「E. T.」20周年アニバーサリー特別版

  E.T. - The Extra-Terrestrial : The 20th Anniversary Edition

 ロング・バージョン

 (2002/05/13)


 

手早く結論知りたい人はこちら

 

 

今蘇る、あの20年前の興奮

 「E.T.」を20年前に見た興奮は、今でも忘れられない。当時、僕は大学3年生。当時好きだった女性と見に行ったことを覚えている。彼女は同じ歳だったがすでにOLとして働いていた。何から何まで甘ちゃんだった僕の世間知らずなところは、もうすでに彼女にはスッカリお見通し。それが何とも僕としては面白くなかった。

 そんなこともあったのだろうか。僕はこの映画を彼女と見に行った後、些細なことで彼女と言い合いをしたような記憶がある。お恥ずかしい話だが、僕はこの映画を見て泣いてしまった。劇中二度ほど泣かせどころがあって、そこを彼女に見られてしまったのだ。後でさんざそれをからかわれ、そもそもガキ扱いされていて面白くなかった僕は、彼女に辛く当たったような気がする。今考えてみれば他愛もないことで言い争ったものだ。今なら少々年齢を重ねてズルくなった僕だから、逆に女にわざとらしく甘えてうまいことベタベタするかも(笑)。だが、当時の僕にはそんな老練で狡猾な考えはまだなかった。結局彼女とはうまくいかなかったが、それも今にして思えば僕がガキだったからだね。女一人をガッチリ受け止める、包容力とやらに欠けていたのは否めない。今ならその包容力があるのかと言われれば、返す言葉もないが。

 僕がスピルバーグの映画を好きなこと、彼の映画に単に映画ファンとしての興味以上のものを抱いていたことは、すでにこのサイトでも何度も披露してきたことだから、改めてここで云々する気はない。だが、単に映画作品として考えても、この映画がスピルバーグ作品の質的頂点を極めていることは言を待たない。そして、実は20年経った今日においても、それは変わっていないと信じている。

 そんなこの作品「E.T.」が20周年の特別版として装いも新たに劇場に帰ってきた。これは、改めてこの作品を検証するにいい機会だ。今の目で見て、果たしてこの作品はいまだ優れた作品としてそびえ立っているのか。そんなお堅い話は抜きにしても、改めてあの作品の世界にどっぷり浸ってみるのもいい機会だろう。

 当時は僕も20年経って再びこの作品と相まみえることになるとは夢にも思わなかった。その20年の間に僕に何があったのかを思い浮かべながら、改めてこの作品に接するのも感慨深いものがある。

 実はこのサイトを始めるに当たって、やりたい事がいくつか課題としてあったのだ。一つはロン・ハワードの「身代金」と黒澤明の「天国と地獄」の関連について書くこと、またもう一つは香港映画「誰かがあなたを愛してる」の感想文を書くこと…そんな課題を一つひとつクリアしていった中で残ったのが、実はこの「E.T.」についての文章を書くことだった。そして、そんな僕に遺された課題はあと一つ…。それはともかくとして、ようやく念願の「E.T.」についての文章をここで書ける機会が訪れたことを、僕は素直に喜びたいと思う。

 

子供たちの前に現れた未知の「何者か」

 夜も更けた森に、見知らぬ巨大な宇宙船が降り立っている。そこから地上に降り立った「何者か」が、あっちでチョコチョコ、こっちでチョコチョコ。何やら標本でも熱心に採集中。宇宙船の中に「永谷園松茸の味お吸い物」やら紅茶キノコやら、地球のあれこれを集めていた。東海道五十三次カードも集めてるのか?

 ところがそこに異変が起きた。何やら危険を察知したらしく、それらの「何者か」の胸が「アメリ」の心臓みたいに透けてピカッと光ったではないか。一体どうした? マチュー・カソヴィッツでも見つけたのか?

 その頃、標本採集に夢中で森の奥まで行っちまった「何者か」が一名。こいつはあまり深入りしすぎたもんで、例のピカッに気づいていなかった。どんどこ高台を行くと、眼下に見える新興住宅地の街の灯。それに見とれてボーッとしていたのがよくなかった。ふと気づくと何台もの車がやって来て、人がワンサカ降りてくるではないか。

 ヤバイ! 間の悪いことに物陰に隠れた今になって胸がピカッときた。なんだなんだとやって来た連中が、物陰に潜む「何者か」の存在に気づく。逃げろ〜っ。

 慌てて草むらをひた走る「何者か」。それを追う大勢の連中。ヤバイヤバイヤバイ。逃げても逃げても追ってくる人間たち。中でもリーダー格の、カギたばを下げた男がしつっこいこと。「何者か」の背後に、そのカギのチャラチャラした音が迫ってきたその時!

 ゴゴゴゴゴ〜〜〜〜〜ッ!

 宇宙船が轟音と共に飛び立った。唖然呆然とする人間たち。だが唖然としたのは彼らだけではなかった。例の「何者か」はまだ地上にいた。何だ、俺は置いてかぼりかよ〜。

 宇宙船の出現に固まっていた人間たちが、再び「何者か」の存在に気づいた時、そいつは慌てて高台から下界に降りていってしまった。下界…すなわち住宅地のある方向である。

 その頃、その住宅地の一角の家では、ガキどもが集まって人生ゲームをやっていた。一家の長男ロバート・マクノートンとその悪ガキ仲間トム・ハウエル、K.C.マーテル、ショーン・フライといった連中だ。次男でまだ10歳のヘンリー・トーマスも仲間に加わろうとウズウズしていたが、兄貴連中はガキンチョの相手なんかしてくれない。

 「だけどよぉ、もういいかげんこの人生ゲーム飽きたよなぁ」

 「お兄ちゃん、僕も入れて僕も入れて」

 「だって、これもう古いバージョンだぜ。飽きるわけだよな」

 「ねえ、入れてよ入れてってば」

 「何でも新しいやつだとAV女優への道ってのもあるらしいぜ」

 「入れてよ、いいでしょう?」

 「そりゃスゲエや。AV男優ってのもあるのかな?」

 「入れてって言ってるのにぃ!」

 「うっせえな、このガキ! 注文したピザ取りに行ったら入れてやるよ」

 トーマス少年、これには喜んで外にパシリに飛び出した。宅配ピザのアンチャンからピザを受け取る。そして家に入ろうとしたその時、すべての事件の発端は始まった。

 家の外の物置で何やら物音が…。

 つい気になったトーマス少年、よせばいいのにピザ持ったまま物置に近づいていき、手近にあったボールを物置に放り込んでみたら…戻ってきた!

 うわっ! トーマス少年、ピザを踏んづけて慌てて家の中に一目散。大変だ大変だ、物置に誰かいるぅ!

 ちょうど帰宅していた母親ディー・ウォーレスもそれを聞きつけた。だが、兄貴連中はまるで面白がって言うことを聞かない。ちょうどゲームに飽きたところだとドヤドヤみんなで物置を見に行った。だが、当然のごとく誰もいやしない。コヨーテでも出て物置を荒らしたんだろうと話は落ち着いて、結局トーマス少年ピザを台無しにしただけという一幕となった。

 だが、どうにも収まらないトーマス少年。夜更けに再び懐中電灯を持って家の周辺をウロウロ。すると草むらに何かいる。懐中電灯で照らしてみると…。

 うわっ!

 何やら小柄で顔がデカイ、「がきデカ」のこまわりみたいな奴が潜んでた。だが、驚いたのはあっちも同じらしく、「死刑っ!」とは言わずに脱兎のごとく飛び出して走り去って行った。後にゴミ箱をとっ散らかしたまま。

 もうトーマス少年は夢中になってしゃべるしゃべる。家族の食卓の場でその話をしっぱなし。兄貴のマクノートンはまるで相手にしないし、妹のドリュー・バリモアは面白がってるだけだし、お母さんのウォーレスも話半分に聞いているだけ。これにはトーマス憤慨した。思わず言ってはならない一言を吐く。

 「パパがいれば話を聞いてくれるのに」

 これはいかにもマズかった。実はパパは女をつくって現在別居中。このセリフにはガックリ落ち込んで、ウォーレス母さん涙ぐんでしまった。当然のごとく兄貴のマクノートンは怒る。結局トーマス少年、自分の株を大いに下げただけというテイタラクだった。

 それでもめげないトーマス少年。お店でマーブルチョコを山ほど買い込み、例のこまわりを餌付けしようという魂胆だ。ところが街の近くの森に行ってマーブルチョコを撒いていると、何やら怪しげな男が探りを入れているではないか。そのズボンにはカギたばがチャラチャラ。怪しい。何とも怪しい。

 今夜もトーマス少年は家の外で寝ずの番をしようと待ちかまえていた。しかし子供はおねむの時間。うっかりウトウトしかかったちょうどその時…。

 目の前にこまわりがいた!

 いざとなるとビビッて声も出ないし動けないトーマス少年。そこにこまわりがジワジワ近づいてくる。何やられるかと固唾を飲んで見守ると、こまわりは手を伸ばして少年の膝元に例のマーブルチョコを置くではないか。僕の餌付けが成功したんだ!

 早速マーブルチョコを餌にして、コッソリと家の中にこまわりを誘い込むトーマス少年。どんどん誘い込んで、何とか自分の部屋に匿った。腹が減っているだろうと食い物を調達。ようやく一息ついたその時、こまわりこと「何者か」はさすがに眠くなってきたみたい。するとなぜかトーマス少年にも猛烈に睡魔が襲ってきたのだった。

 翌朝、一計を案じて学校をズル休みしたトーマス少年は、家の中でいろいろこまわり教育に余念がない。地球のことをいろいろ教えなくては。言葉をしゃべれればさらに申し分ない。ジタバタしているうちに、こまわりを風呂の湯船で溺れさせそうになったりもしたが、とにかく何とか一緒に時を過ごした。

 そこに一足先に兄貴のマクノートンが帰宅。トーマス少年、ここは何と言っても兄貴の力を借りなくてはと、彼にこまわりを見せることにする。絶対秘密にするって約束してよ。じゃあこっち向いて!

 マクノートンがこまわりを見て唖然としたその時、不用意に部屋に妹のバリモアが飛び込んできたからたまらない。

 きゃ〜〜〜〜〜〜っ

 同時にぶったまげるこまわり。慌てて押し入れに妹と兄貴とこまわりを隠す。悲鳴を聞いて母親も飛び込んできたが、そこを何とかトーマス少年、寒いギャグで乗り切った。納得したんだかしなかったんだか、とにかく母さんが引き下がった後で、兄貴と妹を前にトーマス少年断固して言い切ったんだね。こいつは僕が守ってやるんだ。ママにも内緒だよ。

 さぁて、子供たちはもうこまわりに夢中。バリモアが植木鉢の枯れた花を持ち込むと、こまわりはどういう力を使ったのか、この花を見事に蘇らせてしまった。こうなりゃこまわりに言葉を覚えさせなきゃ。ここは地球だよ、僕らの家=ホームだ。

 そう聞くとこまわりは寂しそうな表情をして、窓の外遙か彼方の方角に目をやってつぶやくのだった。「ホーム…」

 やつは宇宙から来たんだ。そして家に帰りたがっている

 翌日はさすがに休めなかったトーマス少年、兄貴と一緒に学校へ。兄貴の悪ガキ仲間たちはトーマス少年をバカにして、やれ「怪物はどうした」だのどうのと罵声を浴びせる。トーマス少年、キジも鳴かずば撃たれまいに、「宇宙人だよ!」と言い返すからさらにバカにされる。どこの星から来た? カーバ星か? バーカってことだよてな寒いギャグ飛ばすこのガキどもはオヤジ並みにギャグにキレと若さがない。頭に来たトーマス少年にポカッとやられて、「イッテェ〜〜〜…そうだ、イーティーだ、E.T.って呼べよ」って、そんな安易な命名だったかどうか。ともかくトーマス少年もなぜかその名前はいかしてると思ったみたいだから、オヤジ度はどっちもどっちかも。

 その頃、このE.T.は居候のくせに人の家でやりたい放題。冷蔵庫の食い物は荒らすわテレビはつけるわ。あげくの果てにビールに手を出すもんだから、まだ陽の高いうちからホロ酔い加減。すると、なぜか学校で理科の授業を受けていたトーマス少年まで酔っぱらってきた。隣の席の気になるミヨちゃんことエリカ・エレニアックに妙な色目を使い出す。酔うと女にだらしない奴は僕も数多く知っているが、こいつも飲んべえになったらタチが悪そうだ。

 E.T.は家のテレビで電話のシーンを見て、またしても故郷に連絡とりたいなんて物思いに耽る。トーマス少年はと言うと、解剖授業で殺すばかりのカエルを見て、何となくE.T.を思い出して忍びなくなってくる。結局我慢しきれなくなったトーマス少年は、先生の制止を振り切ってカエルを逃がすことにした。こうなると授業はメチャクチャ。みんながカエルを逃がし始めて教室は大混乱だ。憧れのエレニアックちゃんもカエルにキャーキャー言っている。その時、E.T.はと言うと、テレビで昔の映画の熱烈キス・シーンを見て感動。それに突き動かされたか、それとも元々女の子には並々ならぬ関心があったのか、トーマス少年はエレニアックちゃんをガッチリ掴んで、E.T.鑑賞中の映画のキス・シーンよろしく彼女の唇にブッチュ〜ッとキスをば一発かました。トーマスおまえも男だねぇ。おまけに彼女のまだツボミの胸をばムギュ〜ッと…と思ったか思わないかしたその時、トーマス少年が先生に引っ張られていったことは言うまでもない。

 その頃、バリモアちゃんを連れてご帰宅のウォーレス母さん。バリモアはそこにいたE.T.を何とかママに紹介したくてウズウズしているのだが、生活に疲れたウォーレス母さんはそれどころでなくて全然見もしないし、聞いてもくれない。母さんがアッチ行けばE.T.はコッチ…てなドリフの「全員集合」コントみたいなやりとりが延々続いたあげく、学校からトーマス少年の大立ち回りの一幕を電話で聞いて母さん慌てて出ていった。やれやれ。

 さて、夜にはまたしてもE.T.を囲んで子供たち三人の恒例の宴が始まった。ところがE.T.はいまやある考えに夢中になっている様子。それは…「フォーン・ホーム!」 そう。E.T.はお家に帰りたい。だから、連絡をして迎えに来させたいというわけだ。そんなこと出来るのか? いや、頭がよくて特殊能力を持ったやつなら出来る。早速、物置やらいろいろな場所から、がらくたや部品をかき集める子供たち。不注意にもトーマス少年はそのがらくたで手を切るが、何とE.T.は持ち前の力でその傷をたちまち治してしまった。早速E.T.の工作教室が始まる。出来上がったシロモノは、果たしてどう動くか分からないものの、何かの装置であることは間違いない。さて、これをどうやって使うのか?

 だが子供たちは、その頃家の外に怪しげな車が巡回していることには気づかなかった。彼らは特殊な集音機器を駆使して、めざす家をハッキリと見つけていたのだが…。

 翌日はハロウィーン。みんな思い思いのホラーなコスチュームに身を固めてお出かけ。トーマス少年と兄貴のマクノートンと、白いシーツをかぶったお化け役は…E.T.だ! そう、このハロウィーンに乗じてE.T.を外に連れ出し、宇宙との交信を試みようというのだ。ヨタヨタ歩く危なげな足下にハラハラ。途中、「スター・ウォーズ」のヨーダの扮装をした奴にE.T.がついていこうとするてんやわんやの一幕もあったが、何とか待ち合わせ場所にトーマスとE.T.を連れていくと、事前に待ち合わせしていたバリモアとお化け役をバトンタッチ。トーマスとE.T.はおなじみの森に出かけて行った。

 例の即席の装置が作動し始める。満足げなE.T.。だが、夜はどんどん更けていく。

 ママのウォーレスはいつまで待っても帰ってこない子供たちにシビレを切らせたが、迎えに行ってもマクノートンとバリモアしか見つけられなかった。トーマスはどこに行った?

 そして夜が明けて…何と森で目が覚めたトーマス少年。だが、E.T.の姿が見えない。どこに行ったの、E.T. ? 慌てて帰宅して何とかウォーレス母さんを安心させはしたものの、トーマス少年はめっきり具合が悪くなっていた。トーマス少年は兄貴にE.T.を託す。E.T.がどこかに行っちゃった。森に探しに行って!

 慌てて森に駆けつけたマクノートンは、何と川の畔に倒れていたE.T.を見つけた。ところが肌が白っぽく変色してひどく具合が悪い。このままでは死んでしまうかも。

 E.T.を家に連れ帰ったマクノートン。子供三人でE.T.を介抱しようとするが、もうこれは子供の手に負えない。業を煮やしたトーマスは、ついにウォーレス母さんに助けを求めるが、さすがに大人のお母さんはこれには参った。子供たちをせき立てると急いで家を出るように厳しく告げる。だが、実はもうそれは手遅れだった。

 家の中に宇宙服を着た一団が乗り込んでくる。こいつら一体何者だ? ウォーレス母さん半狂乱になって、この一団を止めるが制止は出来ない。今までE.T.の動向を調べて監視していた連中が、ついに家に乗り込んできたのだ。それは軍隊なのか、はたまた別の政府機関なのか? とにかくパトカーの連中を従えて、大部隊でやって来た。そして有無を言わせず家を包囲し、ビニールやプラスチックで家を隔離状態にした。事態が完全に連中の管理下に置かれた時、満を持してやって来たのがおなじみのあの男…カギたばをチャラチャラいわせていた連中のリーダー、ピーター・コヨーテだ。

 医師団が詰めかけて必死の看護活動を行っているが、E.T.とトーマス少年の容態は悪化する一方だ。二人は感応し合っているので、一緒に具合が悪くなっているのだ。脳波の動きも全く同じ。これにはコヨーテも驚嘆した。トーマス少年は自分の具合もそっちのけでE.T.の心配をする。放っておいて、構わないで、E.T.が怯えているよ!

 コヨーテはE.T.が地球環境に適応したのにも驚いたが、この少年たちがここまでE.T.を守ってきたのにも感嘆していた。しかしこの状態に深い同情を禁じ得ないものの、どうすることも出来ないコヨーテ。そのうち感応し合っていたはずのトーマス少年とE.T.の脳波が別れてきた。一転して元気になるトーマス少年と、さらに悪化するE.T.。見ればE.T.が蘇らせた花がまたしおれてくるではないか。

 必死の看病の甲斐もなく、結局E.T.は死んでしまった

 一同は沈痛な面もちで撤収作業を開始する。ずっとE.T.の存在を信じ、いつか出会えることを夢見ていたというコヨーテも、さすがに失望の色を隠す事が出来ない。果たして自分の行ってきた事が良かったのかどうかにさえ、いまや自信が持てなくなっていた。そしてガックリ肩を落とすトーマス少年。それを見つめるウォーレス母さんにも、今やっとトーマス少年の心根が分かったのだった。しかし万事窮す。トーマス少年とE.T.に申し訳ない気持ちでいっぱいになったコヨーテは、せめて最後の別れだけは…と部屋の人払いをして、トーマス少年とE.T.の遺体の二人きりにしてあげた

 今は金属製の容器に収納され、ビニール袋に包まれた.E.T.。それを見つめるトーマス少年の目が涙でいっぱいになる。

 こんな目にあわせちゃってごめんね。

 それだけを告げるのがやっとのトーマス少年。今まで一生懸命やってきた事はすべてムダだったのか。E.T.の故郷に帰りたいという望みは叶えられないまま終わるのか。

 果たして、これがすべての終わりなのだろうか…?

 

スピルバーグの大きな転換点としての映画

 今回の20周年版公開にあたって、いろいろ改変が施されていることはみなさんもご承知のことと思う。全体のサウンドをデジタルでリマスターしたとか、編集をいくつかいじくったとか。初公開の際にはカットされた場面を復元したのも売り物の一つ。僕が気づいたのは、仮病で休んだヘンリー少年が自宅の風呂にE.T.を入れるくだりと、ハロウィーンで帰ってこない子供たちを迎えに行くため、母親のウォーレスが車で街に出るくだりだ。たぶん大きな追加はそれくらいだろう。実際のところ、何度か見てしっかりと覚えているはずだったこの映画の記憶は意外におぼろげだったようで、冒頭のシーンからこんなショットだったっけ?…とまごつくことも多かった。だから前回との比較という点でちょっと僕には自信がない。だが、場面によってはE.T.の表情がかなり豊かになった印象があるから、たぶん今流行のCGでかなりいじくった形跡はある。ガキンチョ軍団が自転車で逃走するのを警官たちが制止しようとするくだりで、警官の手から銃を消して無線機に変えたなんて荒技も使ったらしい。

 だが、20年ぶりに対面したこの映画は、やはり…と言うか意外にも…と言うか、かつて見た時と印象は全く変わっていなかった。主役のトーマス少年の声がやたらキンキンと高いハイトーンだったのが最初はちょっと耳障りだったものの、映画を見ているうちにそれが気にならなくなるのだから不思議だ。そして、20年前と同じところでまたしても泣かされてしまった。やはり「E.T.」は「E.T.」だったのだ。

 恐らくはこの「E.T.」、新版をここで再制作した意図は明らかにDVD化して売るための手段だろうと分かってはいても、それでも今回の再公開は嬉しかった。実はこのゴールデンウィークで僕が最も期待していた映画がこれだったのだ。

 見ていて改めて感じたことは、スピルバーグのかなりコテコテな演出ぶりだ。最初の頃のE.T.とトーマス少年の出会いの場となる家の隅にある物置小屋のシーンなど、まるで舞台装置のようなわざとらしさ。背景に雲のかかった月が浮かび、物置小屋からなぜかまばゆい光が放たれている。まったく自然ではない。またはトーマス少年が学校の解剖実習でカエルを逃がし、最後に少女にキスするまでの大立ち回りのまるでミュージカル映画の振り付けのような演出。さらに終盤、自転車で逃走するガキンチョたちが追っ手を振りきって人けのない街路に出て、「やった!」と歓声を上げたとたんに横からバーッと警官たちが殺到する段取りなど、他にもかなり作った印象が濃厚の演出が連発する。しかし、これこそがスピルバーグなんだね。

 ピーター・コヨーテの演じる男も、最初はカギたばとそれがチャラチャラする音だけで印象づけられ、顔も声も出てこない。まるで「激突!」のタンクローリーの運転手のような得体の知れない存在として演出されている。うまいと言えばうまい演出で、E.T.の生命力をシンボライズする植木鉢の枯れた花とともに、スピルバーグ演出の真骨頂だ。だが、最初は得体の知れない不気味な存在として印象づけられるこの男、顔が見え声が聞けるようになってからはガラリとそのキャラクターを変える。ずっと宇宙人の存在を信じ、会いたいと思ってきたと告白するセリフから見ても、その役どころは「未知との遭遇」でのフランソワ・トリュフォー演じるUFO学者と酷似したものとなる。つまりは観客の共感を呼ぶキャラクター。ある意味で、観客代表ともなるキャラクターとして、そのポジションを一変させるのだ。そして、ここがスピルバーグの監督としての方向づけの意味でもターニング・ポイントになったと、今にして「E.T.」に再会した僕には思えたんだね。

 実はスピルバーグのコテコテ演出というのは、限りなくアニメーションの演出に似ているんだよね。それはスピルバーグがディズニー好きだからとか、そういうレベルの意味でなくて、実際に彼は実写でアニメをつくるように撮っている。人物の扱いとかアクションの付け方などがリアリズムを基本に置く発想ではなくて、いわゆるアニメのオーバー・アクト風なのだ。だから撮影現場ではかなり俳優にとって不自然な演技を強いられるものになっただろうと思われるんだね。

 映画の演技や演出というのはリアリズムが基本になっていると言われはするが、実際のところは言われるほどそうではない。カメラ・ポジションで写りがいい、見栄えがいいかたちに「振り付け」られることもしばしばだ。確かヒッチコックは「汚名」の演出で、ケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンの長々としたキス・シーンを演出したが、その撮影現場ではキスしながら両役者がグルグル回ったりして、かなり不自然な状態になったらしい。元々が自然な演技を好むバーグマンがこれをオカシイとヒッチコックに直訴して、ヒッチコックは彼女に業を煮やしてこう言ったとか。「イングリッド、たかが映画じゃないか!

 今、出来上がった「汚名」のキス・シーンを見て、これが不自然だなんて見てすぐに思う人間はいないと思う。それはファインダーの中からフィルムのコマ、そしてスクリーンのフレームの中における映画の世界とは、実はリアルに見えて「つくられた」ウソの世界だからなんだね。これはやってみればすぐに分かる。もしあなたが素人監督として映画をビデオででも撮ってみて、思い通りのシーンをつくろうとやってみたとすると、必ずあなたの役者たちは言い出すはずだ。「それは自然じゃない!」

 そう。自然ではない。映画の世界はリアルそのものではないからだ。そこであなたが役者たちに負けて、いわゆる「リアル」な演技をするがままにさせた時、完成したそのシーンは何ともしまらないものになっているはずだ。あなたはやはり自分の思い通り演出した方がよかったと悔やむことになる。…ただし、あなたにそれなりのプランと、そのシーンを演出するにあたっての確信があれば…の話ではあるが。

 そんなヒッチコックたちの時代が去ってから、ヌーベルバーグやらアメリカン・ニュー・シネマやら、果てはジョン・カサベテス映画などが現れて衝撃を与えた理由もそこにある。それらはすべて、一見撮りっぱなしの自然さを持っていたから。従来のカチッとスクリーン内の世界を構築した映画文法とは全く話法と異とする作り方で映画をつくっていたからね。もっとも、これだって一見自然…なんであって、実はまるっきり撮りっぱなしな訳ではないが、少なくともその人工的な世界を自然に見せるためのノウハウが、よりリアルに傾いていたことは確かだ。

 スピルバーグ演出の基本とは、そんな映画本来の文法への本卦帰りとでも言うべき、わざとらしいまでのコテコテ演出なのだ。だからアメリカン・ニュー・シネマの洗礼を受けたアメリカ映画の中で、ハリウッド・エンターテインメントの復権として脚光を浴びた。厳密にはかつての映画作法に戻ったわけではないんだけれどね。そして、それはアニメ演出に源がある。先に挙げたいくつかのシーンなど、アニメなら確かにありそうな演出なのだ。おっとその前に…まずは大前提として、ここでの「アニメ」と言う言葉は、シンボル化されカリカチュアライズされた映像としてのアニメ表現という意味合いと、アニメ(といっても宮崎駿作品みたいにドラマ性も濃厚なものではなく、例えば初期ディズニーから「バックス・バニー」などのワーナー・アニメ等のようにマンガ映画的ニュアンスが濃厚なもの)に登場する平板かつ単純なキャラクター描写の意味合いの両方を語る言葉として使っているとご承知いただきたい。

 さて、スピルバーグが何故アニメ的作法を導入したかと言えば、それは彼が徹底的に映画をビジュアルで語ろうと決意したからに他ならない。映画を純粋に映像で語ろうと突き詰めていくと、画面から観客の目を曇らせ、演出意図を全うさせることを邪魔する不純物を取り除かなくてはならない。それは、映画に写る要素のシンボル化、明快化、単純化へと進んでいく。アニメのビジュアルは力強く単純だ。絵そのものがシンボル化している。そもそもマンガとは画像のシンボル化、記号化なんだからね。映画をより強い訴求力で見せていくこと…そのためにアニメの文法を導入することになったんだと考えられるんだね。そして、それを他の映画作家よりも純粋に突き詰めて達成できたから、彼の映画には観客の興味や感情を一気にグイグイ引っ張っていく力強さがあった。

 ところで、先に僕はスピルバーグの映画ではこの「E.T.」がいまだに頂点であると言った。それはこれ以降の彼の作品では、今言ったような力強さが影を潜めていったからなんだね。部分的には名残は残っている。「ジュラシック・パーク」「プライベート・ライアン」の冒頭部分などなどなど。だけど、映画全編をこれほどまでに力づくで押し切る演出力というものは、明らかに失われていった。だから、僕にとっては才能があるけど並みの監督になってしまったと映ってしまったんだね。

 初期のスピルバーグは、むしろ馬鹿力演出の方が際だっていたんだよ。「激突!」「ジョーズ」「未知との遭遇」「レイダース/失われたアーク」…すべてそうだった。だが、彼の関心がそのあたりから、確実に別な方向にシフトしていったんだろうね。そのきっかけがたぶんこの「E.T.」だったんだろうと思うんだ。

 スピルバーグ映画はいつの頃からか子供っぽいと言われるようになった。それはその題材とかピーター・パン・シンドロームとかいろんな表層の部分で言われていたことだけれど、僕はその理由は、たぶん彼が映画をビジュアリストとして語ろうとした時に選んだ文法がアニメだったからだと思うんだね。その単純化のおかげで無類の力強さを持った彼の映画だが、だからこそ「深みに欠ける」「陰影がない」などの批判をも招いていた。それはスピルバーグも自身感じていたんだろう。

 そこである時を境に彼は自身の演出やプランから、アニメ的演出作法を少しづつ薄めていった。しかし、それは今までクッキリしていたものをボヤけたものにもしたろうし、当然観客の関心や感情を一点に集中させる力も弱めていった。そしてアニメ文法に代わるプラス・アルファの要素をいまだ見出しかねてもいた。だからこそ、彼の映画は急速に弱体化していったと僕は見ているんだ。まだビジュアリストの片鱗は残されていても、映画全編を押し切るようなパワーには欠けていた。

 そんなスピルバーグ映画の分岐点になったであろう作品が、この「E.T.」であると僕には今回思えたんだ。

 この映画の外観は、実は基本的に「未知との遭遇」との共通点が多い。ただ、あちらはサスペンス、スペクタクル、アクションの要素を全面に出した作品として構築されていた。こちらはトーマス少年を主人公として、新興住宅地の別居家庭が主な舞台となる。別居家庭は(離婚だったか夫が死去していたのかは忘れたが)すでに「未知との遭遇」にもメリンダ・ディロンの家が存在したが、この時はあくまでサイド・ストーリー。今回は家庭がメインだ。サスペンス・アクション・スペクタクル大作としての「未知との遭遇」に対して、こちらは家庭映画としての小型な器が設定されている。つまりは、もっとミクロな世界だ。このあたり、スピルバーグが離婚家庭の出であったことから考えて、さらにパーソナルな色彩も濃くなっているわけだ。つまり、「人のドラマ」を描きたかったということなのだろう。スピルバーグが「E.T.」を制作した動機というのが、「未知との遭遇」撮影中のフランソワ・トリュフォーに、「君は子供の映画を撮るべきだ」と言われたことだったというのも象徴的だ。つまりは、「E.T.」という映画のアプローチは、「ジョーズ」「未知との遭遇」などとは一線を画していたことが明らかなのだ。ならばスピルバーグが「E.T.」においては、今までよりも人間の陰影に目を配って映画をつくろうとした可能性は濃厚だ。

 そして、人間を中心に描こうと決意した時点で、従来のビジュアル一辺倒、極端な単純化という方法論とはいささか変わってくることも間違いない。

 そこで再びピーター・コヨーテのキャラクターを眺めていただきたい。最初は「激突!」のタンクローリー運転手のような怪物的キャラだ。極端にシンボル化、単純化がなされている。ところがいよいよドラマがヤマ場にさしかかったあたりで、この怪物的キャラクターは突然生きている人間の顔を持つ、感情のこもったセリフを吐く。それまではトーマス少年や観客にとって単純に敵視するべきキャラクターだったこの人物が、突然共感を持つべき存在へと転換するのだ。これはどういう意味を持つのか?

 またしても「未知との遭遇」に出演したトリュフォーのコメントを引用させていただくが、彼はこの「未知〜」における自分の役柄を、アニメかマンガの登場人物のようなものと喝破していた。さすがにトリュフォーだと目を見張らずにはいられない洞察力だが、このコメント、一見するとトリュフォーが自分の役を薄っぺらなものと受け止めていたように思える。自身の監督作品では陰影に富み、二面性を持った人間を見事に描いていたトリュフォーだ。さもありなんと思えはするが、彼がそれを否定的意味を込めて語ったとは思えないんだよね。なぜなら、彼が自作以外に出演したのは「未知との遭遇」ただ一回。それ以降、出演依頼はいくつも来たようなんだが、彼は頑として首をタテには振らなかった。だから、「未知との遭遇」の自分の役を否定的に見ていたはずがない。彼はアニメ・キャラはアニメ・キャラで必然性があると判断して演じたに違いない。

 ちょっと余談が過ぎた。つまりは「激突!」の運転手キャラでも「未知との遭遇」のトリュフォー・キャラでも、どっちも同じくらい単純化されたキャラクターだということだ。だが、ある一つのキャラクターがその両者を兼ね備えるとしたら? 片や怪物、片や観客の共感を呼ぶ人間的存在。それが一人の人間の中に混在するものと描かれていたとしたら? それはすでにもう、アニメ的な単純化された存在とはなり得ない。複雑な面を兼ね備えた、人間そのものに肉薄したキャラクターとは言えまいか?

 その一方で、従来的なシンボル化、明快化、単純化を突き詰めるアニメ的演出も平行して盛り込まれている「E.T.」。それまでのコテコテ人工的演出と新しい陰影に富んだ洞察とが微妙なバランスで並び立っているこの「E.T.」こそが、現時点でのスピルバーグ映画の最高峰としてそびえ立っているのは極めて当然なことと言えるはずだ。

 これ以降、スピルバーグは書き割りのように単純化した人間やドラマを描くことに熱心ではなくなった。それゆえの作品の弱体化だと、僕には思えるんだよね。それは作家的成熟の過程ではあるんだろうが、彼にとっては生みの苦しみを与える方向転換だった。題材選びの非凡さ、ビジュアリストとしての才能が彼を一線級の作家であり続けさせてはいても、それ以降はあの往年の怪物的作品群を生み出すに至っていないというのは、すべてそのへんの事情が理由だったのだろうと今回僕にはハッキリ分かったんだね。

 では、彼にとって新たな活路はまだ見えないのか?

 僕は実はその芽はすでに顔を出していると楽観しているんだよ。それはあの「A.I.」が重要ポイントになると予感している。

 実はスタンリー・キューブリックとスピルバーグという、対照的な扱いを受ける二大映画作家のコラボレーションとも言うべき作品が生まれたこと自体驚嘆に値するが、その両者がそんなに違った資質を持っている訳ではないと僕は思えているんだよね。その事はすでに「A.I.」感想文で触れているからクドクドと繰り返さないけれど、シンボル化、明快化、単純化というキーワードは、実はキューブリックのものでもある。彼もまた究極のビジュアリストである以上、当然と言えば当然なんだけどね。

 だが現実にはスピルバーグが「子供っぽい」作家として蔑視され、キューブリックは「大人」の作家として神格化すらされた。それは、「子供っぽい=絵空事」対「大人=リアル」…と言い換えてもいい。この違いはどこから来たものか、ここで早急に断じてしまうには難しすぎるテーマなのだが、おそらくはアニメにその原動力を見出したスピルバーグに対して、キューブリックの前身が「ルック」誌の契約カメラマンだったということが理由なのではないかと思えるんだよ。つまり、キューブリックの表現者としての原点が「写真」にあったという事実がそれだ。

 単なる記録としてでなく作品としての「写真」とは、まごうことなくリアルでありながら、一瞬の時と限られたフレームで現実を切り取り定着することでそのシンボル化、明快化、単純化を実現するメディアだからね。しかも、そこでキューブリックが撮っていたのが「組写真」だったという事実。正直「組写真」とは何ぞやと言われて即答出来ない程無知な僕ではあるが、おそらくは複数の写真を組み合わせることによってストーリー性やコンセプト性を持たせたようなものではなかったのか? ともかく、それがキューブリックをして静止画たる「写真」から動画である「映画」へと方向転換させる橋渡しの役割を果たしていたことは明らかだと思われる。

 だから、ひょっとしたらキューブリックの意図を忠実に受け継いだ(とスピルバーグが述べている)「A.I.」が、「E.T.」以降アニメ文法に代わる映像のシンボル化、明快化、単純化のノウハウを見出しかねていたスピルバーグに、何がしかのヒントを与えた可能性はかなりあり得る。今回の「E.T.」再公開版を見て、今までのスピルバーグの軌跡とその問題点がかなりクリアに見えてきたように思える僕にとっては、スピルバーグの夜明けは意外に近いのではないかと思えるんだよね。

 そんな様々なことを改めて考えさせてくれた「E.T.」、やはり今だからこそ見ておきたかった映画だし、見てよかったと今なら自信を持って言えるよ。

 


E.T. - The Extra-Terrestrial : The 20th Anniversary Edition

(1982年/2002年・アメリカ)ユニバーサル映画

監督:スティーブン・スピルバーグ

脚本:メリッサ・マシスン

製作:スティーブン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ

出演:ディー・ウォーレス、ピーター・コヨーテ、ヘンリー・トーマス、ロバート・マクノートン、ドリュー・バリモア

2002年5月4日・劇場にて鑑賞


 

 

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