「ヴィバラビィ」

  Viva la vie ! (Long Live Life)

 (2006/05/22)


ナゾの失踪事件は宇宙人の仕業なのか?

 「緊急のお知らせ!」

 核シェルターへの避難は、各映画館の誘導に従って冷静にお願いいたします。シェルターにはそれぞれ通信、食料、医療等の設備が整えられており…。

 だがパリの各地で、核シェルターに殺到する人々の大パニックが勃発。それはさながら地獄絵図の様相を呈してくる。まさに悪夢だ。

 そう、悪夢。それは初老の紳士ミシェル・ピコリが眠りの中で見た悪夢。ピコリはベッドの隣で眠る妻シャーロット・ランプリングの顔を見ながら苦笑するしかない。朝のラジオでも核兵器が人類を何回死滅させるだけの威力があるのか、まるで聴取者を脅すように吠え立てる。そんなラジオ番組のゲストは、先日、新作「ヴィバラビィ」を発表した映画監督クロード・ルルーシュだ。映画の主題歌もすでにヒット中。「先程の核戦争の話の後で、“ヴィバラビィ=生命バンザイ”ってのも皮肉な話ですが…」

 別の家庭では、二人の男の子が「宇宙人ごっこ」に夢中だ。優れた文明を誇る宇宙人が、愚かな人類を威嚇する遊び。そんな息子たちを、目を細めながら見つめる父親シャルル・アズナブール。

 まだ別の場所では、初老の講師ジャン=ルイ・トランティニャンが生徒たちに講義の真っ最中。議題は演技論か演劇論か、はたまた映画論か。「映画監督には三種類いる。物語を語る者、物語を語らない者、物語り方を見せようとする者…一番目がスピルバーグ、二番目がフェリーニ、そして三番目がゴダールだ」

 ピコリは内心核戦争の恐怖に怯えていたのか、庭のプールを埋め立てて核シェルターを建設しようと計画中だった。妻ランプリングが業者を迎えて交渉中だ。ピコリも仕事を終え、すでに会社をクルマで出たと言う。ところがいつになってもピコリは帰って来ない。そして使用人たちが遊びに出たところ、途中の道路でピコリのクルマを発見したというではないか!

 原っぱのど真ん中、ラジオもライトもつけっぱなし。クルマは乗り捨てられたままで、ピコリはどこにも姿がない。辺りには夕闇が迫ってきた。慌てて駆けつけたランプリングも、これには茫然自失だ。やがて警察もその場に駆けつけるが、これではどうする事も出来ない。ピコリはどこへ行ってしまったのか?

 ピコリは、アメリカの巨大コングロマリット企業「NOW」の欧州の責任者だ。軽はずみな事をするような人間ではない。ランプリングはただただ戸惑うばかりだ。

 一方、演劇講師のトランティンヤンは娘のような妻エヴリーヌ・ブイックスと共に、「台詞のない芝居」の例を演壇で演じていた。ブイックスは新人賞を取ったばかりの新進女優。トランティニャンとの仲もアツアツだ。だが、そんなブイックスが突如姿を消した。舞台の仕事も生まれたばかりの赤ん坊も放り出して、忽然と姿を消したのだ。さすがに疑心暗鬼にならざるを得ないトランティニャン。元々の暗い性格も災いして、悪い方悪い方へと考えが傾く。

 ピコリ氏失踪の知らせは、息子を通じて前妻のアヌーク・エイメにまで届く。ショックを受けるエイメ。だが、彼女にもピコリはそんな男には思えない。

 ところが…そんなピコリ氏がなぜか突然姿を現したからビックリ。しかも彼は、自分が3日も姿を消していた事など全く関知していない。会社からそのまま現れたと言い張る一方だ。おまけに妙にガブガブと水を飲みたがるのも奇妙なところ。そのあげく、いきなり意識を失った。

 またブイックスもどこからともなく出現。いきなり出演予定だった芝居の楽屋に現れ、自分が代役に取って代わられたのを見て逆上。彼女は自分が3日消えていた事を知らなかった。そしてブイックスもまた水を飲みたがった。そんな彼女にネクラのトランティニャンは、いきなり責め立てたからたまらない。「今までどこに行ってた? どこの男のところだ? 言え!」

 たちまち失神してしまうブイックス。

 医師の見立てでは、ピコリもブイックスもどちらも異常に血圧が低く、明らかに記憶を失っているという。昏睡状態だった形跡も認められた。一体彼らに何があったのか?

 しかも彼らが戻っていた期間は、そう長くはなかった。すぐにピコリは再びクルマで姿を消してしまう。媚ブイックスも医者に行く途中で忽然と消えた。またしても騒然となる家族たち。慌てふためくトランティニャンは、ついにテレビでピコリ失踪のニュースを見た。

 自分の妻の失踪との明かな類似点を見出したトランティニャンは、単身「NOW」の欧州本社ビルに乗り込む。そこで当惑するランプリングに、自分の妻ブイックスの失踪の顛末を語りかけた。だが、ここからが万事ネクラのトランティニャンたる所以。結局トランティニャンは妻ブイックスの浮気相手がピコリだと決めつけたのだ。「役者は想像力豊かなものですし、あなたのご主人も非凡な方だった。言い訳としてあり得ますよ!」

 あり得るわきゃ〜ない(笑)。いくら何でも浮気のアリバイとして「記憶喪失」だの「拉致」だのなんて事を持ち出す必要がない。ここはさすがに一笑に付したランプリングの方が正論だ。

 ところがある夜更けのこと。失踪したピコリとブイックスは、それぞれの家に突然戻って来た。だが、それだけではない。頭にグルグルと包帯を巻き付けられて戻って来たのだ。何と、二人とも後頭部に手術跡が残されているではないか!

 こうなると、もはやただ事ではない。このミステリアスな失踪事件は、社会全体を揺るがす大事件となった。彼らはどこに連れ去られたのか、何で連れ去られたのか、何者が連れ去ったのだろうか?

 二人は警察の手によって大学病院に連れてこられ、そこで脳外科の権威の診察を受ける事になった。手術跡を見ると、確かに二人に手術を施したのは同一の人物だ。だがレントゲン、CT…とさまざまな検査を行っても、どうにも真相には到達しない。

 その夜、二人はそれぞれ何らかの悪夢にうなされていた。ピコリはうわごとで叫ぶ。「太陽が、太陽が姿を見せない!」

 何と太陽が昇らない。ベルリンからも東京からも同じ報告が伝えられる。世界中が夜のままだ。何でも太陽と地球の間に、ナゾの天体が現れて日光を遮ってしまったらしい。このままでは一日あたり5度づつ温度が低下して、地球は緩やかな氷河期に突入してしまう…。

 かと思うとブイックスの方は、どうしたことか全く別なうわごとを叫んでいた。「熱い、熱い! 地球が燃える!」

 そして…二人とも病室から姿を消した!

 窓は閉じられ外にも見張りがいたのに、二人は病室から突然消えてしまったのだ。こうして事件はますます混迷を深めた。一体どこの何者が、どんな目的でこんな事を行っているのか…?

 驚いたことに、ピコリとブイックスの二人はすぐにまた姿を現した。フランスから遠く離れたとんでもない場所…サハラ砂漠のど真ん中。あてどなくフラフラと歩いているところを、現地の遊牧民に発見されたのだ。そして二人は今度こそ失踪中の事について、かなり鮮明に記憶を残していた。

 宇宙人による拉致だ!

 パリの空港にチャーター機で降り立った二人は、たちまちマスコミに取り巻かれて記者会見。そこで二人は衝撃的な声明を発表した。一連の事件は、太古から地球の資源を守って来た宇宙人たちの、人類へのメッセージだというのだ。さまざまな汚染や核の脅威で、宇宙人たちが育んできた地球の資源を損なわれてはたまらない。これ以上好き勝手な事をやるようならば、人類を破滅させてやるぞ…。

 この事件の報道は、たちまち各国政府に衝撃として広がったようだ。米ソは慌てて首脳会談を開き、核軍縮に向けて前向きな政策転換を行い始めた。世界的に軍縮を望む声が高まった。まずはめでたしめでたし…。

 ところが、話はそれでは終わらない。

 家に戻ったピコリを、妻ランプリングは待ってはいなかった。ブイックスの夫トランティニャンも姿を消していた。実は今回の一連の成り行きに不信感を募らせていたランプリングとトランティニャンは、示し合わせて姿を消していたのだ。そして、それぞれの夫や妻の元に戻るや、「水が飲みたい」だの「記憶がない」だのと同じような事を言い出した。「私にもあなたと同じ事が起きたの」

 無論、そんなはずはあり得ない。

 では、ピコリとブイックスの身に一体何が起きていたのか? それを語るためには、少々面倒ながら説明が要る。ここは良質なキャビアが自慢の、キャビア専門レストラン。店長はシャルル・アズナブールだ。そこに常連客のピコリ&ランプリング夫妻もやってくる。やがてトイレに立ったピコリは、そのトイレに潜ませた仕掛けを使って、店の地下に建設された秘密基地へとやって来る。秘密基地の主は、もちろん例のアズナブールだ。ここではキャビアの中に情報を仕込ませ、さまざまな秘密のミッションを遂行してきた。ピコリがアメリカ企業「NOW」の責任者というのも表向きの顔で、実は米国系秘密諜報機関のメンバーだったのだ。

 そして、そんな彼らの元に新たな情報が寄せられる。何と核兵器保有のバランスが著しく崩れ、米国陣営はソ連陣営と比べてかなりの劣勢になっているというのだ。だとすると、すでに核戦争にやる前から負けたも同然。この事実を知ったソ連陣営との駆け引きで、もはや本当の核戦争勃発は必至だ。だとしたら…どうすればいい? もはや打つ手はないのか?

 そこでアズナブールが考えついたのが、「宇宙人作戦」だ。宇宙人が出てきたとまことしやかに一芝居打ち、彼らが核を廃棄しないと人類滅亡だと脅したなら…核戦争の危機から逃れられるかもしれぬ。

 こうして彼らは「共犯者」として何も知らぬ新人女優ブイックスに目を付け、騙して計画に引っ張り込んだ。計画は見事に成功。米ソは核軍拡の路線にまんまと乗ってくれた。めでたしめでたし。

 だが、無論それで話が終わる訳はなかった…。

 

かつては衝撃的な存在だったクロード・ルルーシュ

 今でこそクロード・ルルーシュの名はすっかり「過去の人」になってしまったが、昔は破竹の勢いの新進映画作家だった。映画ファンなら傑作「男と女」(1966)のタイトルぐらい知っているだろう。あの流れるような流麗なカメラワーク。そこにフランシス・レイの甘い音楽。手持ちカメラによる流し撮りがメインなので、まるで登場人物の息づかいまでが感じられるようなリアルな感触。今でこそスッカリ手垢がついてしまった手法に思えるが、確かにこれが最初に登場した時には衝撃的だっただろうと思わせる。今でも「男と女」のDVDを見れば、その鮮度は完全に保たれているように思える。

 実際ルルーシュのこのフレッシュな手法は、世界の映画をアッという間に刷新してしまった。テレビにおけるCF表現に与えた影響も絶大だし、ルルーシュのこの手法なしにはアメリカン・ニューシネマの作品群…「卒業」(1967)、「イージー・ライダー」(1969)やら「明日に向って撃て!」(1969)などは全く違ったものになってしまっただろう。

 もっと卑近な例を挙げるとすれば、例えば日本のテレビ刑事ドラマ「太陽にほえろ!」(1972〜1986)の捜査場面。現実音なしで井上尭之バンドのBGMだけが流れているスタイルをとっているあたりは、手垢つきまくって原型をほとんど留めてないほどの「変形版」ではあるものの、明らかにルルーシュ・タッチの流用に違いない。これほど世界の映像に多大な影響を与えたのが、ルルーシュと「男と女」なのだ。

 中でもアメリカ=ハリウッドはルルーシュにゾッコンだったようで、「男と女」にアカデミー外国語映画賞を与えただけにとどまらず、「パリのめぐり逢い」(1967)には当時のハリウッドのトップスター女優キャンディス・バーゲンが出演。これがいかに異例の事かと言えば…ヨーロッパのトップ女優がハリウッド映画に起用される事はしばしばあるが、その逆はほとんど例を見ない。強いて言えばフランソワ・トリュフォーのアメリカの夜(1973)におけるジャクリーン・ビセットとか、ヴィットリオ・デ・シーカの「恋人たちの場所」(1968)やルネ・クレマンの「パリは霧にぬれて」(1971)に起用されたフェイ・ダナウェイくらいしかない。おそらくギャラの点で折り合わない事と、外国映画に出てもハリウッド女優としてのキャリアにはプラスにならないという事が災いしているのだろう。ここに挙げたわずかな作品が「例外」たり得たのは、それらがハリウッドでも名の通った「巨匠」の作品だからだ。この一点だけ見ても、ルルーシュがいかにハリウッドの映画人に絶大な信頼を得ていたかがお分かりかと思う。

 実際「男と女」からビッグスター起用の「パリのめぐり逢い」、さらにグルノーブル冬季オリンピック映画を流麗なカメラとフランシス・レイ・サウンドで彩った異色ドキュメント映画「白い恋人たち」(1968)あたりでルルーシュ人気は最高潮。映画も全世界で大当たりした。

 ただ、フランス本国ではその後も好調だったようだが…どうも日本では、ある時期を境にルルーシュ映画の評判が芳しくなくなった。そのあたりの事情は、ルルーシュ作品の日本での邦題を見てみれば、理由の一端ぐらいは分かるような気がする。

 「男と女の詩」(1973)、続・男と女(1977)、「男と女 II」(1986)、「男と女、嘘つきな関係」(1996)、「男と女/アナザー・ストーリー」(2002)…まぁ、正直言ってこれらの邦題はスティーブン・セガール主演作に冠せられた「沈黙」シリーズの表題みたいなもので、日本の配給会社が次から次へと「男と女」イメージを被せていった結果だ。だからルルーシュに直接罪はない。だがルルーシュの一連の作品群は、実際そう思われても仕方のない側面も確かに持っているのだ。

 まずは問題の「男と女」だが、正式な続編は同じ出演者を使った20年後の物語「男と女 II」。だが「続・男と女」もアメリカ西部に舞台を移して出演者もジェームズ・カーンとジュヌビエーブ・ビュジョルドに替えながら、お話としてやってる事は基本的に同じ。つまり「男と女」西部劇バージョンみたいな作品なのだ。

 で、そんな「男と女」シリーズ(笑)以外の作品でも、ルルーシュ作品って基本的に同じ事ばかり繰り返している。過去ある男と女の出会い〜結ばれる一歩手前で襲いかかるトラウマ〜恋の成就の断念〜やり直そうともう一度向かい合う男と女…ってな感じ。これを手を替え品を変え繰り返しつくっているのが、一連のルルーシュ映画なのだ。それ以外のドラマはない。

 …というかルルーシュって人、元々ストーリーテラーではないのだ。本来がドキュメンタリー出身の人。それがひょんな事からつくっちゃった劇映画が、出世作「男と女」というわけだ。だから、ガッチリとした構成や驚きのある物語の構築などそもそも出来ないし、また彼にそれをやる気もない。設定も登場人物も単純で素朴なお話を、ドキュメンタリストらしい臨場感溢れる流し撮りでリアルに撮影。だから常に手持ちカメラに長回しだ。それだけでは単調になるところを、盟友フランシス・レイの華麗なメロディが補強する。BGMだかBGVだか、どっちがメインだか分からない構図。

 それがたまたまうまくいっちゃったから…というか、その方法論で映画をつくった場合のルルーシュの映画センスが抜群だったという事もあるのだが…それ以外の映画づくりについてまるっきり考える気なんかなくなっちゃったというわけ。そうなると、誰がどう見たって同じようなお話を同じようなテクニックで繰り返し繰り返しつくっているように見える。ま、実際に繰り返しなのだ。

 ルルーシュ畢生の大作愛と哀しみのボレロ(1981)にしても…3時間に渡る壮大なドラマで、パリ、ベルリン、モスクワ、ニューヨークのそれぞれのミュージック・パフォーマーたちの人間群像を、欧米の現代史を背景にスケールでっかく描く…はずだった。だが一つひとつのエピソードを見てみると、それぞれがちっちゃい「男と女」(笑)でしかない事が分かる。それを国籍を変え、時代を変えて、数多くいっぱい散りばめたところにスペクタキュラーな戦闘シーンなどを挿入しているに過ぎない。ハッキリ言って単なる「増量」。案外、基本的な構成は「小品」でしかないのだ。

 いや、僕はそんなルルーシュ作品はキライじゃないし、それが彼の個性だと思っているからこれは悪口ではない。ただ、アンチ・ルルーシュの連中が「どれもこれも男と女の焼き直し」と言ってる事自体は、僕も全くその通りだと同意せざるを得ない。

 後年ルルーシュがヨーロッパ現代史に背景を移してつくった「レ・ミゼラブル」(1995)にしても、本来はおそらく彼の映画に不足している骨太で力強いドラマをビクトル・ユーゴー原作に求めての企画だろうと、僕には何となく察しがついた。それでも出来上がった作品は、「レ・ミゼラブル」を「愛と哀しみのボレロ」の上にウナギの蒲焼きのようにそのまま乗っけたような…ということは「男と女」の“大盛り版”という事になってしまうのだが…およそそんな印象しかない。結局この人の映画ってのは、スケールアップしても「掛け算」の映画にはならず、常に何かを追加したり乗っけたり大盛りしたりの「足し算」映画にしかならないんだと痛感した。ま、そこが愛すべきルルーシュの特徴でもあると思うのだが…。

 閑話休題。ともかくヌーヴェルバーグの嵐吹きまくるフランス映画界の中で、それらとは一線を画しながら映像スタイルにおいて全世界的に衝撃的な影響を与え、かつ商業的にも大成功を収めた映画人。それがクロード・ルルーシュだったのだ。ただしその革新性と商業性がアダとなり、ともすればワンパターンの商業主義と揶揄されもした。特にミニシアター・ブーム以降アート系映画を中心にヨーロッパ映画が復権していったわが日本では、ルルーシュ映画が冷遇・冷笑されてしまったのも、ある程度無理のないところではあったのだ。

 

ルルーシュとSFとの相性やいかに?

 で、この「ヴィバラビィ」だが、まずはこの邦題からして何とかしてもらいたいものだ。この日本未公開作の邦題はビデオ発売した業者が付けたものだが、ここはカタカナ表記にしても本来「ビバ・ラ・ヴィ」とでも記するべきだっただろう。すなわち、「人生バンザイ」あるいは「生命バンザイ」だ。

 クロード・ルルーシュは「男と女」や「白い恋人たち」の大成功が何しろ絶大なものだっただけに、日本におけるヨーロッパ映画冬の時代にも比較的コンスタントに作品が入って来た。そして前述のごとくミニシアター・ブームによるヨーロッパ映画再評価の時代に、今度は冷遇されるという皮肉なコースを辿ったわけだ。この作品はそんな日本未公開作品の一本ということになる。

 そしてコンスタントに作品発表が行われていたのだから本国では興行的にソコソコだったはずのルルーシュも、どうもこの時期そんな自作の「ワンパターン」ぶりが多少気になり始めていたようなのだ。

 例えば先にも挙げたアメリカ西部劇に初挑戦の「続・男と女」しかり、第二次大戦をはさんでの超大作「愛と哀しみのボレロ」しかり、さらには伝説的歌手エディット・ピアフとボクサー王者のマルセル・セルダンの恋を扱った初の“実話”モノ「恋に生きた女ピアフ」(1983・日本劇場未公開)しかり…確かに企画だけ見ると、従来のルルーシュ作品には見られないものばかり。ただ…出来上がった作品は見事に毎度お馴染みルルーシュ作品というのがまた笑えるのだが(笑)…ともかくこの時期のルルーシュは、題材の変化によって何らかの作品の鮮度を得ようと必死だったように思える。

 だから…今回は何とルルーシュがSF映画に挑戦というわけ。

 冒頭から映画館内の非常用避難口紹介を装っての「核シェルター」紹介。これで観客をビックリさせて、いきなりルルーシュ「らしくない」世界へとお話を誘導していく。途中、ルルーシュ本人がチラリ出演するのはご愛敬だ。

 そして次から次へと登場する豪華なキャスティング。ミシェル・ピコリ、シャーロット・ランプリング、ジャン=ルイ・トランティニャン、シャルル・アズナブール…さらにはアヌーク・エイメまで。ルルーシュ映画では新顔もいれば、「男と女」以来毎度お馴染みのスターもいる。いやはや豪華絢爛とはこの事だ。映画の冒頭部分ではチラチラとインサート・ショットで顔を出すだけで、最初は一体何の役だか分からない人もいる。このあたりミステリアスと言えばミステリアスで、訳が分からないだけに、一層興味が湧くのも事実だ。

 さらにこれら豪華キャストの一角を担うのが、エヴリーヌ・ブイックスなる新進女優。実はこの人、当時ルルーシュの公私両面のパートナーだったらしい。実際に結婚していたかは分からないが、間違いなく恋人だった事は確かなはずだ。最初に登場したのは「愛と哀しみのボレロ」。ダニエル・オルブリフスキ扮するナチ音楽家と恋に落ちる歌手の役。ちょっとどこかエディット・ピアフの面影を思わせる硬質な美貌が印象的な女優さんだと思っていたら、案の定、次のルルーシュ作品「恋に生きた女ピアフ」でそのピアフ本人を演じる事になる。見ようによってはどこかアヌーク・エイメに似た容貌を見せる瞬間もあるので、このへんがルルーシュの女の好みなのだろうか。ルルーシュ作品にはその後もこの「ヴィバラビィ」「遠い日の家族」(1985)、「男と女 II」…と連続出演。この後、プッツリとルルーシュ作品出演が途絶えたところを見ると、このあたりがルルーシュとブイックスとの縁の切れ目という事だったのだろう。

 ビックリしたのは…映画の終盤になってトランティニャン家にキャビアを配達に来る蝶ネクタイのデリバリーボーイ役の男の子! 「どこかで見た顔だな」…と思いきや、何と「汚れた血」(1986)や「ポンヌフの恋人」(1991)などのレオス・カラックス作品、さらに快作「ツバル」(1999)に主演していたドニ・ラヴァンの若き日の姿ではないか。何と言っても印象的なマスクだから分かったが、まさか出てるとは思ってなかったから驚いた。

 それはともかく…やがてナゾの失踪事件が起きて、お話はますますSFじみてくる。やがて戻ってきた失踪者は、やたら水をガブガブ飲みたがる。そして再び失踪…こりゃ面白くなりそうだと誰でも思うところだ。僕もこの俳優陣だし、これはきっと面白くなる…と忍耐強く見ていたんだよね。

 だが…これが何ともいただけない。

 何しろSF映画に必要な、一発了解の「絵」が全く出てこない。ロケットもモンスターも怪光線も出てこない。SF的なシチュエーションも出てこない。頭に手術の跡…だとか、太陽が現れなくなる悪夢…だとか、面白くなりそうな要素はあちこち出てくるのだが、それのどれもこれもがショボくれて終わるのだ。

 拉致されたピコリとブイックスが戻ってきて、宇宙人のメッセージとやらを発言するくだりでも、「宇宙人の姿はどんなだった?」とかいう、僕らが一番知りたい疑問には答えてくれない。このあたりでイヤ〜な予感がしてきたあなた、正解です。僕も何となくイヤな予感がした。そして予感はズバリ的中だ。

 何とお話はいきなり東西冷戦がまだ存在していた頃のエスピオナージものに早変わり。西側陣営の核戦略の脆弱さとそれによって迫り来る核戦争を回避するために、一連の「宇宙人」狂言をぶったのだ…と説明される。な〜んだ、いわゆる宇宙人SFではなかったわけね。それでも、とりあえず近未来政治サスペンスSFの体裁は…相当にユルく甘っちょろいけど…一応見てとれるから、ルルーシュ作品としてもフランス映画としても異色だと大目に見てやろう。

 こうして多少失望はしたが、こうして気を取り直して見直し始めた僕に、第二の衝撃がはしったのはそれからすぐのことだった。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何と「宇宙人」が東西冷戦が生んだ狂言だった…というだけならまだしも、何の事はないお話全体がピコリの夢でした…というオチで終わってしまうとは! まさに唖然呆然。しかも夢オチをバラしてからがまたダラダラとクソ長い。実際はピコリの妻はアヌーク・エイメでその娘がブイックスだというのだ。そんなピコリが身辺を探らせてみたら、妻エイメと浮気している男がいて、それが娘ブイックスの恋人ジャン=ルイ・トランティニャン。そんなこんなのユウウツが、ピコリに一連のSFサスペンス仕立ての夢を見させていた…という、SFとして一番つまらないトホホなエンディングを迎えるに至るのだ。

 まぁ、ルルーシュにSFを期待するのもどうかと思うが、これは「あまりにあんまり」だと思うよね。正直言って大愚作ビキニの悲鳴(1965)以来のくっだらないエンディング(笑)だと断言できる。一体これは何を言いたかったのか?…と声を大にして言いたくなる映画なのだ。

 そんな訳の分からない夢オチがなかったとしても…先程言ったようにSFならではの「絵」が一発も出てこないのが致命的。いくらでも面白くなりそうな趣向なのに、そっちの方には一向にカメラが向かない。代わりにピコリとランプリングのなれそめを延々ダラダラと描いたエピソードが挿入されたり、トランティニャンに唐突に求婚するブイックス…という理解に苦しむエピソードが描かれたり…と、どうでもいいような描写があまりに多すぎる。それも例によって例のごとし、手持ちカメラで延々と長回しするルルーシュ・タッチでダラダラやられるからたまらない。

 おまけに今回はどうした事か、ルルーシュお得意のフランシス・レイ音楽がない。フランシス・レイではSFタッチが出ないと思ったのか (笑)…なぜかレイではなくディディエ・バルベリヴィエンとかいう聞いたことのない名前の作曲家が起用されている。そのせいか、全編にピコピコと初期のテレビゲームみたいな安っぽい電子サウンドが流れている始末。これがまた、ただでさえ冗長でつまらない映画をより一層つまらなくしているのだ。最初からつまらない条件が揃っているのに、フランシス・レイの「お助け音楽」も入らなければもはや救いようがない。

 そもそもルルーシュの映画はドキュメンタリー風流し撮りが身上だから、演出やモンタージュでメリハリをつけたり、脚本のアイディアや話術の妙で観客を引っ張るサスペンスやらホラーといったジャンルには不向き。だからSFに挑戦という事自体に無理があったのだ。おまけに卓抜した発想もハナっからない。でなければ繰り返し「男と女」ばっか何十本も撮りはしないだろう(笑)。だからSF映画は、最初からルルーシュには無理だったのだ。せいぜいやってうまくいくのは、「2001年・男と女」とか「男と女」のタイムトラベル版とか…そんなとこでしかないだろう。

 それを知ってか知らずか、夢オチなんて最悪な選択をしてしまったのだろうが、これをやっちゃオシマイ。一つの失敗例として見るべき価値はあったものの、決してルルーシュは「もどき」とは言えSFに手を出しちゃいけなかったんだろうね。

 


Viva la vie ! (Long Live Life)

(1984年・フランス)

日本劇場未公開

ル・フィルム13、U.G.C.、トップNo.1 制作

監督・製作・脚本:クロード・ルルーシュ

出演:シャーロット・ランプリング、ミシェル・ピコリ、ジャン=ルイ・トランティニャン、エヴリーヌ・ブイックス、シャルル・アズナブール、アヌーク・エーメ、レイモン・ペルグリン

2006年1月9日・ビデオにて鑑賞


 

 

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