「ターミネーター2」

  Terminator 2 - Judgement Day

 (2003/08/18)


 

生かせ、殺すな:「ターミネーター2」に見る“反戦”

(「とめの気ままなお部屋」特集企画寄稿文・長編版)

 

 

 正直いって、今回僕がとめさんから特集のお題を頂戴した時、少なからず困惑を覚えないわけではなかった。「戦争映画」「反戦映画」…それって実にデリケートな題材だ。特に世の中これほど争い事が絶えまない御時世になると、なおさら難しいと言わざるを得ない。

 はっきり言って世間の人々のうち、個人的に「反戦」でない人なんてほとんどいないのではないか? だったら何で戦争なんて起きてしまうんだって言いたくもなる。しかしながら総論反対、各論賛成なんて事は世の中にザラにあるからね。そんな各論が出てくるってことは、各自の「政治的」判断ってなものが働いているんだろう。

 しかし、これがまた実に曖昧なものだ。

 おまけに戦争ってのは立場を変えて見ると、まるで見え方が違ってくる。時代が変わった時に見え方が変わるということもある。映画を例にとってみれば分かりやすい。例えば「ディア・ハンター」だ。あれは公開当初はベトナム戦争映画の先陣を切ったかたちで、戦争によってひどい目にあう若者達を描いた「反戦映画」として評価された。だがしばらくして、いつの間にかアメリカ側が北ベトナムを悪者に描いた「反動映画」との非難を浴びた。ベトナムに攻めていったアメリカ側が、自分たちは被害者だったはないだろう…という受け取り方だ。これについてはそれぞれ言い分があろうけれど、ここで言いたいのはそんな事ではない。それほど戦争というものは、そしてそこに関わった人間たちというものは、さらにそれについて語ったコメントや作品というものは、見方によって、そして立場・状況・その時代によって、クルクルと評価が変わってしまうものなのだ。

 そもそも人間には誰しも闘争心があって憎悪がある。それを無視して語るのは意味がない。「時計じかけのオレンジ」が提示していたのはそこだ。はっきり言って今ここで「反戦」と唱える事については、誰しもためらいがないだろう。だけど異なる状況下でも、その一言を言い切れるか。果たしてナチ勃興期のドイツ人だったとして、自分がナチの旗を振ってないと誰が言い切れるだろう。熱に浮かされたような興奮状態、そのエキサイトメントの渦中では、人は平気で“あっち”に流れてしまう。だから熱く反戦のシュプレヒコールを上げていた人間が、時と場合によっては簡単にファシズムやミリタリズムに流れるなんて事だって、まるっきり不思議じゃないと思っているんだよ。いや、そういうヤツほど転びやすい。「熱さ」に入れ込む人間は、別の「熱さ」にだって溺れやすい。そんな人間をこれまでイヤというほど見てきた。かく言う自分でさえ、そういう面があることは否定できない。

 だから、戦争に荷担する人間を自分とはまったく別物とみなして、切り離して考えながら唱える「反戦」ってのはあまり意味がない気がする。戦争が良くない事だなんてことは、どこの誰だって分かってる。実際の戦争では、別に好戦的でもない人、軍国主義者でもない人、いわゆる「普通の人」がみんな銃を取って人を殺す。「普通の人」が自分から進んで女子供をいたぶる、金品を略奪する、街を破壊する。その時に、果たして自分は毅然とやらないでいると言い切れるか。僕は言い切れない。いや、結構自分から嬉々としてやるかもしれないから怖いのだ。

 最近ではロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」がそのへんの事情を描いていた。結局悪いのは「ナチ」だ「ドイツ人」だ…と言ってるうちは違うんじゃないか。ホントに問題視しなくてはいけないのはナチの旗や軍服なんかじゃなくて、人が人を虐げようとすることそのものだ。それが別の旗に変わったって何も変わらない。いや、ヘタしたら虐げられていた側が虐げる側に、平気で変わってしまう事だってある。問題はそこにあるんじゃないか。旗や軍服のせいにしているうちは、それは何ら解決されないのではないか…おそらくはポランスキーが言いたかったポイントって、このあたりじゃないかと思ったりするんだよね。それでも、そんなメッセージを見る者すべてに届かせるのは、物凄くデリケートな部分があるし極めて難しい。なかなか分かってもらえないし、そもそも人はそれを分かりたくないのかもしれない。

 ところが例のアメリカ同時多発テロ以降キナ臭くなった世界情勢を反映してか、昨今は世界中で戦争映画が氾濫した。それのどれもこれもが真面目に真摯に問題を見つめているとは思うけど、結局「どこの国」が「どこの民族」に対して「どういう主義主張」で戦争した…と描いていくと、どう描くにせよ上で語ったような問題点に引っ掛かってくる。それって結局限界があるような気がするんだよ。

 それだけじゃない。「反戦」を訴える時にいかにもツルんできそうな、妙な「政治的バックグラウンド」がまたイヤだ。どこかで変に「色」がつく。その上ここだけの話だけど、偏見であることは百も承知ながら、そういう理屈をこね回す輩に限っていささか好感の持てない連中に感じられちゃうんだよねぇ。だから僕は、実は「反戦」って言葉自体あんまり使いたくない。そういうののシンパだと思われたくない。これに退いちゃう人は結構多いんじゃないの? 

 そもそも、多くの人にメッセージを伝えようとして、かえってみんなを退かせてどうする。それってそういう事を発言している自分がエライとか利口だとか善人だとかって言いたいだけであって、元々マジメにメッセージを伝える気なんかないんじゃないかと思うよ。そこが実に不愉快だ。本当にメッセージを伝えたいと思うなら、そんな血の通わない「政治的」フィルターなんか絶対通さないはずだもんね。だから僕は、そんな相手の目線に立とうとしない高邁なメッセージなんて、ハナっから信じないって決めている。

 そこで…というわけではないけど、僕がここであえて「反戦」映画として挙げたいのは、ちょっと毛色の違った映画だ。良心的佳作でも作家性の強いアート系作品でもない。政治的なアジテーションを発する作品でも批評家受けマニア受けを狙った作品でもない。限られた一部の観客のためではなく開かれた老若男女すべての人々を楽しませるためにつくられた作品。インテリや理論武装した人たちから毛嫌いされるガチガチのハリウッド・エンターテインメント大作であり、アクションとSFXをふんだんに盛り込んだ作品…それはジェームズ・キャメロン監督の「ターミネーター2」だ。

 

 「スカイネット」なるコンピュータ・システムの暴走で人類の文明が崩壊し、機械たちに支配されることになった未来社会。そこでは機械たちと、その支配を阻もうとする人間たちとの熾烈な戦いが繰り広げられていた。その人間側リーダーのジョン・コナーが邪魔になった機械たちは、彼を早めに刈り取ることを決意する。一作目では彼が生まれる前に母親サラ・コナー(リンダ・ハミルトン)を殺害しようと、殺人ロボットのターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)が未来から過去に派遣されるが失敗。この二作目では新たに新型ターミネーターT-1000(ロバート・パトリック)が送り込まれて、少年時代のジョン・コナー(エドワード・ファーロング)が襲われる。それに対抗して人間側が送り込んだのが、前作では悪役になっていた旧式ターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)。かくして両者の戦いが現代のロサンゼルスで繰り広げられるわけだ。

 この新型ターミネーターT-1000が液体金属から出来ていて、変幻自在のタチの悪いヤツであることはみなさんご承知の通り。このT-1000の映像表現から、ハリウッド映画のCG技術が格段に進歩を遂げたのは言うまでもない。

 さてこのシュワ型の旧式ターミネーター、とにかく本来戦闘用マシンだから、当然のことながらやることがいちいち荒っぽい。少年ジョン・コナーを助けるためとは言え、敵と見なすと即殺そうとする。そんなターミネーターを少年ジョン・コナーはたしなめるんだね。決して人を殺しちゃダメだ…と。

 こうしてターミネーターは殺人マシンなのにも関わらず、少年から他者を殺さないという事を学んでいく。何とこれだけのハードアクションにして、実はこの映画ではシュワのターミネーターは一人も人を殺さない。足を狙ったり叩きのめしたり大規模な破壊はするが、決して人の命を奪わないのだ。この点がとても大事だと思うんだよね。殺人マシンが人を殺さないって逆転の発想が、何より卓抜していると思うのだ。誰もこの映画のこの点については、注目してあげてないように思うんだけどね。

 そして父を知らないジョン・コナーは、身を挺して自分を守るシュワ・ターミネーターに父性のようなものを感じていく。シュワ・ターミネーターの方でも、なぜかジョン少年に不思議な情が湧いてくる。このあたりで、映画は疑似家族の物語の様相をも呈していくんだよ。で、ここがジェームズ・キャメロンの真骨頂だと思うわけ。

 ジェームズ・キャメロンってその作品群から、どうしてもマッチョなアクション野郎か技術偏重のオタク野郎のどっちかに思われがちだよね。でも、僕はそれはちょっと違うと思う。例えば「ターミネーター」第一作を見てみれば、そこではまるで赤い糸みたいなオトメチックとも言える趣向が展開していた。「エイリアン2」ではリプリー(シガニー・ウィーバー)と生き残りの少女との間に、これまた疑似母娘みたいな関係が生まれていた。終盤のエイリアン・クイーンとのガチンコ勝負は、明らかに子を持つ母親同士の戦いと位置づけられているんだよ(戦う直前にリプリーがエイリアン・クイーンに向かって「ビッチ!」と罵るくだりを見れば、彼女がエイリアンを「女」と見なしているのは疑いない)。「アビス」ではいいかげんホコロビていた夫婦の感情の機微を描き出していたし、「トゥルーライズ」も同様のテーマを笑いにくるんで見せていた。かようにキャメロンは人間の感情、人間関係の葛藤を作品の中心に置く映画作家なのだ。だからその後「タイタニック」をつくるのも、決して突然変異なんかじゃないんだね。僕はキャメロンって人、強面に見えて実はすごくデリカシーのあるセンチメンタルな人じゃないかと思うよ。でなければ、「ソラリス」なんてリメイクしようと思わないだろう。

 「ターミネーター」の物語の根本には「スカイネット」なる核兵器の戦略システムがあって、これが機械の暴走の元凶となる。すべては元々人間自身の戦争衝動が原因だったってわけなんだが、そう考えると「ターミネーター」シリーズの根本には、そんな人間本能への懸念がぬぐい去り難くあると言うことだって出来る。

 もちろん「ターミネーター2」はハリウッドのSF娯楽大作だからして、そこでは派手にドンパチが行われるし、破壊シーンも満載されてる。だから、これを純粋に「反戦」映画と呼ぶのは無理があろう。だが製作したジェームズ・キャメロンの発想の根本には、人間の中に巣くう戦争衝動を何とか乗り越えていこう、乗り越えなければ、乗り越えていけるはずだ…という考えが色濃くにじんでいるように思える。

 そうでなければ劇中にサラ・コナー=リンダ・ハミルトンの悪夢として、核兵器による都市の徹底的な破壊の惨劇が描かれる意味もない。その描写は、唯一の核兵器の使用国であるアメリカにして、異例とも言える激しさだ。核戦争の悲惨を描いたはずのテレビシリーズ「ザ・デイ・アフター」や、近作の「トータル・フィアーズ」でさえここまで描いてはいないほどの、それは徹底ぶりだ。キャメロンは明らかにここで、そんな悪しき人間本能が生み出すものを、見る者に実感してもらいたいと思っているはずだ。

 映画の終盤、少年からヒューマニズム(?)を学んだシュワ・ターミネーターは、自らが「スカイネット」の災いを招く存在であると知るや、その身を犠牲にして消えていく。単なるマシンであるターミネーターが、かくも気高く崇高な存在に見えるこの結末には泣かされた人も多いだろう。その姿は、そっくりそのまま愚かな戦争を画策する僕たち人類に向けられた刃なのだ。

 ジョン・コナー少年から「生かせ、殺すな」という考え方を学んでいくターミネーター。それを通して、見ている側も同じ思いを共有していく。

 殺人マシンだって変われるんだ、まして人間の我々ならば…。

 それは「政治色」のないSF娯楽大作ならばこそ伝えられる、何よりの「反戦」メッセージだと思うのだがいかがだろうか?

 

 

 

この感想文は、とめの気ままなお部屋の特集“8月15日に思いをよせて:「映画で考える戦争と平和」に寄稿した文章に、改めて加筆したものです。

 

 

 


Terminator 2 - Judgement Day

(1991年・アメリカ)パシフィック・ウェスタン・プロダクション、カロルコ・ピクチャーズ 制作

監督・製作:ジェームズ・キャメロン

共同製作:B・J・ラック、ステファニー・オースティン

製作総指揮:ゲイル・アン・ハード、マリオ・カサール

脚本:ジェームズ・キャメロン、ウィリアム・ウィッシャー

出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、エドワード・ファーロング、ロバート・パトリック、アール・ボーエン、ジョー・モートン

2003年7月16日・DVDにて鑑賞


 

 

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