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映画を語る映画たち

B:フィルムの蜃気楼

Illusion in Film


ポーランドが生んだ硬骨の映画人アンジェイ・ワイダ。そんな彼の中期代表作「大理石の男」は、ポーランド現代史を描きながらも一種の映画論となっています。ワイダと言えばこの人、タイバーン・ヘルミさんが語ります。


 

 

 フィルムに映った歴史の闇「大理石の男」

 The Shadows of the History in "Man of Marble"

 タイバーン・ヘルミ

 by Taivaan Helmi

 

 

 どんな映画かまずは紹介を――

 

 スターリニズムとの闘争を経て幾らかの自由を取り戻しつつあった'70年代のポーランド人が、'50年代の真実を追求しようとする姿をアンジェイ・ワイダが描く――映画大学の女子学生が卒業制作のテーマに'50年代の労働英雄を選ぶ。かつて映画になるほど讃えられた優秀な煉瓦工が、なぜ無残にも忘れ去られたのか、隠された真実を探ろうと親しかった人々を訪ね歩く。友人を弁護したため投獄され妻も去ってしまう。労働英雄は死んだのか……。

監督:アンジェイ・ワイダ

出演:イエジイ・ラジヴィウォヴィチ/クリスティナ・ヤンダ

(ビデオのパッケージ裏より引用)

 

さらに詳しいデータも。

『大理石の男』 CZLOWICK Z MARUMURU

エクス・フィルム・ユニット1977年作品

製作担当バルバラ・ペツ=シレシツカ

脚本アレクサンデル・シチボル=リルスキ

撮影エドワルト・クウォシンスキ(イーストマンカラー)

音楽アンジェイ・コジンスキ

編集ハリーナ・プルガル、マリア・カリンチスカ

録音ピョートル・ザヴァツキ

出演者

イエジ・ラジヴィオヴィッチ(マテウシ・ビルクート/その息子マチェック)

(注・劇中、ビルクートはマテウシュとも呼ばれる。)

クリスティナ・ヤンダ(アグネシカ)

タデウシ・ウォムニツキ(映画監督ブルスキ)

ヤツェク・ウォムニツキ(青年時代のブルスキ)

ミハウ・タルコフスキ(ヴィンチェンティ・ヴィテク)

(注・劇中、ビットリオ、ビテックとも呼ばれる。)

ピョートル・チェシラク(ミハラク)

ヴィエスワフ・ヴィチク(書記ヨドワ)

クリスティナ・ザフヴァトヴィッチ(ハンカ・トムチク)

マグダ・テレサ・ヴイチク(編集者)

ボグスワフ・ソプチュク(テレビ局の編成係)

レオナルド・ザヨンチコフスキ(カメラマンのレオナルド・ブリボス)

イレナ・ラスコフスカ(博物館員)

スジスワフ・ラスコフスカ(アグネシカの父親)

上映時間161分

ワルシャワ公開1977年2月

1978年カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞

80年文化庁芸術祭大賞受賞(日本公開1980年9月6日 岩波ホール)

(以上、『鷲の指輪』パンフから引用)

 

* * * * * * * *

 何が真実で何がウソだったのかわからなくなる映画でした。

 本当は、映画の話をするのに思想の話題を持ってくるというのは荒れる元なので避けたかったのですが、どうしても共産主義、社会主義、はっきり言えば戦後ポーランドを席巻したソビエト連邦の国家的政治思想に触れないわけにはいかないのでお許しを。

 現代の日本に、1950年代のポーランドのことを詳しく知っている人が果たして何人いるでしょうか? 私もそんなに詳しく知っているわけではないので偉そうなことは言えないのですが、そりゃもう、現代の日本人には想像も出来ないほど、物資は枯渇し人間の精神内面も抑え込まれた苦しい時代だったと想像に難しくありません。正義と言えばそれはすなわち党の正義であり、個人の正義など全く認められない世界。裏切りと謀略が渦巻く世界。真実を語ることが許されない世界、そんな世界の中で、アンジェイ・ワイダ監督映画を撮り続けました。

 この映画『大理石の男』には、ワイダ監督が映画を撮り始めた50年代後半のポーランドの社会状況が、おそらくそのまま描かれています。

 というようなことを書くと、“この映画は社会派ドラマなのか”ととられそうですが、実は全然違います。劇中に流れるBGMを聴くと、『灰とダイヤモンド』や『地下水道』、『鷲の指輪』(以上はNHK教育で放映したことがあるので挙げてみました)でワイダ監督を知った人なら、必ず違和感を抱くはず。アメリカの70年代80年代のノリ。実際に劇中で「アメリカ映画を撮っているんじゃないんだぞ」というセリフもあったりします。 とにかくポーランドの複雑な歴史を知らなくても十二分に面白い。上映時間161分を退屈させない映画です。内容的には「女子学生が卒業制作で映画を撮る」というものなのですが、それが50年代のポーランドの時代を取り込んでミステリー仕立てになっています。それ以前に「事実は小説より奇なり」を地でいく50年代のポーランドが、我々の感覚からすると現実が創作の遥か斜め上をいっているので、驚くことしきり。それにしても、当時の社会状況、時代を冷静に見詰めてこんな映画を撮ることが出来るワイダ監督はやはりすごいと感嘆しました。

 この映画は1977年の製作で、しかも舞台の半分は50年代ですから、現代の人にどこまで通用するのかちょっと心配ではあります。さらに言うと、こういう言い方が適当かどうかわかりませんが、この4年後の81年に公開された『鉄の男』の前フリみたいな映画なので、この映画の終わり方は非常に尻切れトンボに感じるかもしれません。これで納得がいかない人は(そうでない人も)『鉄の男』を併せて観ていただければ幸いです。

* * * * * * * *

 この『大理石の男』は先に触れた通り、「女子学生が卒業制作で映画を撮る」というのが前提にあり、50年代の記録映画を70年代の出演者が観るというシーンが劇中に何度か出てきます。我々観客は、出演者と共に記録映画を何度か観ます。正確には記録映画を観ている出演者の姿を観る、ということになるでしょうか。そうしたことが繰り返されることによって、出演者と精神的距離が近くなり、感情移入がしやすくなるという効果があるかと思います。映画が進行する中で、我々は映画制作を共に行ないながら(というか、そのような気持ちになりながら)、労働英雄ビルクートの末路に近づいていくわけです。

 とにかく、自分の撮りたいものを撮る苦労というのがよくわかる映画でした。50年代後半に映画を撮り始めたワイダ監督の実体験がそのままスクリーンに投影されている部分が多分にあると感じます。

 ワイダ監督は、この映画でも、溜まりに溜まった共産主義への特別な感情をさりげなくスクリーンに登場させています。劇中において、50年代のポーランドの支配層が、抽象芸術を「これのどこに人間の心があるのだろうか」と批判するシーンとして出てきました。このシーンで、ワイダ監督が共産主義をドイツの国家社会主義と同列に置いていることがわかります(NSDAP:国家社会主義ドイツ労働者党は抽象画を“退廃美術”と名付けて徹底的な弾圧を加えました)。これは、人間の精神の内面に国家が手をねじ込んで操作すること、精神の自由を認めない政治思想、人間の内から溢れ出る創作意欲を叩き潰すことに対するワイダ監督の強烈な怒りの現れなのでしょう。

 また、『大理石の男』の中では、何度も記録映画風の映像が流されます。労働者が不満を爆発させて、共産党幹部にぶつけるシーンは没(カット)にされて、捏造された幸せだけがスクリーンに流れる。自由主義諸国を徹底的に蔑み、共産主義の素晴らしさを宣伝する。こういう映像を入れることによって、真実を伝えない記録映画が記録として残ることに対する映画人ワイダ監督の怒りが見え隠れします。

 全体主義国家は大量のプロパガンダ映画を創り出しました。それらは言うまでもなく、その当時の政府にとって都合のよいものだけが映し出された代物です。50年代のポーランドの民衆は、そんな記録映画を観せられ、しかもそれを拒否できない状況にありました。捏造された真実を何百回、何千回と観せられたときのサブリミナル効果を考えると、薄ら寒いものを感じます。

 しかし、それでもなお、ワイダ監督はその怒りをストレートに表現することを避けています。劇中の記録映画『幸せの建設者たち』の中に、ワイダ監督は Asystent rezysera (すみません、ポーランド語はわかりません<*編集者・注を参照のこと>)として自分の名を刻み込んでいます。そこに私は、ワイダ監督が共産主義思想への感謝、というか複雑な感情ををさりげなく表しているように感じました。磨かぬ玉は光らない、という言葉どおり、ワイダ監督は共産主義による映画制作の苦労があったからこそ、現在の地位があり、映画制作活動ができるのではないか、と。当時の社会体制が良かったか悪かったかはひとまずおき、自分を作り上げてくれた社会、時代へのオマージュがこの映画『大理石の男』には込められているような気がします。

 

 我々は映画を観るとき、一時間半だか二時間だか、スクリーンに映し出された部分しか目にすることができません。実際には、その上映時間の裏には膨大な時間と様々な苦労が隠されています。映画制作者は政治的に苦労し、天候に苦労し、それ以上に人集め、資金集めに苦労しますが、そういう部分は、観客が目にする機会はほとんどありません。

 今回、『大理石の男』をあらためて観直す機会を得て、スクリーンの裏に隠された映画製作の苦労という陰の部分を目にすることが出来ました。

 映画制作に携わるすべての映画関係者の方々へ、その多大なる苦労に深い感謝を申し上げたい次第です。

(〆)

 

以下、単なる感想。

『大理石の男』

 以前、館主F様から「映画は旬のもの」と言われたことがあるのですが、まさしくその通りで、今回、こうして原稿を書かせていただくにあたり、『大理石の男』を見直して出てきた感想が

「こんな映画だったっけ?」

と、ずいぶん昔に観たときの印象と変わっていました。

 まぁ、今回のテーマ「映画の中の映画」を頭に入れて観たから、そう思っただけなのかもしれませんが・・・。

 思い返すと、感動の泪を流したという過去の記憶だけを頼りに、ビデオを借りて観てみたら、

「なんじゃ、こりゃ? こんなつまらない映画だったっけ?」

ということになったことが何度かあります。その逆もありますが、それは極めて数が少ないです。今回観た『大理石の男』は、その数少ない逆のパターンでした。

 以前観たときには、「なんかわけわからねえ映画」くらいにしか思っていませんでした。なにしろ、内容をほとんど覚えていないぐらいでしたから。あらためて観てみて、面白い! 本当に映画の中に引き摺り込まれました。161分がえらく短く感じました。観た翌日、『鉄の男』のビデオも買ってしまいました。結局、ビルクートの息子とアグネシカって(略)。

 それにしても、ビルクート役のイエジイ・ラジヴィウォヴィチは、アンドリュー・プライン(『グリズリー』とか『V』シリーズに出演している俳優)に似ているような・・・。

 

 劇中、編集者とアグネシカの会話に

ア:「なぜ、彼はこうなったの? 彼の末路は?(なぜビルクートは労働英雄の座を追われたのか)」

編:「それをあなたが撮るのよ」

というものがありましたが、この部分はワイダ監督が映画を撮るときの姿勢を言い表しているような気がします。普通の人間なら、50年代後半に『地下水道』『灰とダイヤモンド』みたいな映画を撮ろうとは思わないでしょうから。

 また、労働英雄だったビルクートの生き方にも心打たれるものがあります。このビルクートは農家出の教育のない青年なのですが、非常に自分に素直で正直な生き方をしています。しかし、その個人の素直さや正直さを当時のポーランドの社会状況は許しませんでした。ここでワイダ監督は、「政治イズムと人間個人の善良さのどちらに重きをおくのか」という課題を、我々観る者に突きつけているように感じました。

 今の映画に慣れた人には、このラストは物足りないかもしれないですね。オチがついているようで観る者の疑問には何も答えていません。ビルクートがどうなったのか。その末路は? でも、「その後、どうなったか」なんてのは、この映画のストーリーの大勢に影響はないように思います。足りない部分は想像力で補えばよく、観る人によってこの映画のラストは違ったものになるでしょう。

 今回、『大理石の男』を観て、一番感動したのが、最後のほうに出てくるアグネシカとその父親のやりとりの部分でした。苦労して撮った映画をさんざんけなされ没にされ、撮影器材も取り上げられて、落ち込む主人公・アグネシカ。失意の娘を気づかい励ます父親。こんな何気ないシーンに私は心を奪われました。以前見たときにはまるで気づかなかったシーンです。私もこんなふうに自然な形で娘を励ますことのできる父親になりたいと強く思いました。

 この映画も『地下水道』と同じで、ポーランド人にしか真の意味はわからないのかもしれません。それでもこの映画の価値というか面白さは変わらない。やはりアンジェイ・ワイダはすごいです。

 ええもん観せてもらいました。

 

*編集者注:"Asystent rezysera"とは「助監督」の意味のようです。これにより、この当時まだ一本立ちしていなかったワイダが、助監督という身分とは言え虚飾に満ちた社会主義プロパガンダ映画の制作に手を貸していたということを間接的に告白。単に他者を一方的に批判するような偽善の愚を避けた、ワイダの作り手としての誠実さを伺わせる処理であると言えます。

 

 

 

大理石の男 Czlowick z marumuru (Man of Marble)(1977・ポーランド)

監督:アンジェイ・ワイダ

製作:バルバラ・ペツ・シレシツカ

脚本:アレクサンドル・シチボル・リルスキ

出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、ミハウ・タルコフスキ、タデウシュ・ウォムニッキ

 

 

 

タイバーン・ヘルミ

千葉県柏市に住む氏のHNの由来は、フィンランド語で「Taivaan helmi」=「空の真珠」という意味だそうです。

 

 


 

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