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映画を語る映画たち

E:戦う映画監督

The Fighting Directors


正直に申しあげれば、今回の企画はすべてこの映画を紹介するために立ち上げたと行っても過言ではありません。そして、この作品を紹介することが当サイト開設当初からの念願でもありました。映画館主・Fこと私が「アメリカの夜」を語ります。


 

 

 メイキング・オブ・わが素晴らしき人生

 「アメリカの夜」

 Making of My Own Life - "Day for Night"

 夫馬 信一(映画館主・F)

 by Shinichi Fuma

 

 

出来ればジョルジュ・ドルリュー作曲の「アメリカの夜」テーマ曲を聞きながらお読みください。

 

 

この感想文を辿りながら、必ず途中のリンクに飛んでください。

 

 

 

Pre-Production

 まず、映画が始まる前にちょっと長めの前置きを…。

 僕がどうしてこの「アメリカの夜」と出会い、そして深く引き込まれたかは、当サイトの特集「監督たちへの手紙」での僕のフランソワ・トリュフォー宛書簡にすでに語ったので、ここではあえて繰り返さない。

 その手紙でも述べたように、「アメリカの夜」の映画裏話と僕自身の経験がダブったことで、僕はトリュフォーに深い共感を抱いた。しかし、それだけではこの作品が僕の人生の中で占めるものの大きさを説明出来ない。この映画は僕にとって、ただの一本の映画ではないのだ。うまく言えないが、映画以上のものなのかもしれない。

 何だか大げさな話になって、誰かの冷笑を浴びそうだけど。

 この映画はカンヌで特別招待作品として上映され喝采を浴びた。その後アメリカのアカデミー賞外国語映画賞を受賞。授賞式にはトリュフォー自身が出席して、オスカー像を握りしめながら「メルシー」とスピーチしたそうだ。

 だが、今この作品に言及する人は決して多くはない。トリュフォー作品と言えば「突然炎のごとく」を筆頭に、「大人は判ってくれない」に始まるジャン=ピエール・レオ主演のアントワーヌ・ドワネル・シリーズ、その他にも珠玉の作品群が数多く並ぶ。だが、なぜかこの作品はトリュフォー代表作の中には数えられることが少ないように思う。一体どうしてなんだろう?

 この映画を考えるとき、実は僕にはすぐさま想起される、まったく異質な2本の映画がある。

 そのうちの1本は日本映画だ。深作欣二監督の「蒲田行進曲」。なぁんだ、映画づくりについての映画だから連想したんだろうと言うなかれ。この映画のエンディングに注目して欲しい。もうネタバレになってもいい時効の作品と決めつけて書かせていただければ、このエンディングたるやトリュフォー作品「終電車」のエンディングのモロのパクり。当時「蒲田行進曲」を絶讃した批評家たちは、「終電車」を見てなかったんだろうか? あまりにも両者は似ている…というより「蒲田〜」の一方的イタダキなのだが。

 そしてその時、僕はハタと気づいたんだね。深作は「終電車」の向こうに同じトリュフォーの「アメリカの夜」を見ていたんじゃないか? だけど、さすがに「アメリカの夜」じゃモロ過ぎる。すでに「蒲田行進曲」は、松竹だの東映だのの映画のノスタルジーで溢れかえっているのだ。これ以上のそんな要素はゲップが出る、でも入れたい…そんなせめぎ合いの行きついた果てが、「終電車」モロパクりというトリュフォーつながりの屈折した引用だったんじゃないかと思うんだね。ついでに言えば「終電車」は芝居がらみの話で、劇中劇が出てくる「アメリカの夜」に非常によく似た構成を持っているわけ。深作欣二は「蒲田行進曲」で「アメリカの夜」にオマージュかリスペクトを捧げている。それもかなり具体的に、だ。これはたぶん間違いないとにらんでいるんだけどね。

 2本目はジョージ・ロイ・ヒル監督の「リトル・ロマンス」。これもかなりストレートだと思うよ。オープニングは主人公のフランス少年が映画を見ているところから始まる。何と「明日に向かって撃て!」のフランス語吹き替え版から幕開けだ。この作品はこんな映画ネタがゴロゴロしていて、一方の主人公であるアメリカ少女ダイアン・レイン(!)の母親サリー・ケラーマンの恋人は安手のホラー映画監督だったりするわけ。元々、少年少女の恋物語という基本コンセプトも、子供の扱いがうまいと定評のトリュフォーを彷彿とさせるじゃないか。

 そして、僕が「リトル・ロマンス」はジョージ・ロイ・ヒルの「アメリカの夜」に対するリスペクトだと確信するに至った理由…それはこの映画の撮影監督の人選にあった。

 ピエール=ウィリアム・グレン。

 この人、失礼ながら決して超有名な撮影監督ではない。ましてアメリカ映画からお声がかかりそうな雰囲気の映画人でもない。ハリウッドが外国映画で活躍しているカメラマンを起用する時は、本当に超有名な人しか使わないからね。

 アメリカで知られたトリュフォー作品のカメラマンってことでご指名があったんじゃないかと思う人もいるだろう。確かにハリウッドってこういう時に実に分かりやすい人選をする。フェリーニ映画のジュゼッペ・ロトゥンノ、ベルイマン映画のスヴェン・ニクヴィスト、ベルトルッチ映画のヴィットリオ・ストラーロ…てな具合だ。

 だけど、ピエール=ウィリアム・グレンってトリュフォー作品を手掛けたのは「アメリカの夜」くらいのもんだと思うよ。本来トリュフォー作品から思い出すなら、まずネストール・アルメンドロスとくるのが自然じゃないか。しかもアルメンドロスは1978年にはテレンス・マリックの「天国の日々」でアメリカに呼ばれてるしね。なのになぜ、ピエール=ウィリアム・グレン?

 そこに音楽はまたしてもトリュフォー映画常連のジョルジュ・ドルリューと来る。言うまでもないが、ドルリューは「アメリカの夜」の印象的な音楽も手掛けている。だから絶対にジョージ・ロイ・ヒルは、「アメリカの夜」を意識していたに違いないんだよ。

 それにしたって、深作にしてもロイ・ヒルにしても、ずいぶんと秘やかで控えめな引用やリスペクトだよね。この監督この映画に俺はリスペクトしているんだ…ということは、逆にバーンと出したくなるのが映画人の人情ってもんじゃないか。そして映画ファンたちも、いつしか「アメリカの夜」については多くを語らなくなった。トリュフォー・ファンにおいてさえ…。

 これってねぇ、不思議な気がする一方で、僕には何だか分かるような気もするんだよね。

 一つには、映画人や映画ファンにしてみたらあまりにレアでモロな題材である「アメリカの夜」を、真っ正面から受け止めるのはキツい、照れる…という面があるんじゃないかと思うんだよね。直球ストレートだからねぇ。しかも「ニュー・シネマ・パラダイス」ほど商売っけはない(笑)。

 それともう一つは…この映画を見ていると、どうしても映画に深く関わってしまった人々の“生き方”という領域まで図らずも触れてしまっているようなところがある。そこらへんが、映画人や映画ファンの中でもある種の人々の心の奥底を、思いのほかに刺激してしまうのではないだろうか? そんな時、人はその思いを胸の内深くしまい込んでしまいたくなるものだ。僕がただの映画以上の思いを抱いて心の中にしまっているように、この映画は深く感銘を受けた人間に、そんな秘やかな態度をとらせるものがあるのかもしれない。

 なに? これだけゴテゴテと長ったらしく大げさな文章を書いて、「秘やかな態度」もないもんだって? いやぁ、おっしゃる通り。僕がヤボだった。

 だけど、こう考えていただければありがたい。僕はこのサイトを立ち上げて3年半。タイトルに「DAY FOR NIGHT」と堂々とうたい、その言葉の由来まで書いて掲げている。そんなこのサイトのためにあるようなこの映画なのに、今の今までレビューを発表できなかったということでお察しいただけないだろうか。しかもこの映画を取り上げるには、その感想文を滑り込ませ埋没させるための、今回の大きく膨らんだ特集という器、豊富なコンテンツが必要だったということも含めて…。

 さぁ前置きが長すぎた。早速映画をご覧いただこう。

 

 

First Shot

 地下鉄駅の出口からゆっくりと現われる繊細そうな若い男…ジャン=ピエール・レオ。彼は賑わう街の喧騒をよそにひっそりと、しかしめざす方向に確実に足を進めていく。激しい道路の車の往来や通行人の行き来にも関わらず、その歩みは恐ろしいほど一定だ。そんなレオがピタリと歩みを止めた時、彼の目の前には一人の男が立っていた。堂々たる初老の紳士…ジャン=ピエール・オーモンだ。見つめ合う二人。分けてもレオがオーモンを見る目つきは、まるで睨みつけるようだ。次の瞬間、レオはオーモンの頬を引っぱたいていた。

 「カット!」

 街の喧騒がパッと切れる。通行人たちは散りぢりとなり、車は元の場所に戻っていく。睨み合っていたレオとオーモンも、緊張を解いて微笑み合っている。二人に一人の男が近づく。映画監督フランソワ・トリュフォーだ。そう、これはすべて映画の一場面。街もそこに歩く人々も行き交う車も、もちろんレオもオーモンの行為も本物ではない。すべて映画のための架空のシロモノなのだ。街のオープンセットの向こう側には鉄骨がのぞいている。

 撮影の合間を縫って、テレビの取材も慌ただしく始まる。

 「ここニースの撮影所では、トリュフォー監督の新作『パメラをご紹介』の撮影もたけなわです。みなさんに話を聞いてみましょう」

 話は至って簡単だ。花嫁を連れて両親のもとに帰ってきたレオが、その父親オーモンに花嫁を奪われてしまう話。典型的悲劇的なラブストーリーだ。

 監督トリュフォーはあらゆるスタッフから何から何まで相談を受ける。それに一つひとつ決断を下さなくてはいけない。気が休まるひまがない。

 先ほどのショットのリテイクだ。車のタイミングが合わない。人の歩きが不自然だ。主役の歩きが遅かった…そんな微妙なバランスを見守りながら、監督トリュフォーは何度も何度もテイクを重ねる。どこからともなく撮影快調を思わせる音楽が流れてくる。それはシナリオにはヴィヴァルディ風と記してはあるが、どちらかというとバッハの「ブランデンベルグ協奏曲第5番」を思わせる調べだ…。

 

 

Close Up

 今回の撮影に参加している人々には、それぞれの人間模様がある。映画とは裏腹の、あるいは映画に関わっているなりの理由があるのだ。

 言うまでもなくこの映画を司っている存在がトリュフォー監督。彼はその私生活を一切露わにはしないし現場にも持ち込まない。彼の行動のすべては映画に貢献するものばかり。プロデューサーであるジャン・シャンピオンの庇護のもと、撮影を指揮する彼の唯一の助けとなるのは、助監督にして共同脚本家の女性ナタリー・バイのみ。彼女はお楽しみより男より、まずは映画というタイプの女だ。今までもトリュフォー監督の片腕として、彼の作品を支え続けてきた。

 やはりトリュフォー監督と長くコンビを組んできたのが先ほどの若手俳優レオ、トリュフォーはまるで親代りのように彼に親身になっていた。

 そんなレオは今回の撮影に、自分の恋人ダーニを参加させていた。片時も離れていたくない、そんな彼の思いから彼女をこの映画のスクリプターに雇わせたのだった。だが、実は彼女はこの仕事にさほどの熱意も感じてはいない。とりあえず恋人のレオに言われるがまま参加したものの、彼女は映画の世界に大した愛着も持っていない「普通」の人種だったのだ。さらにレオの暑苦しい愛情に少々辟易し始めてもいた。

 レオの父親役のオーモンと母親役のヴァレンティナ・コルテーゼは、長く大スターとして君臨していた伝説的俳優たち。ヨーロッパのみならず、かつてはハリウッドでもその魅力を発揮していた。そして長いキャリアの中で二人は何度も共演していたし、実は少なからず恋仲になったこともあるのだ。そんな酸いも甘いもかみしめた二人のやりとりは、レオの恋愛などとは比べものにならない大人の粋を感じさせるものだった。

 そこに小道具係ベルナール・メネズ、衣装メイク係ニク・アリギなどなど、さまざまな人物が交錯する。

 おっと、忘れていた。今回の映画の目玉とも言えるスター。わざわざ遠くハリウッドから呼んできたジャクリーン・ビセットがいる。彼女は美しく演技力も充分な人気スターだが、実はつい最近精神を病んでしばらく休養をとっていた。この作品はそんな彼女の復帰第一作。そのことに不安がないではないが、いちいち不安を気にしていたら映画なんてものは出来るわけがない。映画制作全体が不安の塊とも言えるからだ。彼女はこれからニース入りして、撮影に参加することになっていた。

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Monologue

 撮影快調と言いたいところだが、万事うまくいく映画制作などこの世には存在しない。万事うまくいく人生などないのと同じように…。

 撮影済みの例のエキストラ場面は、現像所の事故でリテイクすることになってしまった。幸い保険が降りるものの、スケジュールとエキストラの調達はどうする?

 おまけに資本参加しているハリウッドの映画会社が、スケジュールの切り詰めを言い渡してきた。果たして撮りきれるのか? まかせろと言ってはみたものの、トリュフォー監督の悩みは尽きない。最初は万全の体制で撮影に臨んだものの、次から次へとトラブルは降りかかってくるものだ。

 完璧にやろうとしてたのに、いつの間にかアップアップ状態。トリュフォー監督にとって映画づくりとは常にそんなもののように思える。そんなつぶやきを聞く限りでは、彼はクロサワやキューブリック・タイプの監督ではあるまい。彼にとっては映画づくりとは完成されつくした「作品」ではない。その場しのぎで何とかやりくりしていく「人生」そのものなのだ。

 そんな撮影現場ではベテランのコルテーゼがセリフをトチってNGの嵐だ。歳をとって記憶力が鈍ったのか、彼女の表情には焦りの色が濃くなっていく。イタリア映画のように適当なことをしゃべって後でアフレコでごまかそうと提案するが、ここは同時録音でやるしかない。ベテランなのにベテランだからこそ、苦悩は深い。女優は歳をとるといい役が来ないなどと泣きも入る始末だ。結局カンペで乗り切ったものの、彼女の心労は消えない。彼女の息子が重病で余談を許さない状況である限り…。

 その点、オーモンはいつも飄々としたもの。終始一貫、余裕しゃくしゃくで仕事をこなす。だが、そんな彼が撮影が終わった後に車を飛ばして行く先は…空港でオーモンに出迎えられた若い男は、一体彼とどのような関係の人物なのだろうか?

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Flash Back

 そして、ついにやって来たハリウッド女優ビセット。人当たりもよく演技もうまい。だが、どこか漂うひ弱な雰囲気。彼女は結婚したばかりの夫を伴って現れた。それは親子ほども歳が離れた白髪の紳士デビッド・マーカム。彼は彼女の精神科の主治医だった。彼女の治療に携わっているうちに彼女に惹かれ、妻子を捨てて結婚した彼。ビセットはそんなマーカムに頼り切っている様子だったが、彼は仕事で戻らねばならない。ともかくは撮影期間中は乗り切れるはずとの判断で、夫は去って行った。

 同じ頃、レオとダーニの関係は危機的状況を迎えつつあった。やはり暑苦しいレオの愛情が、彼女の重荷になって来たのだった。口ゲンカが絶えない二人。しまいにはダーニが吐き捨てるようにつぶやく。「自分の子供時代のツラさを、誰かに償わせようなんてどうかしてるわ!」

 そんなトリュフォー監督、撮影中は文句も言わず、グチももらさずバカもやらないこの男。実は人には言えない、あるトラウマに悩まされているのだ。

 一日の仕事で疲れ切ってベッドに横たわった後、毎晩彼は真の安らぎを得られはしない。夜な夜な悪夢に苦しめられ、うなされているのだ。

 それは子供の頃の夢。夜中にこっそり映画館まで忍んで行って、貼ってあるスチール写真を盗み出す夢。心臓が張り裂けそうになるその緊張感、その罪悪感、そしてその悪しき悦び。

 汗をビッショリかきながらベッドでうめく彼を、人は誰も知らない。

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Montage

 ところが、悪いことは続く。うまく慣らしたはずのネコが、カメラの前で思い通りの動きをしないなんてことは些細な問題だ。秘書役に雇った女優アレクサンドラ・スチュワルトが妊娠を隠していたが、契約があって降ろせないなんてことは、カメラアングルと編集で逃げればいいからどうってこともない。だが、事はもっと深刻にこじれ始めた。

 たまたまカースタント場面で雇った英国人スタントマンのマーク・スペンサーと、あのレオの恋人ダーニがデキてしまったのだ。そのままレオを捨てて、スタントマンとロンドンに去ったダーニ。これでレオはボロボロ。「女は魔物」だの何だのとグチをたれまくったあげく、部屋に引っ込んで出てこない。仕事にならない。あまりの失意のドン底ぶりに、ビセットがレオについつい同情を見せたのがいけなかった。

 案の定、起きてはいけないことが起きた。

 同情でレオとベッドを共にしたビセット。だが甘ちゃんレオには分かってない。撮影をフケてトンヅラ。よせばいいのにビセットの夫マーカムに電話して、彼女と別れてくれなんて言い出した。その後、マーカムからビセットに電話が来たとたん、彼女はふさぎ込んで部屋から一歩も出なくなった。

 さぁ大変! 最悪の事態が起きてしまった。

 そんな彼女の気持ちをなだめるために、スタッフがどんな手を使ったかはぜひ映画を見て欲しい。ともかく何とか涙をぬぐってプロらしく仕事への復帰を決意したビセットは、控室を訪れたトリュフォー監督にきっぱりと言い切るのだった。

 「私は自分を許せない、これからは一人で生きていきます」

 やがて逃げていたレオが見つかった。スネる彼に噛んでふくめるように、トリュフォー監督は言い聞かせる。さぁ、しっかり仕事をするんだ。本物の人生なんて不完全なものだ。その点、映画は淀みなく流れる。

 「僕ら映画と出会ってしまった人間は、映画あってこそ生きていけるんだ」

 やがて心配したビセットの夫マーカムも駆けつけた。大人の紳士の彼は、そっと優しく彼女を許したのだった。

 そして突然のひらめきを得たトリュフォー監督は、いきなり翌日の撮影ぶんのセリフの直しをビセットに与えた。

 「私は自分を許せない、これからは一人で生きていきます」…ですって? まぁあきれた、私の言葉そのものじゃない!

 これぞ究極のリアリズム、「実感」の映画づくりか(笑)?

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Special Effects

 何とかかんとかダマしダマし、綱渡りを続けてきたこの映画撮影。だが、最後の最後で綱から落ちてしまうような事態が起きた。

 例によって例のごとく若者を迎えに行ったオーモンが、自動車事故で死んでしまったのだ。

 さすがにガックリのトリュフォー。だってまだ出番が残っている。一番大事なラストも撮ってない。保険会社もハリウッドの映画会社も、代役で撮り直しまでは許してくれない。せいぜい数日間の撮影延長だけだ。

 さぁ、どうする、どうする?

 無意味な取り残しはカットだ。なくてもいいところだってある。あるいはオーモンがいなくても大丈夫なカットに変更しよう。完全主義?…そんなものがなんだ。思った通りにいかない?…だから何なんだ。ショーは続けなければならない。それは人生と同じ。やめることなんか出来ないんだ。

 だが、ラストはどうする? 息子と父親=レオとオーモンの対決は?

 代役でいこう!

 最後は後ろ姿の父親を拳銃で撃つことにするんだ。その方が憎んでいる感じがするじゃないか。そうだ、その場面は雪にすれば劇的じゃないのか。たちまち冒頭の街のセットに人工雪が降らされる。そして、オーモン代役を後ろから撃ち殺すレオ。

 あれれれっ? ひょっとして…こっちの方が元のプランよりいいんじゃないの??

 災い転じて福…と人は言う。なるほどそうも言えるだろうね。だがそもそも、災いのない福などあるのだろうか?

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Final Cut

 撮影は終了した。スタッフとキャストが撮影所から散りぢりに去っていく。テレビ取材班は、ビセットの不倫騒ぎやらオーモンの死亡やらのトラブル話をほじくり出そうとしてやっき。だが、誰もそんな質問には応じない。ただ一人だけ、目立ちたがり屋の小道具係が応じたが、彼とても取材班の望むようなトラブル話はしなかった。

 「すこぶる快調でしたよ。僕らはすごく楽しかった。この映画を見るお客さんもきっと楽しんでくれると思いますよ!」

 でも、彼は決して偽っていたわけではない。映画ってそういうもの、人生もそういうもの。いつだってままならないし、だからといって悪いことばかりとは言い切れない。そんなサプライズがあるから素晴しい。

 僕もたっぷり楽しんだ。この作品だけじゃない。他にもたくさんの映画を見て、しがない映画サイトをつくってきてとっても楽しかった。

 もちろん、僕の人生は素晴らしかったよ。最初から見ていけば、きっと分かるはず。この言葉にウソはないからね。

 

 

 

 

映画に愛をこめて/アメリカの夜 La Nuit Americaine (Day for Night)

(1973年・フランス、イタリア)

監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール、シュザンヌ・シフマン

出演:ジャクリーン・ビセット、ジャン=ピエール・レオ、ジャン=ピエール・オーモン、ヴァレンティナ・コルテーゼ、アレクサンドラ・スチュワルト、ナタリー・バイ、フランソワ・トリュフォー

 

 

 

夫馬 信一(映画館主・F)

当サイトのタイトルでもある「アメリカの夜」を語るのは念願でした。これを終えた今、当サイトは開設当初にあった目標をすべて終了したことになります。

DAY FOR NIGHT - SHINICHI FUMA'S Movie Fan Site

http://plaza.harmonix.ne.jp/~fuma/

 

 


 

 

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