきり「自分は悪くない!」と言われても、世の中には開き直れる事と開き直れない事がある。むろん戦後の僕などが彼女を断罪できる訳もないが、それでもあの堂々たる強弁には驚かされる。言ってることに明らかに無理や…ズバリ言うとテメエ勝手な理屈やウソがあるように見えるだけに、それで言い通してしまうことそのものにビックリしちゃったのだ。

 まぁ、100歳ぐらいでアクアラング付けて海に潜ろうっていうんだから、並みの強心臓とは訳が違う。やっぱり肉食ってる連中は違うわな(笑)…と、変な感心もしてしまった。

 それにこの時点で、僕はそもそも問題となっている「作品」そのものを見ていなかったのだ。

 「オリンピア」は現在、駅のワゴンセールで安いDVDを手に入れることもできる。でも、昔はそうおいそれと見ることができなかった。現在に至るまで見れていないのは単に僕の怠慢ゆえだが、正直言ってそれは勘弁してもらいたい。

 そしてもう一方の「意志の勝利」に至っては、今でこそ輸入盤DVDなどがあるらしいが、ずっと日本では見られなかったようではないか。そもそも本国ドイツでは今でも封印されているということで、それだけ「呪われた」映画なんだろう。その忌み嫌われ方もハンパではない。

 しかし…どうなんだろう? ヤバすぎて見ることもできない映画って。

 例えばD・W・グリフィスの「国民の創生」(1915)は映画史に残る作品で、革新的映画技法を編み出したエポック・メイキングな作品と言われているが、今日その実物に接すると、かなり当惑させられるシロモノだ。なぜなら、K.K.K.を英雄視してあからさまな人種差別を前面に出しているからである。しかしカットバック手法による緊迫感の盛り上げ方など、映画の技法面での貢献を考えると、決して無視できないし無視されるべき作品ではない。その意味で、「政治的意味」ではなく単に「映画的意味」で評価すべき作品だとも言われる。

 しかし一方で、この「意志の勝利」はまるで疫病のように忌み嫌われたままだ。「国民の創生」は「政治的意味」ではなく単に「映画的意味」で評価されながら、こっちはひたすらダメというのはおかしいではないか…という気分にもなるし、その反面、リーフェンシュタールに「美」や「芸術」を追求したかっただけとか「自分は悪くない!」とか開き直られても、ハッキリ言って居心地悪いし不愉快だ。

 …というわけで、どこから見てもどう考えても複雑な思いにかられるのがこの作品。「オリンピア」の方はまだオリンピックのドキュメンタリーだから…と逃げ場もあるが、こちらは何せ「ナチの党大会の記録映画」だから、どう考えても言い逃れできない。

 そして、この映画に触れる前の僕としては、もうひとつの拭い去りがたい疑問があったわけだ。

 一体、何をどう撮ったとしても…どこかの政党の「党大会」ドキュメンタリーなんてシロモノが、見る者を熱狂させマインド・コントロールに追い込むほどの「面白さ」「魅力」を持ち得るのだろうか? 例えば、自民党や民主党の党大会を撮影したフィルムで興奮できるか(笑)? 政治メッセージが羅列されるようなそんなフィルムの、どこが面白いのか? シンパが見たって退屈なんじゃないのか?

 そもそも、そんな「党大会」フィルムが多数の観客を動員している時点で、もはや普通の事態ではあるまい。それをさっ引いたとして、観客を惹きつけるエキサイティングな「党大会」フィルムなんて存在するんだろうか?

 実際、この映画を見たら僕もナチ思想に取り憑かれちゃうんだろうか?

 「意志の勝利」が語られる際に常につきまとう、「史上最大のプロパガンダ映画」という称号が、果たして実際に有り得るものなのかどうか…どうしても僕には具体的にイメージできなかったのだ。

 

ヒトラーがやって来る、ハイル!ハイル!ハイル!

 映画はヒトラーが飛行機に乗って、党大会が行われるニュールンベルグにやって来るところから始まる。

 何しろ飛行機が雲の上を飛んでいるところから始まるのだ。その丁重さには恐れ入る。そして飛行機が着陸して、ヒトラーその人が飛行場に降り立つと…周囲の人々の熱狂たるや凄まじい。

 それからヒトラーによるオープンカーのパレードが延々続き、ホテルにやっとこ到着するまでおよそ10分間。その間の人々の熱狂ぶりを見ているうちに、僕は何となく奇妙なことに気づき始めた。

 ヒトラーは政治家や英雄というより、スーパースターなのではないか?

 僕はこの映画がモノクロであることも手伝って、大昔に自分自身が熱狂して見たある映画のことを思い出した。それはビートルズ映画第1作、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」(1964)だ。あの映画もビートルズを追い掛けるファンの熱狂ぶりがハンパじゃなかったし、そのハンパじゃない盛り上がりぶりを映画の観客に延々と見せることで、ビートルズのスーパースターぶりと魅力を訴えかけた。

 この映画って、実はそういう映画じゃないのか?

 そういえば、この作品でのホテルまでのこの大げさな段取りに、僕はもう一本の「音楽映画」を思い出していた。それは、レッド・ツェッペリンのニューヨークでのコンサートを収録したドキュメンタリー映画「レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ」(1976)冒頭だ。レッド・ツェッペリンが自家用ジェット機で空港に着陸。リムジンに乗ってマンハッタンを走り抜け、コンサート会場のマジソン・スクエア・ガーデンまでやって来る…あの物々しさ、大げささ…今見るといささかコケ脅しと言えなくもないあのもったい付けた段取りが、この「意志の勝利」の冒頭を思わせるではないか。

 つまりは、スーパースターのご登場というわけである。

 そして、ここで「音楽映画」という言葉を持ち出したので思い出したのだが、この「意志の勝利」という作品はドキュメンタリー映画にも関わらず、その場で収録されるべき現実音がほとんど入っていない。同時録音されたらしき素材は、ヒトラー以下ナチスのお偉いさんたちの演説のみ。それ以外は現実音らしく扱われているが明らかにダビングされた楽隊の音楽と、現実音ではなく完全に劇音楽として収録されたBGMばかりだ。

 というより、この映画では延々とサウンドトラックに音楽が流れっぱなしで、それこそ「音楽映画」的な構成になっているのだ。

 傑作なのは、中盤の労働奉仕団集会の様子。「君はどこから来た?」「フリーゼンから」「君は?」「バイエルンから」「君は?」…「一つの民族、一人の総統、一つの国家…ドイツ!」

 この唱和のやりとりは、明らかに後で撮り足されて挿入されているのが分かる。正直言ってナチに心酔していない観客としては少々寒いやりとりだが、その編集のリズムとテンポと相まって、何となくミュージカル映画を見ているような気分になってくる。これも「音楽映画」的と言えば「音楽映画」的だろう。

 さらに野外で行われるイベントやセレモニーの数々が、その人々の圧倒的な動員も含めて…野外で行われているロック・コンサートのそれに見えてくる。さすがにロック・コンサートの無秩序に対してこちらは統制がすべてで、そのマス・ゲーム的な人々の動きがいかにも「全体主義国家」的な胡散臭さを醸し出してはいるが、それもあくまで今日の目で見たからこそ。何より…例えば現在の北朝鮮などで行われているマス・ゲームなどと明らかに違うのは、それらの国々ではどう見ても人々はイヤイヤながら…あるいは銃に脅されてやらされているように見えてしまうのに対して、こちらはみんな進んで喜んでそこに没入していると見えること。その熱狂のあるなしが明らかに違う。その意味で、この映画はロック・コンサート映画的と言えるのだ。

 そんな熱狂した群衆を前に、ヒトラーが派手なステージ・アクションで吼える。

 レニ・リーフェンシュタールの撮り方も、非常に大胆だ。マイクの前に立つヒトラーを、演壇前から左右にゆっくりレール移動しながら撮る。これは今日のコンサート映画の常道だ。オープンカーで移動するヒトラーを、同じスピードでクルマでフォローしながら撮る。行進する一団を、ぴったり同じスピードで移動しながら撮る。圧倒的な群衆を、エレベーターで上昇しながら見下ろしていく。この「かっこよく」見せるテクニックは素晴らしい。ハッキリ言ってテクニックで見せている。

 正直言ってお偉いさんたちの演説の羅列は、いささか退屈だ。だがロック・コンサート映画の金字塔「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」(1970)をロックを知らない人が見たとしたら、ジミ・ヘンドリックスが出ようとザ・フーが出ようと有難みなどないだろう。それと同じである。そしてリーフェンシュタールもそこらへんをわきまえていると見えて、演説のキモの部分だけ押さえるとサッサとカットして次にいってしまう。これは確かに賢明な手段だったろう。

 同じように、後半に出てくる街中の広場におけるパレードに次ぐパレードの場面も、あれだけパレードづくしで見せられるといいかげんお腹一杯。いささか退屈を覚えたことは白状しなくてはならない。最初のうちはかっこいいので魅力を感じているのだが、さすがに飽きてくるのである。

 ただここでも…前進してくる一団を迎えるかたちで、カメラが後退移動しながら撮影するという素晴らしいショットやら、どうやって撮ったのかからっきし分からない、行進する一団と同じスピードで空中移動(?)して撮影したショットやら、華麗なるテクニックが次から次へと登場。これらの技法は現在もCMなどで応用されているに違いない。

 そして閉会式で、締めくくりのヒトラーの演説が炸裂。派手なスタンドプレイはお手のものだ。

 面白いのは、ヒトラーが演壇から降りても歓声はやまず、司会役のルドルフ・ヘスが閉会の言葉を言えないまま、何度もヒトラーの方を振り返って間を取っていること。つまりはコンサートの幕切れで観客が「アンコール! アンコール!」とやっているアレである。

 この映画はどこを切っても、今日のロック・コンサート映画を彷彿とさせるのだ。

 僕はこの映画を見終わった時、まず「ロック映画の名手でもあるマーティン・スコセッシは、この作品をどう見ているのだろうか?」…と考えた。

 スコセッシは熱心な映画マニアでもある。「意志の勝利」を見ていないはずがない。ロックにも造詣が深く自らもロック映画を撮る彼が、果たしてこの映画をどう見たのか。

 その時、僕はスコセッシがストーンズのライブ映画シャイン・ア・ライト(2008)を撮った時のエピソードを思い出した。

 彼がミック・ジャガーから受けた依頼は、そもそもストーンズの大規模野外コンサート映画を撮る話だった。ところがスコセッシはしばらく考えた末、それを小劇場でのこぢんまりしたライブに変更したというのだ。その理由をスコセッシは「ストーンズのライブを間近にとらえたかったからだ」と説明したが、果たしてそれだけだったのだろうか?

 彼は、大規模ロック・コンサートの持つ魅惑に、何か忌まわしいモノを感じていたのではないか?

 ロック・ミュージックの魅力は、その興奮と熱狂にある。理屈抜きに惹きつけられる点はそこだ。僕もそれが味わいたくて、昔からロックを聴いてきた。若い人が熱狂してきたのも、それが理由だろう。それがロックというものなのだ。

 しかし、それは一種「思考停止」な状態とも言える。

 それが大規模なロック・コンサートとなると、大群衆が同時に熱狂すると共に、一斉に「思考停止」することになる。これすなわち、「ファシズム」に心酔した状態と同じではないのか?

 スコセッシはそんなロック・コンサートの危険性を、ロック好きだけに誰よりも敏感に感じていたのではないか。

 彼はそのキャリアのごく初期に、あの「ウッドストック」の編集を受け持っていた。こうした大規模ロック・コンサートの危険性を、肌で感じることができたはずだ。だからスコセッシはその後の自分の監督作品としては、ロックをこのようなカタチで描いていない。ザ・バンドの解散コンサート「ラスト・ワルツ」(1978)はやはり小劇場のような場所で撮影され、しかも曲と曲の間は当事者の証言で寸断される。前述の「シャイン・ア・ライト」でも、映画は熱狂そのものよりショウを盛り上げるべく心を砕くミック・ジャガー以下メンバーの姿を微細に描いていく。

 彼はロックを愛するがゆえに、こうしたロックの危険性を察知していたのではないか?

 今は若者向けとばかり言えなくなってきたが、元々は若い人々を魅了してきたロック。そのロックに限らず、若者を魅了する音楽やイベントには、どこかこうした熱狂的要素が付きまとう。しかしその「思考停止」には、常にファシズムの危険もはらんでいるのだ。図らずも、ヒトラーも映画の中で言っているではないか。「年寄りどもには今でもナチを疑問視する連中がいないわけではないが、若者たちは従順に心酔してくれている」…と。

 だからロックが危険だ、若者文化が危険だと言うつもりはない。ビートルズが来日した時に反対した連中みたいなコッケイなことを言うつもりはない。しかしこれらには、どこか似た部分、共通する部分があることを認めずにはいられないのだ。

 

意志「放棄」させるという意味での勝利

 先ほども述べたように、実はこの映画、あまり過激な政治メッセージやコメントが提示されるわけではない。

 それでも中には…よくよく見ると「民族の純潔」なんてことを言っている奴もいるし、ゲッベルスなどズバリ手品のタネを明かすようなことを言ってもいる。何せゲッベルスは、こんなことを語っているのだ。

 「権力を得るために、武力に訴えるのもいい。だが、真にそれを確固としたものにするなら、人々の心に訴え、それをつかまねばならない」…そんな演説に歓声を挙げる聴衆も聴衆だが、つまりは彼らは何も言っている意味が分かっていなかったのだろう。言葉に大して意味を見いだしてはいなかったに違いない。

 そのくらい、この映画ではメッセージ性が希薄だ。あるにはあるが、それはたった一つのことでしかない。すなわち、「ヒトラーはドイツだ、我々はヒトラーに忠誠を誓います!」

 それ以外は奇妙なほどメッセージがない。リーフェンシュタールがカットしてしまったのかもしれないが、とにかく生臭い話はほとんど出てこないのだ。

 これを見る限りでは、確かに彼女が主張する「美」や「芸術」を追求したかっただけ…という話もあながちウソじゃなかったのかもしれない。確かに政治にはあまり関心がなさそうに見えるのだ。

 しかし、彼女がナチに心酔していたことは、誰がどう見ても疑いの余地がない。彼女がビジネスとしてだけではなく、自ら進んでナチに荷担したのは明らかだ。どう考えてもナチに共感し、それに溺れて、それを最も良く見せるために努力している。

 それって…たぶん彼女はナチの「かっこよさ」に惹かれていたのではないか。

 彼女は高級そうに「美」や「芸術」などと言っていたが、それは単純に「かっこよさ」だったのだろうと僕は思う。その「かっこよさ」とは、ロックスターが持つ「かっこよさ」と同じモノだ。彼女はナチの政策やらイデオロギーを知らなかった訳ではないだろうが、それよりともかく、その「かっこよさ」に惹かれたのではないか。

 そして大多数のドイツ人たちも、同じように惹かれたのではないだろうか。

 しかしながら、ここでちょっとした疑問を抱く人もいるだろう。あんなヒトラーなんてチョビヒゲの小男のどこが「かっこいい」のだ?…と、こうおっしゃりたい人もいるだろう。そんな方々は、ロックスターと言われている連中が、実際に男前だったりイケメンだったりスタイル抜群だったりするかどうか考えてみればいい。「スター」っていうのはそんなものだ。スターの「かっこよさ」とは、そんなありがちな「見てくれ」の「かっこよさ」だけでは測れないのである。

 そして、「スター」の「かっこよさ」が人々を惹き付けるには、そこに面倒くさい政策や野暮なイデオロギーはむしろジャマだ。

 もちろん、ナチの持つ危険な思想に惹かれた人々がいっぱいいたことも事実だろう。それに人々も、ナチが言っていることが無味無臭だと思っていた訳でもないだろう。だが、それだけではあれほど国全体が熱狂するところまでいかない。政策やイデオロギーはよく分からないが、あるいは分かっていても…とりあえず「思考を保留にして」、その「かっこよさ」に惹かれていった。

 あるいは、面倒くさいこと抜き、理屈抜きで惹かれていった。

 そんなバカなと言えるだろうか? いや、それって実は今でも人ごととは言えないのだ。

 ちょっと前まで、この国で「改革」とか言っていれば何でも通った時期があった。その意味を誰も詳しく問おうとしなかったが、なぜか激しく支持されてしまったではないか。「改革」とは何か、何をどう「改革」するのか、「改革」したらどうなるのか、何よりそれはいい結果をもたらすのか…それらは全く分からないまま、人々はその「魔法の言葉」を熱狂的に受け入れてしまった。

 提示されたのはワン・ワードだけ、あとは「堂々としている」とか「毅然としている」とかいうイメージだけだ。

 それこそが「思考停止」とは言えないだろうか。

 折しも、今この国は久々に政治の季節を迎えた。僕はノンポリだから、あまりこんな事に触れたいとは思っていない。だが、今回もまたまた上下左右どっち側の人々もワン・ワードやイメージで訴えてる。これってどうにかならなかったのか。

 「責任力」だとか「政権交代」だとか…あと、ちょっと前には「地方分権」なんてのもあった。まぁ、どれもこれも大変結構なフレーズばかりだが、本当にそれほど結構なものなのか。

 もっとも、「責任力」って…キジも鳴かずば撃たれまいに…っていうか(笑)。そもそも、テメエで先にバラまいときながら、平気で相手を「バラマキ」と批判できる図々しさで「責任力」って言われてもねえ…。これに対してもう片っぽのほうも、「政権交代」だけ言うのはいいが、その後どうするのか考えているのか。「交代」するしない…ではなく、その結果どうなるのかが問題ではないか。それで終わりじゃないだろ。

 もっとも威勢がよくて訳が分からないのが「地方分権」で、地方に分権しただけで世の中良くなるのか、カネを無駄遣いするのが国から地方に移るだけじゃないのか、くだらない道路や空港が増えるだけなんじゃないのか、単に知事の連中がふんぞり返って威張るだけじゃないのか、そもそも知事会っていつから圧力団体になったのか。「マニフェストを採点する」って言い草もかなり「上から視線」だが、こいつらが口を出してくることがホントにいいことって保証があるのか? 大体、「地方」って日本じゃないのかよ(笑)?

 マンゴー売ってた奴は見透かされたようだが、もっと頭が回るのはイイ人ぶったまま、まんまとうまく立ち回っている。そして、派手なスタンドプレイ。

 毎度毎度、国民がそんなワン・ワードやイメージに引っかかってしまうようでは、当時のドイツやリーフェンシュタールを笑えない。

 国民の思考を停止させ、「意志」を放棄させるという時点で、為政者たちにとっては「勝利」なのだから。

 

 

 

興味のある方は「レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実」
もぜひお読みください。

 


Triumph des Willens (Triumph of the Will)

(1935年・ドイツ)

Leni Riefenstahl-Produktion、Reichspropagandaleitung der NSDAP (as NSDAP Reichspropagandaleitung Hauptabt. Film) 制作、ウーファ配給

監督:レニ・リーフェンシュタール

製作:レニ・リーフェンシュタール

脚本:レニ・リーフェンシュタール、ヴァルター・ルットマン

2009年8月14日・シアターN渋谷のレイトショーにて鑑賞

 


 

 

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